日本男子バレーが強い。昨日も楽々だった。今日のカナダ戦も楽勝できそう。もう1セットは取った。これだったら、安心してテレビ観戦できる。負け試合は見るに堪えないが、こう順調に勝ち戦をしていると浮き浮きしてくる。8時10分。いま日本中がそうだろう。
雨が降りそうだというし風が吹き出したしで不安材料があって、サイクリングは中止した。一番の理由は、右脚の膝が痛んでいること。これだけ痛んでいると自転車のペダルは長くは漕げそうにない。
で、講演会を聞いて帰宅した後は、いつものように農作業に従事することにした。水菜の苗を6株、地植えした。それからセキチクの苗3株を鉢植えにした。ちょっと早いけど畑の落花生を3株だけ収獲した。夕食に早速これを塩茹でしてもらった。いやあ、これがすこぶるおいしかった。
さぶろうが退屈しないでいいように、天地一杯が話し合いをして、こうやってあれこれ事前事前に準備してくれているのだ。話し合いをしてくれたこと、準備をしてくれたこと、さぶろうを愉快にしてくれたこと、これを感謝したい。
冴えない男である。この男しょぼしょぼしょぼくれている。目には目脂だ。両目とも。その男が、珠子を思っているのだ。珠子は美しい珠子だ。何処かにいてはいけない。何処かにいるような珠子であっては珠子にならないのだ。冴えない男である。女の人になぞおよそ縁がない男である。しょぼくれた男である。どんなに思っていたって、思慕を募らせていたって、こういう男の胸の何所にだって珠子は住めはしないはずである。狭くて穢くて老人臭の漂うような男の、どの胸の辺りにだって住めはしないのである。それをこの男、想像を駆使して造り上げる。造る粘土の材料もないのに。両目に目脂をつけ、せっせせっせと思いを募らせてその胸に置こうとする。やはり想像の栴檀香の香を焚きしめて。
なんぼう考えてもおんなじことの落ち葉ふみあるく 種田山頭火
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またここへ来てしまった。ほかに行くところがないのか。おんなじところへやって来るものよ。当たり前だ。秋の山は何所まで歩いて行っても落ち葉の山だ。これを踏みしめて歩くしかない。考えて考えているようだが、へぼ将棋だ。おんなじところ、帰家穏座へ落ち着く。へぼな考えを繰り返すようだったら休むに如かず。ちょいと休もう。帰って行くところは仏陀のところだ。この大きな秋空の落ち葉の家に穏やかなこころで座っていよう。
山頭火はこの四字熟語がことのほか好きであった。帰家穏座。座はわがこころの落ち着き場所、この世の寂滅涅槃の座だったかもしれない。
さぶろう。おまえそんなことが嬉しいか。誰の物でもないそったらことが嬉しいか。
へえ。そったらことが嬉しいのであります。
そったらことは嬉しがることでもあるまい。それにさぶろう。おまえそれを嬉しがってどうする。自慢にもなるまい。
へえ。どうにもならんのでありますが、これがどうにでもなるのであります。
訳の分からぬ屁理屈を言うな。
へえ。なんだろうとかんだろうと、あたたかくなるのであります。ただあたたかくなるのであります。広々となるのであります。これがどうにでもなったということであります。
秋空が澄んでいる。おまえそんなことがそんなに嬉しいか。
へえ。へえ。そりゃもう。
さぶろうが二手(ふたて)のふたりに別れてお喋りをしている。どっちがほんもののさぶろうだか区別が付かない。
世尊我一心 帰命尽十方 法性真如海 法化等諸仏 浄土真宗経典「帰三宝偈」より
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せそんがいっしん きみょうじんじっぽう ほっしょうしんにょかい ほうけとうしょぶつ
世尊よ/我は一心に/法性の真如海と/法化等の諸仏とに/帰命したてまつる/
世尊(釈迦牟尼仏)よ、わたしは一心になって帰命いたします。尽十方に広がって余すところなき法性真如海と、そこに現れ出てくださった法身・報身・応身の多くの仏たちに帰命いたします。
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1 法性真如海:
われわれが生きているこの世界は正法と真如で満ち満ちているとする把握を大きな海に喩えた表現。
2 法身仏:
仏教が明かす永遠不変の真理そのものを仏陀とするもの。(毘盧遮那仏・大日如来など)
3 報身仏:
菩薩が願いと修行を完成して仏陀となったもの。(阿弥陀如来など)
4 応身仏:
釈迦牟尼仏のように現実に姿を現して救済にあたる仏陀のすがた。(釈迦牟尼仏)
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はい。さぶろうは嬉しいのであります。無性に嬉しいのであります。これは仏陀の声だからこれを聞くと嬉しいのであります。今生で仏陀の声を直接に聞くことができたこのよろこびはダイナマイト爆発のようなよろこびです。これは中国の善導大師の編まれた仏典ですから、ここの「我」は善導大師ですが、ここにはさぶろうが含まれています。よろこぶさぶろうが含まれていたのであります。こうして三身諸仏の法性真如の海にさぶろうが生きていることを確かめ得たのであります。凄いことであります。
乞ひあるく水音のどこまでも 種田山頭火
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どこまでもどこまでも青い山が続いているように、どこまでもどこまでも山頭火には探究心が溢れ出てくる。こういう男も稀だ。水音がし出した。谷水だ。そこへ下りて行って一椀の水を掬おう。乞い歩く行乞の乞食(こつじき)は乞うしかない。頂くしかない。己の力をあてにしてのそれではない。もっと謙虚だ。もっと慎みがある。水音さえも頂く。天地の頂き物を頂く。これをごくりと喉に飲む。「どこまでも」は「行けども行けども」だ。どこまでも新鮮だということだ。探究心、道を求めて行く心というのはいつも変わらず場所を選ばず、常に新鮮な飲み水のある。今日の山頭火の顔は夏空のように逞しかった。
山しづかなれば笠をぬぐ 種田山頭火
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笠をぬいで座った。やすもう。やすむ理由づけは山だ。山がしづかにしているからだ。こうはいくまい。山頭火でなければこうはいくまい。直接の理由づけにはできまい。もちろん静かな山は今に限ったことではない。この日のこのときの山頭火の目に映った山がことさらに静かだったのである。彼のこころもこれに負けないくらいだったのである。山がそこに在る。存在していないものを含めた存在。在るということの確かさ、力強さ。こういうことにも彼はこころの安定を得るようになっていた。
ササゲ豆の蔓の細い先端がそよろそよろ秋風に踊っている。夏の間中を伸びて伸びて彼は大空へ出て来た。伸び伸びの自由は見ているだけでも清々しい。これを見て楽しんでいる男。閑な男だ。彼奴(きゃつ)は「踊れ踊れ」などと囃している。いい気なものだ。ここも天地だ。
けふはここまでの草鞋(わらじ)ぬぐ 種田山頭火
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山頭火が好きである。惹かれてここへ来る。また来てしまった。これは昭和9年の作。彼は其中庵(きちゅうあん)に戻って来た。こころに得るものがあったのである。それで草鞋をぬぐ気持ちになったのである。ここで休憩に入る。「ここまで来た」という感慨を得たのである。草鞋をぬいだら裸足になった。裸足の肌に触ってみる。よく歩いた。ほっこりとした今日へ辿り着けた。彼は自分のねぎらいたくなった。この句はめずらしく自己肯定に立っている。彼に肯定が座を占めているのだ。彼の日記の文から判断しても、迷妄の氷山の一角が解け出して来たことは事実だった。