<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

頭がよくならなくともいいのではないか

2016年03月05日 22時28分32秒 | Weblog

仏さまから守られているということが分かっていたら、それ以上に頭がよくならなくてもいいのかもしれない。(実際、さぶろうは頭がよくない)でも、悠然としてここでストップしてていいように思える。

 仏さまというのは特定の仏像ということではない。あれはシンボルであって、示唆に過ぎない。仏さまというのはもう少し広がっている。この世の全体だ。宇宙中の全部が全部だ。

全部が全部でさぶろうを生かしている。さぶろうを守っている。さぶろうを究極の素晴らしいところへ導いている。

その途中にはいろいろとある。そうでないように思えてしまうこともある。さまざまにあれこれがあるけれども、それはそこで行き止まりではない。そこを経由して行くだけの話である。

さぶろうはことほど左様に楽天家だ。さぶろうは仏さまに守られている男である。一人で生きているなどとは思っていない。一人の判断力でこの世のすべてが分かるなどとは思っていない。

常に大いなる智慧によって、大いなる慈愛によって「しかあらしめられている」と思って安心をしているだけである。

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諸仏はさぶろうを救うために全力を尽くされている

2016年03月05日 21時30分21秒 | Weblog

諸仏救世者 住於大神通 為悦衆生故 現無量神力   

妙法蓮華経「如来神力品第二十一」より

しょぶつぐせしゃ じゅうおだいじんづう いえつしゅじょうこ げんむりょうじんりき

諸仏は世を救う者なれば、大神通に住して、衆生の為の故に、無量の神力を現じたまふ。

世の人々を救わんとする諸々の仏陀たちは、大いなる神通力の通る世界にましまして、衆生のひとりであるさぶろうをよろこばせようとなさって、次々に計り知れないほどの見事な手段を講じられているのだ。(さぶろうのための解釈)

神通力の「神」は「秀逸の」という形容詞か、「秀逸なる者」という名詞だろうか。「自由自在な超人間的で摩訶不思議な力」「何事をもなし得る霊妙な力」というほどのことか。この後に、その具体的な行動が記してあるが、さぶろうは総体的に受け取ってこれでよしとしている。勝手な解釈だが、これをこころみて悦に入ることにする。

1) 「諸仏は世を救う者である」 

諸仏はさぶろうを救う者である。さぶろう一人を救うために多くの多くの仏たちが、仏に成られている。仏は宇宙中にいらっしゃってその数も知れないほどである。その仏たちがさぶろうを守っておられる。さぶろうを導いておられる。

2) 「衆生を悦さんがための故に」

衆生の一人がさぶろうである。ここではさぶろうが代表格である。さぶろうがこれをよろこぶのが仏たちの仕事であるから、さぶろうがよろこぶと仏たちがおよろこびになられる。

3) 「無量の神力を現じたまふ」

いま現に数限りない力を現してさぶろうを守って導いておられる。しかも尽きることがない。何処までも何処までもそれを続行しておられる。この力のなすところが摩訶不思議で摩訶不思議である。その摩訶不思議の第一はこうだ。さぶろうに大空をお見せになりこの下に住まわせたまふ。

4) 「大神通の世界(=仏の世界)に仏と成って住しておられる」

衆生を救うとはこの仏の大神通世界に衆生を引き入れることである。此処へおいでおいでをして手招きをしておられるのである。如来神力品(品は章、チャプターの意)は全体で「こうやって法華経の教えるところを信じて弘めよ、そのための後押しは仏が力を尽くす」ということであるが、そうなっている(法華経が教えている通りになっている)ということに安心をしていいということでもあるのだ。

法華経は何処の一部分をピックアップしても全体になっている。「さぶろうを守る」と書いてある。「さぶろうを仏の世界にまで導くぞ」「すべて仏にまかせていていいぞ」「そのための力(神通力)は残すところなく授けるぞ」と宣言してある。それでさぶろうは、その一部を引いてこういうふうに大袈裟によろこんでいるのである。

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楽しい畑作業

2016年03月05日 20時13分51秒 | Weblog

午前中も午後も畑の草取り作業に従事した。お昼ご飯のときは除いてだけど。ぽかぽか陽気でおだやかだった。わがこころも同じくおだやかだった。近くの麺工場から有機肥料をただでお分けしてもらって、これを草取りが済んだところに振りまいた。今回が初めてだからこれがどのくらいの効き目があるのかは分からない。或いは効きすぎるのかもしれない。耕して漉きこまねばならないところだが、そこまでは至らなかった。6時半ほどまで畑にいてあれこれ気がついたところの作業をした。充足した一日になった。この年になってまだ畑に出られるとは嬉しいことである。作業量は高が知れているのだが。白菜を6株抜いた。もう薹が上がる寸前だった。

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風狂

2016年03月05日 09時02分26秒 | Weblog

したくないことはしない。したくないことをしないでいることは最高の贅沢である。しなければならないこともしない。しなければならないことをしないのはこれまた最大の怠慢である。怠慢は贅沢には負ける。こうして、これはしたくない、あれはしたくない、それもしたくない、となる。赤ん坊だ。息はついていなくてはならないので、かろうじて息をついている。ふうふうふう。人はこの我が儘の傍若無人ぶりに耐えられないので、自然にスルーして離れて行く。すると、ときおり人恋しさで涙にくれたりもする。しかしこれは自業自得だ。同情の余地はない。新しい仲間を探すしかない。花がある蝶がいる風が吹く月が冴え渡る。こっちへ靡いて行くしかないではないか。彼らにおべっかを使うことはない。調子を合わせてくれるばかりで、こちらから別段の調子を合わせることもない。風狂する。常軌を逸するばかりの風狂だから、俗を離れて風雅に徹するということもない。俗界の俗人をほしいままにして、無様な形(なり)の遊士遊子というだけである。

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我が輩は立派な頑固爺なり

2016年03月05日 08時48分26秒 | Weblog

人に束縛されるのは嫌だ。人を束縛するのも嫌だ。宙ぶらりんがいい。ふらりふらりがいい。捕まえられると拘束を受けることになる。ああだこうだと条件を付けられる。そうすると相手の条件通りのいい子にしていなければならない。からだに条件の紐をつけられたようで藻掻き出す。ふうらりふらりがいい。軽いのがいい。人と一緒にいるとその人を嫌にさせないために愛想笑いをしていなければならない。これも苦痛だ。先を読んで先を読んで言葉遣いにも注意をする。これも面倒臭い。ここまで生きた。もうどう思われたっていいのだ。おれはおれだ。こうして協調性ゼロになる。相手のことはほっぽり出す。知らぬ存ぜぬになる。行きたいところへ往く。したいことをする。したくないことはしない。我が儘がどんどん昂じていく。もはや立派な、押しも押されもしないほどの強烈極まる頑固爺である。頑固爺は一人がいい。一人自転車に跨がって春の野原を走る。一人で畑に出て草取りをする。仰いで空の雲をわが唯一の友とする。これしかない。こうしているとときおりやさしい春の風が頬を撫でてくれる。

 

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おだやかでいる

2016年03月05日 08時30分54秒 | Weblog

今日は3月5日。啓蟄。お邪魔虫が穴を出て来る。昨日畑の草取り作業をしているときに、早くもお目に掛かった。小さな虫だ。顔の周りを飛び回った。この辺りでは「せせい」と呼ぶ虫だ。これに刺されると顔が赤く腫れ上がって痒くなる。やだなあ、だ。まあ、しかし、虫から言わせるとこれまで姿も見せずにさんざん我慢をしていたのだから、この時が到来したらちょっとは暴れたくもなるだろう。それも分かる。気温が昨日は20度に達していた。下着を夏用の半袖シャツに着替えねばならなかった。もちろん夜は毛布が要らなかった。掛け布団から足先を出しておかねば暑苦しかった。

おだやかである。空がおだやかである。日射しがおだやかである。風もない。蕗が土を割って青い小さな葉芽を出してきた。さまざまな野菜の菜の花が畑を占めるようになった。花粉が蒸れて匂う。気象がこんなにおだやかならば、さぶろうの気象とておだやかになっていていい。おだやかでいる。雀さえそうしている。騒ぎ立てないでいる。

おだやかでいるのはいいことだ。呼吸が深くなる。幸福気分が深くなる。昨日に引き続き今日も畑に椅子を出してこれに座って草取りに励むとしようか。励むほどのことはない。ゆっくりゆっくりでいい。遊び遊びでいい。霞の空を見上げ見上げでいい。

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