<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

仏陀の手招きをずっと見ています

2016年03月15日 19時14分23秒 | Weblog

仏陀がさぶろうを導いています。こっちだぞこっちだぞというふうに。さぶろうは仏陀の手招きを見ています。

傲慢になってはいけませんが、導かれているさぶろうです。仏陀に導かれているさぶろうです。それだけ大切にされるだけの価値のあるさぶろうです。

そうでなくてはこの世を生きて往くことは出来ないのです。一日も。さぶろうが生きられるようにしてくれているのは仏陀です。仏陀の慈悲慈愛です。

太陽を昇らせて明るい昼を提供し、太陽を沈ませ休息の夜をしつらえてくれたのは仏陀の法です。そこへさぶろうが生まれて来て生きているのです。

さぶろうが太陽を昇らせなくてもすんでいます。地球をぐるりと回転させて夜にするのもさぶろうではありません。

その労を執る必要はありません。みんなそれはそうせしめられているだけです。すべての条件が完了しているところへさぶろうが招かれたのです。そしてそれがずっと続いています。

仏陀がさぶろうを導いています。こっちだぞこっちだぞというふうに。さぶろうは仏陀の手招きをずっと見ています。こうして春の一日が終わりました。

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1日分だけゴールに近づいた

2016年03月15日 18時58分05秒 | Weblog

こうして日が暮れました。太陽が沈みました。暗くなりました。1日を生きました。目に見えてそれだけの進歩向上があったかどうかは分かりませんが、そうできるような条件の下を生きたということですから、塵も積もれば山となるのかもしれません。こういう発想はおこがましいようにも思えますが、しかし、仏陀はそういう努力をしたはずです。1日分しっかり進歩向上があるようにと確実にパワーを送ったはずです。ですから、それが無駄になったとは思えません。さぶろうが仏陀の努力に報いることができたかどうかは甚だ疑問ですが、仏陀の努力に間違いがあったはずはありません。日が暮れました。1日分だけゴールに近づいたはずです。このゴールはさぶろうが設定したものではなく、仏陀がさぶろうのために設定をしてくれたものです。よろこびたいと思います。

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春の日をサイクリングして楽しみました

2016年03月15日 18時37分06秒 | Weblog

サイクリングができました。専門店で新しく買って来たスポーツタイプ18段変速ギアつき自転車で。わざと上り坂のあるところを選んで17km走り抜けました。軽々と。ギアを切り替えるといいので、前方に上り坂があっても気になりません。そのかわりペダルの回転数がそれだけ増えることになりますが。平道、下り坂は恐いくらいスピードが出ます。時速30km/hを超えました。ヘルメットも買い込みましたのでこれを装着しました。背中には装備品かれこれを畳めて収納する若者風リュックを背負って。70才がしばし若者に変装しました。下校中の小学生たちが「おおおお、あれはおっさんだぞ」と冷やかしました。軽快に走るのでついついいい気になってしまいます。いきなり張り切りすぎた右脚の筋肉が悲鳴を上げていました。きっと明日あたり強張るでしょう。でも、楽しい春の日を楽しく過ごせました。充実の一日です。

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のどかだ 麗らかだ 春の陽気がたっぷりだ

2016年03月15日 09時56分29秒 | Weblog

のどかだ。麗らかだ。春の陽気がたっぷりだ。雲雀が喜びそうだ。菜の花が踊り出しそうだ。蓑虫が蓑の隙間からちょいちょい覗き見をしているだろう。さぶろうもわくわくして来る。家の中に居てことばのシャワーを浴びているだけでは済まされなくなって来た。外へ出たくなる。溢れて来る光で身もこころも包まれていたくなる。そよ風が吹いている。高くせり上がった辛子大根の葉っぱがゆらゆらして旗のようだ。これじゃ案外、外へ出たらまだぶるぶる震え得るかも知れないぞ。日が中天に昇ってきたらしかし大丈夫だろう。大空の目配せに応じながら、すいすい麦畑の中をサイクリングをしたくなってきた。それにしてもガラス窓の向こう側はのどかだ。麗らかだ。春の陽気がたっぷりだ。

 

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