お風呂は寝る前に5分でいい。冬を越した。もう暖まる必要がなくなった。身体を洗ってそれで終わりでいい。汗も掻いていないし、簡単だ。お布団も毛布類なし。一枚でいい。といいながら、また今週末には寒くなるらしい。三歩進んで二歩下がる式のようだ。庭の沈丁花が咲き出した。白く清く匂っている。さぶろうは夕方からはクラシック名曲三昧。ひとりを楽しむ贅沢というものをしている。
小さな野バラの黄色を玄関の下駄箱の上に飾った。鉢植えにして。きれいきれい。玄関までもがきれいになった。これでよし。鉢には油粕を数個施肥しておいたから、春になれば蔓茎を伸ばすだろう。元気な葉っぱを青くして。
腑に落ちないよね。こんなことを喋っても。「おれがしたことがすべてだ」と了解しているよね。当たり前だよね、それが。「おれにはそれをする力があった、だからなし得たのだ」と過信しているよね。でもね、目に見えないけど、助っ人たちがわんさと詰めかけてきていっしょに従事してくれていたのだよね、ほんとうは。彼らが自己主張をしないものだから、それが判明しないだけの話だけど。「おれがした」「おれもした」を彼らは言わない。言うのはいつも「おれ」だ。10分の1をした「おれ」が10分の10をしたといって自慢するのだ。吹聴するのだ。10分の9の加勢があったればこそだったのに、それを言うと角が立つので、彼らはそれを一切口にしないで黙っていてくれる。勝ちをみんな「おれ」に譲ってくれてそれで不平を鳴らさないのだ。出来が違うのだ。すでに格段の向上を果たしているのでそういう瑣末には執着していないだけなのだけど。とにかく、加勢が入っている。味方になっていてくれる。
何故か? 彼らは利他の行をしているのである。そしてそれをしているという自意識に苛まれないでもすんでいる。 何故か? わたしが進歩を成し遂げることが全体の目的だからである。
わたしの田を耕す。これを喩えに引いて説明をしてみよう。
*
わたしがわたしの田を一人で耕す場合、一日で耕せる領域というのは限られている。でもわたしは一人だからひとりでとぼとぼと日暮れまで耕し続ける。これがわたしの労働量と言うことになる。
でも、次の日にわたしの田へ行ってみるともうみんなが耕されてしまっている。
わたしはたしか昨日一日では全体の10分の1しか耕し終えていなかったはずなのに、残りの10分の9までもが耕し終えられている。
そういうことが起きてしまうのである。
この10分の1がわたしの体験の量である。10分の9が非体験の量である。
でも、これがひっくるめてわたしの田の労働量になっている。
*
こうしていつも手助けが入っているのである。加勢が入っているのである。だが、わたしはほとんどそれに気がつかない。フォローがあったとは気がつかない。
そして次へステップアップする。移行する。人生が次へ進むことになる。
*
おれの力ですべてがなし終えられていたというふうに思い込む。しかし、フォローは常に行われているのである。助けが入っているのである。
1
わたしが経験したことがすべてではない。それを知っておこう。経験しなかったことは、経験したこと以上に大事なことである、ということをも知っておこう。
2
いわば秘密裏とでも言えばいいのだろうか。わたしが経験しなかったことでも、秘密裏に進行はしていたのである。そしてそれもわたしの所在・所収として含まれていたのである。
3
経験しなかったことと言うのは、だから、補完という言い方をしてもいい。経験で埋め得なかったことを、わたしに代わって自動的に補完してくれるのである。
4
たといその割合が、経験したこと1に対して経験しなかったこと9という場合だってありうる。
5
そうしないと大変なことになってしまうのである。経験したこと1だけでは到底越していけなかったことでも、経験しなかったこと9があるとそこを楽々悠々渡って行けると言うことがあるのである。
6
経験しなかったことというのはわたしには認知できなかったことでもある。それを代行してくれたものがいるのである。フォローしてくれたものがいたのである。
7
そういうことでロスをしないで生きてこられたということがあるのである。誰かが常にフォローに回ってくれていたという事実があったのである。
8
わたし以外の誰かが代行したとしてもそれはわたしの所収の範囲に収まっているので、帳簿にはちゃんとわたし宛で登録が済んでいるのである。
9
わたしは、知らぬ存じぬですまして来られたのである。補完者がちゃんといてくれていたのである。ああ、よかったと胸を撫で下ろすということが、だから、その後で、起こるのである。
さぶろうは、どうでもいいことばっかり書いている。読んでもらう方には申し訳がない。役立つ情報なんてなんにもない。
とととと、しとしとと雨が降って来る。これでいいから、こうなっている。これが最高だからこうなっている。そこにさぶろうがいる。だから、さぶろうも最高を過ごしていることになる。といういい加減な自己解釈をして、働きもせず勤勉にもならず誠実にもならず。のらりくらりしているさぶろう。
そういうのらりくらりのさぶろうの、波動を宇宙の愛で最高に上げてもらっているのを感じる時間、いまは。しばらくでいいから静かに瞑想をしよう。目蓋の奥をあたたかくしていよう。それをそうせしめている宇宙の意思を感じていよう。いまはそれを感じ取る時間。おごそかな、やさしい時間。
部屋の中は寒い。炬燵に足をのばしている。雨は降り続いている。お習字から戻って来てひとりで留守番。さみしい。なんとかなるだろう、でも。市役所からお昼のチャイムが鳴っている。お昼はどうする? どうしようか。食べても食べなくてもいい。でも腹は空いている。おうどんは湯がくのに時間が掛かるし、お素麺にしようかな。
お習字でお師匠さんの長女のSちゃんとなぞなぞをしていっぱい遊んだ。お遊戯もたくさん見せてもらった。お師匠さんは次女のKちゃんを前抱きしたまま通された。お母さんは強し。重かったのじゃないのかなあ。「巣立つ鳥」の行書をお手本に書いてもらい練習しました。お稽古は月に2回です。3月は今日で終わりました。
あやや。風が出てきた。ほっそり首長の菜の花が倒されてしまうそう。あややや。お、風が止んだぞ。これで立ち直ったぞ。
*
会話をする。
誰と?
うん、さぶろうを大好きだという変わり者さんと。
何処に居るの、そんな人?
見えない。
だからまったくのフィーリング。
でも、会話をすると会話が出来る。
小さいの?
うううん、違う。大きい。
太陽くらい大きいときもある。月くらいのときもある。
大小は自由自在って感じ。
光だけってときもある。
感じていればそれでいい。そこにいてくれる。
「きみが好きだよ」を100回も1000回もささやいてくれる。そしてそれを実行してくれる。
さぶろうはそこで仰山嬉しがって見せる。飛んで跳ねて踊って舞って。
ここは嬉しがるところなんだということを再度認識する。
*
またぞろ、ヘンなことを書いちゃったかなあ。
なんだか分からないが嬉しい日。
なんだか分からないが嬉しいことがたくさん膨らんでいる日。
インスピレイションだから説明のしようがない。
嬉しくなる宇宙エネルギーの受信能力が急に、はっきりと、強くなっている。
じんじんじんじんする。むずむずむずむずする。
さぶろう大好きお助けマン1万人の仕業かもしれない。
彼らがこぞってさぶろうを嬉しがらせよう嬉しがらせようとして競っている。
さぶろうは、で、うふ、うふ、うふふしているだけでいい。
*
誰もがこうなんだが、大概は「まさかそんなことはあるまい」と高を括って信用しないので、お助けマンたちは当てが外れるのだ。
なあんだ、信用なしなのかとがっかりして通り過ぎて行ってしまうのだ。
「きみたちのお陰だよ。嬉しいよ」と言って手を挙げるとにっこりしてますます嬉しいことをしてやりたくなるのが彼らである。
嬉しがって見せてやるとこれが本当だと言うことが証明される。
*
お助けマンたちはこれが彼らの修行であって仕事である。
「お助けマン」は仮称である。なんと呼んでもいい。とにかく大好きな人を見つけてその人を<助けよう><喜ばせてあげよう><嬉しがらせてあげよう>としている存在たちである。目には見えない。
大好きな人をこの世で見つけるだけでも彼らの向上能力は進むことになる。
*
大好きな人を見つけるって、別の言い方をすると、恋をするってことだよね。人を好きになるってことは、自分を好きになるってことでもあるのだろうね。
*
ヘンなことを書いちゃったのかなあ。
このパソコンから5mほどさきに花壇があってそこに首が1mほども長い菜の花が一本ゆうらりゆらり微風に揺られている。遅く蒔いたものをここへ移植しておいた。巻かなかった白菜は黄緑の葉っぱだけをどさりと付けている。で、どうしてこうも長い細い首をしたくなったのだろう。細く長い菜の花の首の転変辺りに花房が固まって咲いている。種子を風に運んでもらいたいってことなんだろうね。
霧雨が降っている。ヒヨドリが遠くで鳴いている。おいらは今朝は10時からお習字。教室に通う。雨だから自転車では行けない。サツマイモを蒸かしたのがあるから、これも持参する。お師匠さんの2才になる長女も同じ部屋でお絵かきをしている。彼女も芋が好き。