大宮13時44分発船橋15時02分着のアーバンパーク急行は混んでいたこともあり、あまり写真撮影せず。柏駅で5分程停車し、スイッチバック(方向転換)して船橋へ。
東武線の駅名票は国鉄と同じく都道府県名、市町村(区)まで表示されています。
15時2分に着いたばかりなのに11分後には折り返して大宮に向かってしまいます。
15時21分発は快速君津行き。ちょうどよい接続。
このきっぷと、2枚目は
この組み合わせ。船橋から五井まで通しで購入すると510円。このように分割すると、470円。しかも、JR西日本のe5489。千葉県内全地域JR西日本のe5489で予約できるとはいえ、【区】東京都区内の駅、または北陸新幹線の停車駅でしか発券できません。そのため、秋葉原駅、大宮駅発行となっています。
やってきたのは、新しいE235系です。2020(令和2)年にデビューして、今年は7年なので、あっという間に5年。先代のE217系は1994(平成6)年デビューしてから早くも31年経過。E235系が量産するつれに、古いのはあまり見かけなくなりました。
小湊鐵道は往復券を購入すると2日間有効、1割引になります。1泊2日の旅なら、往復券のほうがお得になります。
E235系とはギャップありすぎの小湊鉄道のキハ200。昭和の国鉄、キハ20をベースにしているので、かなり古めかしい雰囲気がします。
後ろはキハ207、先頭はもっとも古いキハ201。1961(昭和36)年製造なので、御年64。
E235系は令和の真新しい車両、こちらは昭和にタイムスリップ。
大宮から千葉へ帰るのに来た時と同じルートではなく、東武野田線なら船橋まで乗替えなしでずっと乗れます。
13時44分発の急行船橋行き。船橋まで62.7キロを1時間15分で行けてしまいます。
見た目は令和っぽい雰囲気の新型車両に見えますが・・・実際は10年近く昔の2013(平成25)年にデビューした60000系。メーカーは日立製作所なので、山口県下松市で製造されたものです。
さらに新しい車両の80000系を2025(令和7)年にデビューする予定だそうです、
鉄道博物館内の食堂でランチです。目移りしてしまいそうなメニューですが・・・・
迷ったら、これ!列車乗務員のまかない丼「ハチクマライス」。
案の定、ボリュームたっぷりです。運転士さん、車掌さんは集中力に栄養やカロリーを要すので時短で食事ができるようにこのように盛り込まれたのではと思います。
大宮の鉄道博物館の中にあった、古き良き時代の「東京」の駅名票。
昭和39年10月1日東海道新幹線開業当時の東京駅ホーム。まだ新しくてピカピカな状態なのに、柱に灰皿思しいものが取り付けられ、当時は喫煙天国だったのです。
真新しい0系新幹線も全車両喫煙車でスタート。たばこ吸い放題の車両なんて、今の感覚からにすると信じられませんが・・・。国鉄が遺した大きな赤字をたばこ税のおかげで補填できたと聞いています。
昭和39年10月1日午前6時、新大阪行きの1番列車が出発した直後。
開業当時の指定席券。今みたいにマルス端末または券売機で発券するのではなく、あらかじめ印字された硬券を駅員さんがセンターに電話をして席を確保したら、ボールペンで券面に転記して発売していました。
新幹線の本数が今後増えるようになり、手書きだと追いつけなくなるかもと当時の国鉄が日立製作所にコンピュータで指定席を発券できるように開発して欲しいと依頼してから1年後の1965(昭和40)年9月24日に全国の主要駅にオンラインで結ばれたマルス端末配備。印字されたきっぷの色が緑色だったので、「みどりの窓口」と名付けたそうです。
新大阪発の1番列車も「ひかり2号」。開業当時の指定席料金は1300円でした。今は5600円~6000円なので、60年でおよそ5倍になりました。
1964(昭和39)年当時の封筒に貼付する切手は10円。現在は110円なので、当時と比較して11倍。
旧型国電のクモハ40。戦後の高度経済成長期にデビューした101系が出来る前は吊り掛け駆動方式は旧型国電と呼ばれています。吊り掛けとは、唸るようなモーター音が客車内に響き渡り、特色な音が発生するようです。
クモハ40は山口県の宇部線や小野田線で活躍していました。
日本で最後まで旧型国電が活躍していたのは、山口県の小野田線本山支線の雀田から長門本山間のわずか2.3キロです。
オレンジカードさがしてみたら、出てきました。表面だけでどこのJRが発行されたのか記載がありませんが、裏面は・・・
JR西日本です。右にある数字は、頭の20はJR西日本。ちなみに、00はJR東日本または国鉄(国鉄広島鉄道管理局なのに、00)、01はJR北海道、10はJR東海、30はJR四国、40はJR九州。左から3番目、4番目は発行年の西暦下2ケタ。00なので、2000年発行です。信じられないことに24年前のものになってしまいました。
クモハ40の車内。こちらはロングシートですが小野田支線のクモハ42は4人掛けボックスでした。
昭和の懐かしい香りがするのは、これでした。
木製の床に防腐剤の油。旧型客車も同じく、床に油が敷いているので、乗ったとたん特色のある香りがする発生源は床から。
昔は丸い電球を使用。寿命が1000時間と短く、こまめに交換するのが大変だったかも知れません。
ドアの向こうは運転席。今だったら、お客さんが見えるようにオープンになっていますが、国電時代は見えないように仕切りがついています。国電時代はタバコを吸いながらの運転も黙認されていたかも知れない。昔は車内でも喫煙可なので、運転席から漏れ出る煙のにおいくらいで通報されなかったかも。
日本国有鉄道(JNR)は前身の鉄道省を引き継ぎ、1949(昭和24)年6月1日設立。
国鉄が赤字を訴えるポスター。長針ひと回りごとに3億円近い赤字。(略)赤字を刻み続ける時計を、なんとか止めたい。1日も早い国鉄改革が必要です。
国鉄です。民営分割で元気になります。
それで、1949年(昭和24)から38年後の1987(昭和62)年に国鉄は解体し、民営会社のJR6社に継承。
今年は37年目なので、来年(令和7)年になれば、国鉄38年間と同じ期間になります。JRに変わって、いろいろな改革が行われましたが、1番残念だったのはJR北海道。JR北海道に継承した路線は国鉄が残した路線がたくさんありましたが、現在は寂しくなるほどスカスカになりました。
旅立ちJR号は、国鉄最終日の1987年3月31日、東京駅からJR各社の本社になる駅に向かって出発しました。
国鉄最終日の1987年3月31日に限って、国鉄全線謝恩フリーきっぷ。普通乗車券・自由席特急券6000円と書かれていますが、新幹線も含まれていたか不明。もし、含まれていたら、当時は山口県のなにもない田舎に住んでいて、春休み。朝の始発5時台、最終列車23時なので山口から東京まで新幹線で日帰り往復もできていたかも。
コーポレーションカラーが青色のJR西日本発足時の路線図。今は無き美祢線大嶺支線が見えます。
こちらは赤いJR九州の路線。田川線は平成筑豊鉄道に転換、宮田線、上山田線は廃線。
昭和30年代の戦後の高度経済成長期にデビューした101系。
今の新しいE235系に乗り慣れてしまうと、この風景は世代のギャップを感じられます。京葉線もこのタイプの103系が走っていたのは2013(平成25)年頃まで。
国鉄時代の「みどりの窓口」を増やす宣伝のポスター。
国鉄時代は「みどりの窓口」が増えましたが・・・今は「みどりの窓口」を減らします。
八重洲口なら今はオレンジ色のJR東海が陣取っているところです。
乗車券の経由欄に「新幹線」を組み込めば、当日限り下車前途無効の「東京近郊区間」から外れ、有効期限が延び、経路内での途中下車も自由になります。
房総半島を途中下車しながらくるりと一周し、東京。大宮に向かって1泊。その翌日は久しぶりに「鉄道博物館」へ。
鉄道博物館に入るとすぐ目にするものは・・・やはり鉄道第1号の展示でした。
日本で初めて鉄道が開業したのは、新橋(今の汐留驛)から横濱(今の桜木町驛)までで1872(明治5)年10月14日。(旧暦は9月12日)。第1号機は、イギリスから輸入された蒸気機関車。
これが第1号機です。この蒸気機関車が新橋を出たら、品川も停まりますが、1872年当時は今の様子からにして信じられないほどの海岸沿いでのどかな田舎のローカル線で見られるような駅舎がひっそりと。今の品川駅は明治時代からあったものだけど、駅前の海岸はすべて埋め立てられています。
日本第1号の蒸気機関車にイングランド製と書かれている銘板。
1914(大正3)年に東京驛開業。当時は「とうきやう」。
駅名票も左からではなく、当時は右から。
東京から下關ゆきの富士號特別急行の看板。戦前の漢字はほとんど旧字体なのです。当時は蒸気機関車で決められた区間ごとの機関士さん、助手さんが休みなく石炭をくべてくべて・・・途中で石炭と給水を繰り返し1000キロも突っ走ったそうです。
今だったら、東京から下関までの列車はありませんが、新山口に停まる「のぞみ」に乗れば、新山口で「こだま」に乗り替えて新下関。普通列車で2つめの駅、下関に到着するまでおよそ5時間半。蒸気機関車時代は「特急」でも午後3時出発なのでけっこう時間がかかったに違いない。
2024(令和5)年10月19日は、半袖にハーフパンツでも暑い1日でした。10月の半ばを過ぎたのに30度の真夏日なんて異常気象です。20日は急激に気温が下がるようです。
普段は大型量販店またはアマゾンなどのネットショップですが、パソコンの画面だけでは確認しづらい商品は実物を見てから購入するかどうか決めるので、秋葉原で途中下車。
秋葉原からは特に急がないので、京浜東北線のE233系で大宮へ。「京浜東北線」は通称であって、さいたま市の大宮から神奈川縣鎌倉市の大船までの各駅に停車しますが、正式な路線名は大宮から東京までは「東北本線」、東京から大船までは「東海道本線」。
(日中、田端から浜松町までの山手線と並行する区間は快速運転が行われます。通過駅は西日暮里、日暮里、鶯谷、御徒町(平日は通過)、有楽町、新橋)
ここは「鉄道のまち大宮」です。
このきっぷを大宮駅の自動改札機に挿入したら、出場可。きっぷは回収されず戻ってきました。
7月21日18時前の大宮駅。今の季節、日没時刻は16時59分ですが、およそ3か月前はこの時間になってもまだ明るい。
夏至から1か月経過。日没時間が少し早くなったような気が・・・。
今夜のディナーはそごうのレストランを見て決めようとエレベーターで上がっているところです。
勝浦駅で大勢のお客さんが乗っていかれ・・・2両編成のワンマン電車は瞬く間に混雑。ここは東京行き特急「わかしお」の始発駅なので、みどりの窓口はあるはずかと思ったら・・・なんと2023(令和5)年12月に「みどりの窓口」閉鎖。その代わり、リモートの話せる券売機設置。
勝浦を出ると、次は御宿駅。御宿(おやど)とも読めるんですけど、正しくは「おんじゅく」。ここでも、みどりの窓口はあったはずなのに、2022(令和4)年6月に撤去。代替となる指定席券売機もありません。調べてみたら、途中の大原、上総一ノ宮、茂原、大網、土気(とけ)、誉田、鎌取のみどりの窓口は撤去、代わりとなる「指定席券売機」設置。つまり、蘇我までずっと対面販売の「みどりの窓口」がありません。20年くらい前だったら、房総半島のJR駅に「みどり」のマークがあったのに、今はもうすっかり無くなっている状態。
確かにスマートフォンやパソコンが「みどりの窓口」になっていますが・・・スマホやパソコンをお持ちでない方や、持っていてもうまく使いこなせないデジタルデバイド(情報格差)のことを考えて、各市の中心駅となる駅に「みどりの窓口」を残すとか、そのようにして欲しい。
浪花駅停車。車内では混んでいて写真撮れず。大原駅も同様でした。いすみ鉄道の始発駅ですが・・・。次は三門駅停車。JR九州の三毛門駅!?と錯覚してしまいそう。子どもの頃、日豊本線に乗っていて、三毛門駅は福岡県最後の駅。(のちに、1995年、吉富駅開設)山国川に架かる鉄橋を越えてしまえば、大分県!!遠くまで旅行できたな~っていう感じに眺めていたので、印象に残る駅でした。
縁起が良さそうな駅名の長者町駅です。福岡県の篠栗線と香椎線の交差となる長者原(ちょうじゃばる)駅もあります。九州や沖縄では「原」を「ばる」と読むところが多いです。
終点、上総一ノ宮駅到着。満員だった2両編成のワンマン電車から向かいの10両編成京葉線東京行きの電車にどっと一斉に駆け込み乗車。
2両から10両なので、十分席はあるはずなのに、なぜか皆は席取りゲームをしている。ついに私もダッシュで席取り。
上総一ノ宮発東京行きの京葉線快速はいつも見慣れたE233系かと思ったら・・・この日は在籍車両が少ないレアな209系500番台を充当。平成12年製造と書かれているので、車齢24年目。ちなみにE233系は平成22年デビューなので、早くも14年経過。
まもなく勝浦駅です。
もう少しで・・・
2023(令和5)年6月上旬、一家そろってジローさんの卒寿祝いでお世話になった「黒潮の宿 臨海荘」の建物が見えます。滞在中、新しいE131系が行き交っている様子を見て、あの車両に乗れるのはいつになるのやらと思っていたことが今、実現。
海に近い宿なので、部屋から眺める海の風景は抜群。とても美味しい魚介料理が運ばれてきました。段差が少なく、高齢者向けのバリアフリーに関しては配慮しているほうだと思います。
2両編成のワンマンカーですが、国鉄時代は長編成の列車が発着していたと思わせるような長いホーム。
2024(令和6)年3月のダイヤ改正までは、ラインカラーがワインレッドのE233系が夕方のみ京葉線から外房線に直通し、勝浦までの運用はありました。E233系デビュー前はスカイブルーの201系でした。
勝浦に到着した電車は翌朝の東京行きの通勤快速として設定されていました。内房線も上総湊行きもありましたが、わずか半年後の9月に復活しています。上総湊は復活して、勝浦は復活しないなんておかしな話です。
ちなみに勝浦から東京まで110.1キロ、上総湊から東京まで98.1キロです。毎日往復200キロの通勤客はいらっしゃるんでしょうか。
ずっと昔、都心のサラリーマン時代。23区内は家賃がとても高くて住められないからと、東京の西へ西へ西へ・・・。東京まで片道30キロといっても、朝の通勤ラッシュアワーはかなりエネルギーを取られるほど疲れたという記憶が・・・。途中の三鷹駅は地下鉄東西線の始発なので、1本は見送り、次の電車なら座れると並んで待機。昭和の5000系m平成の05系(当時の東西線車両)またはJR301系のドアが開くなり椅子取りゲームみたいに素早く席取り。
今の東西線車両はどうなっている?と調べてみたら・・・東京メトロは15000系、東西線に乗り入れるJR車両はE231系に置き換わっていました。
次は御宿駅に停まります。
行川アイランド駅を出ると、次は上総奥津駅に停まります。
上総興津駅。静岡県の東海道本線にも「興津駅」があるので、こちらは旧国名の「上総」を冠したと思われます。
駅員さんの姿は見えず、無人駅かと思いましたが、POS端末が置かれている業務委託駅でした。(POSとは、オンラインの回線を結ばない乗車券発券システムのことです)
次は鵜原に向かいます。ちょっと海岸が見えました。
ここでも「鵜原海水浴場」が有名になっています。小笠原や青ヶ島など伊豆諸島の海は泳いだことがあるのに、千葉県民になってから千葉の海は1度も泳いだことはありません。次は、勝浦駅に停まります。
次は安房小湊駅停車。
ここはもともと小湊鐵道が市原市の五井駅から鴨川市の安房小湊駅まで結ぶ計画があり、社名を「小湊鐵道」と命名しました。1928(昭和3)年に上総中野駅まで開業させ、昭和の金融恐慌のより安房小湊までの延伸工事は中止。
上総中野駅から安房小湊駅まで直線で15キロほどですが、その間に険しい山があり、工事の準備は始めたものの、断念したそうです。
次は千葉県の中で秘境駅の行川アイランド駅に向かいます。
ほんの一瞬ですが、海が見える絶景。
行川アイランド駅停車。ここはもともと、動物園、植物園、ホテルなどの総合レジャー施設の「行川アイランド」がありました。今から23年前の2001(平成13)年に閉園後もこの駅はずっと現役です。
行川アイランドの来園のための設けられた駅なので、現在の利用者数は1日にほんの数名だそうです。
ここから集落までおよそ1キロ離れているので、駅としての機能は果たしていないと思います。それでも現在も普通列車はまめに停車しています。次は上総興津駅に停まります。
市街地が見えてきたら、まもなく安房鴨川駅です。
駅名票は緑色ラインの真ん中のオレンジ色の四角があります。内房線はブルー、外房線はオレンジになっていますが、厳密に言えばここは内房線、外房線どちらも終着駅になっています。
鴨川は大規模な海洋総合レジャー施設のシーワールド鴨川が有名です。大島から青ヶ島の伊豆諸島で救急要請があったときはドクターヘリで鴨川の亀田総合病院または渋谷区の広尾病院に運ばれることで有名です。
以前は内房線と外房線は安房鴨川駅で打ち切られていましたが、現在の新しいE131系では両路線が直通運転を行うようになりました。これにより、乗客はより便利に両路線を利用できるようになり、南房総地域へのアクセスが向上しています。
安房鴨川を出発後、安房天津駅に停車しました。山口県の田舎に住んでいた頃、月に1回の日曜日に朝5時の始発で九州へ日帰り旅行をしていました。当時、中学生で特急に乗る余裕がなかったため、いつも普通電車を利用していました。
大分行きの電車に乗ると、中津を出た後は東中津、今津、天津と「津」が続くことに気づく。天津を「あまつ」と覚えていたため、中華料理の「天津丼」を「あまつどん」と言ってしまい、恥ずかしい思いをしたことも。次は安房小湊です。
9月19日の午前中に起きた、東北新幹線の「はやぶさ」「こまち」が時速320キロで走行中、両者の連結器が分離し、後ろの「こまち」が取り残される事故。あれは正直に言って驚きました。2023(令和5)年の11月に起きた、大井川鐵道の電気機関車が旧型客車を牽引する際、旧型客車の連結器が分離する事故がありました。6~70年も使われている古い車両なので、そういった事故が起きる可能性はあったかも知れませんが、「はやぶさ」(E5系)や「こまち」(E6系)は最先端テクノロジーを盛り込んだ車両です。
乗車券の経由欄に印字されている「太海」(ふとみ)駅。私みたいに太っている人にとっては非常に敏感な駅名。
三重県にある関西本線の「加太」(かぶと)駅も、体重増加し、太っていきましょうっていう響きに聞こえてしまい、仕方がない。
太海駅舎を見て、驚愕!!ずっと昔に来たときは、古き良き時代のレトロっぽい木造駅舎だったのに。
仁右衛門島はテレビで何度か放送しているので、わりと知られている有名な島だと思います。ここから800メートル先でしたか。
次は内房線の終点、安房鴨川駅です。昔だったら、安房鴨川駅で内房線と外房線、しっかり区切っていましたが、2021(令和3)年より新型E131系が導入されたことから、木更津から上総一ノ宮までは乗り換えせず直通する形になりました。