今年から4月29日を「昭和の日」に定めたそうです。
その情報は2年前の新聞で知ったのですが、それがもう施行されてしまったのですねぇ。
このあたりで「昭和」を実感できるところは、やはり小湊鉄道。 土日・祝日は無人駅になる、近くの駅に行ってみました。
この風景はまさしく「昭和」のままになっています。
いまどき珍しい硬い切符にカチャカチャ日付を入れる機器もよく見ると1976(昭和51)年製造になっていました。
「みどりの窓口」のない、JRの田舎駅でも数年前まではこういう風景が見られたのですが、全てコンピューターによる発券に代わってしまい、右側の色々な切符の入っている棚も撤去されたみたいです。 これも出札窓口の上にあった、駅員用の運賃表。
左側に置いてあるファイルも昭和っぽさ雰囲気が漂います。
千葉県内のJR全駅、東京は23区最西端の西荻窪駅、埼玉は大宮駅、神奈川県は横浜市内までなら買えそうです。
「西荻窪駅まで」と言えば、切符棚からさっと硬い切符を取り出すか、または手書きで上の運賃表を見ながら書くか、まだ利用したことがないので、わからないのですが、時代に取り残されていますねぇ・・・。
事務室の中を覗いてみましたが、黒電話が数台、定期券をパウチ加工する機器、だるま式ストーブ、14インチのテレビにソファー。
この部屋に一歩踏み入れると、昭和時代にタイムスリップしそうな雰囲気。
suicaやpasmoで切符が買えるようにICカード読み取り装置があれば、わずらわしい小銭のやり取りが省けるようになるはずだが、小湊鉄道さんは「昭和30年代」の伝統を大切にしているのか、それらの導入はないみたい。
「五井から更に内陸に入り、想像していた以上の田舎でした」
これはハン尚宮(母)の叔父からの御礼メールに書かれていました。
自宅の庭から見える風景もご覧のとおり、田舎です。
おそらく叔父も千葉市の南に位置する市原なら都会の街並みと田園風景を調和させたところだろうと思っていたに違いない・・・。
小笠原村(東京から南へ1000キロ)、青ヶ島村(東京から南へ370キロ、人口200名の日本一のミニ自治体)、檜原村(東京都最西端)の職員募集があり、もしも、受かっていれば、そこで暮らしていたかも。
どれか1つだけ選択するとしたら、どれも捨て難いだけど、あえて選ぶとしたら、やはり・・・檜原村。
JR五日市線の終点の武蔵五日市駅から檜原街道で40分~1時間で行ける場所だし。
小笠原村だと東京へ行くのに3泊4日(うち船内2泊)を要し、青ヶ島村は年間就航率4割、欠航が続いていれば八丈島で数日間も足止めを食らうのも珍しくないそうです。
ここは上に挙げた極端な田舎ではなく、クルマで20分あれば市街地に出れるところなので、過ごしやすいところだと思う。(笑) やっと芽が出ました!!
地面から芽を出し、二葉が開くところまでは見ていないが、第一発見者のハン尚宮(母)の話では、毎日の水やりに見ているけど、知らないうちにそうなっていたとのこと・・・。
これはドックおじさん(父)の植えた、きゅうりの二葉。
例年ならきゅうりの「苗」を購入し、育てていたが、今年からは初の試みとして「種」からだそうです。 これは2年前に八丈島から取り寄せた2株の「明日葉(あしたば)」。
2株のうち1株は千葉の空気や気候に合わないのか、枯れてしまいました。
生き残った明日葉は大きくなり、去年11月頃には花が咲き、しばらくすると無数の種になってしまいました。
「また生えてくるから大丈夫だ」と思い、種もそのままほったらかし。
ところが・・・・春先になっても、枯れた枝からは全然芽が出てきません。
(明日葉って、繰り返し芽吹くのではなく、種が実っていれば生涯の終わりなのかい?せっかく八丈島から取り寄せた意味がないもんだなあ・・・)と諦めかけたところ、芽吹いてきたのは地面からでした。 1株の明日葉からこんなにたくさん芽吹くとは思わなかった。
ほったらかしにしても八丈島や青ヶ島で見かけた「明日葉」畑になれそうです。
これも事後報告になってしまい、申し訳ございません・・・。
4月26日夕方6時10分からの「NHK首都圏ネットワーク」に来年度から私立学校設立に向けての龍の子学園の活動が見られますといった、チャンナラ先生からの情報が入ったのは今朝。
録画の予約もしていなかったので、定時帰宅し、無事録画することができました。
その部分だけの動画を載せたいのですが、著作権にひっかかるので、5月1日(火曜日)の再放送「NHK首都圏ネットワーク」でご覧になってください。
(画像を載せるときは、そっくりそのままコピーするのはご法度で、テレビやMediaplayer等での再生中であることがわかっていれば、大丈夫のようです)
地方の方々には大変申し訳ございませんが、「首都圏ネットワーク」なので、東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県しか見られないのです・・・。
ほとんどの公立聾学校では聴覚口話法だが、龍の子学園は聞こえや発音に重みを置くのではなく、日本で初めて手話と書記日本語のバイリンガル教育を取り入れている。
私も幼年期に発音の訓練や聞き取りの訓練を何度もやらされたのだが、実際に社会に出たときは筆談によるコミュニケーションが多く、(小さいときに養われた発音や聞き取りは)役に立たなかった。
書記日本語の必要性をいち早く感じた、ハン尚宮(母)が発音や聞き取りよりも文章を書く力を幼年期から続けていたお陰でした。
上の場面は国語授業のようだけど、おのっち先生が教科書のような文字で黒板に板書きされていますねぇ・・・。
きちんと誤字も文法の誤りもなく細心の注意を払っての授業だと思われるのですが、年間のカリキュラムを考えたり、教材の準備をしたり・・・本当にご多忙な毎日だと思います。
龍の子学園の皆さん、本当にお疲れ様です!! 番組の最後に聴覚口話法での授業が行われている、ある聾学校の様子が出ましたが、ろう者の視点から見れば、授業が楽しくて子供たちの表情が活き活きしているのは、やはり龍の子学園だと感じるのは私だけではないだろうと思います。
再放送の予定は・・・
■4月27日(金)(全国放送)
夜19:50~20:00
【NHKこども手話ウィークリー】
■5月1日(火)■(首都圏のみ)
夕方18:10~18:52
【NHK首都圏ネットワーク】 (再放送予定)
・NPOバイリンガル・バイカルチュラルろう教育センター
http://www.bbed.org
・NPOろう学校をいっしょに創ろう!ブログ
http://blog.canpan.info/tamatama/
買ってしまいました。(1冊1,050円)
新刊案内に「この本を買ってもよい」とサインが入っていたのですが、今日の選書会議で女性陣は全然興味がないという理由で却下。
それと表紙のデザインがえぐいからでしょうか・・・。
すでに所蔵してある同じジャングルの「一般件名:死刑」で検索してみると、こわいもの見たさで借りていく利用者も多いから買ってもよいのかなと思っていたけど。
選書会議で却下になってしまったので、自分で買ってみました。
死刑確定者になった者が「処刑」そのものが受刑なので、その日までは全国の各拘置所で未決者と同じ待遇になる。
起案書が法務大臣のところへ届けられるが、法務大臣がその気になり、執行命令書ににサインしてしまえば、5日以内に執行しなければならないそうです。
死刑が好きな法務大臣ならポンポンと判子を押してしまいそうだが、宗教上の理由をもとにして在任中は判子を押さなかった法務大臣もいるそうだ。
一般の人たちにとっては程遠い無縁な世界、ベールに包まれたところなので、知りたがるのは人情なのですねぇ・・・。
<「死刑に処す」 佐久間哲著 自由国民社 2005.12刊行>
表の表紙
「法務省刑総秘 第○○○○号
○○検察庁検事長 ○○○○
○○年○○月○○日上申に係る○○○○に対する死刑執行の件は、
裁判言渡しのとおり執行せよ。
平成○年○月○日
法務大臣 ○○○○ (印鑑)」
裏の表紙
「様式第6号
死刑執行始末書
平成○年○月○日
○○検察庁 検察事務官 ○○ ○○
○○検察庁 検察官検事 ○○ ○○
○○所長 法務事務官 ○○ ○○
下記死刑執行の次第につき、○○所において刑事訴訟法第478条によりこの執行始末書を作り、執行立会者とともに署名押印する。
1 氏名 ○○ ○○
2 本籍 ○○
3 監獄名 ○○所
4 上記の者に対する死刑執行の始末は、次のとおりである。
(1)執行の日 平成○○年○月○日
(2)執行の場所 ○○○所
(3)執行された死刑の判決
言渡し裁判所 ○○○裁判所
言渡しの日 平成○年○月○日
確定の日 平成○年○月○日
(4)法務大臣の執行命令 平成○月○日
(以下 云々 続く)
こういう書類は役所で使われる文体が使われているのですねぇ・・・。
職場での書類作成に過去の書類や他の職員が作成した文体を参考にして作っているのだが、自分が書いた文章とは思えない(上記に似たような)文になってしまいます。
今日はハン尚宮(母)の弟、私の立場から見れば叔父がはるばる山口からお越しになりました。
ドックおじさん(父)の姉も叔父の上京を見計らったのか、タイミングよく「ブリ」の大きな鮮魚が届き、今夜は和風の特別料理を振舞いました。
ハン尚宮(母)、叔父も大日本帝国時代の朝鮮半島南部(今の韓国・馬山(マサン)や慶州(キョンシュ)生まれ、終戦まではそこで暮らしていた。
「???, ??? (ボゥオリ~! ボゥオリ~!!」(日本語で「つんぼ」に相当する言葉)でからかう近所の子を追っ払ったり、母を守ったりしていたのも叔父の役目だったらしい。
母は兄や姉よりも弟の叔父を頼っていて、叔父の後ろをついていくようにどこかへ出かけていたとか。
大昔でもちゃっかり記憶に残っているというのは、アルツハイマーの心配はなさそうです(笑)
ようやく春らしくなってきましたね。
先週の話になってしまいますが、4月16日(月曜日)あたりから低気圧の接近で真冬のような寒さにぶり返し、18日(水曜日)の夜、近くのセルフスタンドで10リットルの灯油を買いに行ってしまいました。
この寒さだとしばらくはストーブが必要になるに違いないと判断したのですが、翌日からは本格的な春の訪れでストーブを使わなくても快適な気温に。
東京都最西端の奥多摩湖から檜原村の数馬にかけての奥多摩周遊道路(つまり、標高の高い道路)では4月17日の夕方から朝にかけて積雪10センチを記録したとか。
その情報は新聞やネットの天気予報欄に写真付きで報道されましたが、水墨画のようなモノクロトーンの世界になってしまったそうです。
その数日後の今だと若葉が芽吹く新緑の風景に変わってしまったらしいだけど、そういう急変な温度差で体調を崩された方が多いと聞きます。
私も一時は風邪気味で体調がおかしくなってしまいましたが、ハン尚宮(母)が毎日栄養のバランスを考えた食事を作ってくれたお陰でしのぐことができました。
これからもまた寒さがぶり返すかも知れないので、皆さんも体調管理に気をつけてくださいね・・・・。
職場のイントラネット(ネットワークは内部だけ)で「本日夜10時から放映されるTBS金曜ドラマの「特急田中3号」に地元の小湊鉄道が出ますので、お見逃しなく・・・」といった記事があった。
前もって早く知らせてくれれば、このブログでお知らせでも載せようかと思いましたが、事後報告になってしまい、ごめんなさい・・・。
・特急田中3号公式ホームページ
・特急田中3号(横見浩彦の鉄道コラム・小湊鉄道編)
詳しい内容はJR・民鉄全線を下車したという、横見浩彦さんのコラムに書かれてありますので、そちらのほうをご覧になってください。
そのコラムに書かれていなかったのですが、なんと、市原市内の超秘境駅の飯給(いたぶ)駅がドラマのロケ地に選ばれました。
「飯給」の漢字は「いたぶ」と打っても一発変換されないだろうと思ったら、ちゃんと変換できました。
変換されていなかったら、「飯田」「給う(たまう)」と打ち、真ん中の「田」を削除する方法で入力しようと思っていた。
映画「四日間の奇蹟」で有名になった、山口県の山陰本線・特牛(こっとい)駅も難読駅だが、これも一発で変換できるのです。 このドラマの主役、田中一郎が目黒照美さんに一目惚れし、車内で「付き合いたい」とか説得するが、結局振られてしまい、女の子たち3人が飯給駅に突然下車する場面。
菜の花は近くの加茂中学校の生徒たちが植えたものなのですが、監督も「この場所なら絵になれる」と思っていたかも知れませんねぇ・・・。
春の飯給駅はこんな感じになっていますが・・・
真冬の飯給駅(2005年1月25日撮影)はご覧のとおり。
「市原市内の中で乗降客が最も少ない、秘境駅の飯給駅でございます」と友人noriさんに案内したときの写真。
飯給駅の全景。
駅に行くのに舗装されていないあぜ道になっています。
道路に抜ける通路は舗装されていますが、このアングルから撮ったものだと昭和の田舎の駅という感じですね。
図書館への寄贈本が数冊か届き、内容を確認するためページをめぐってみると、目を見張るものが・・・・。
全国各地で失われ消えていく日本の伝統・自然・風土・人々の暮らしを紹介された1963(昭和38)年から1982(昭和57)年までの放送リストが掲載されている冊子でした。
真っ先に目に留まったのは青ヶ島なんて、偶然ですねぇ・・・。
「アーカイブス」とは、過去の番組をもう1度見られるそうなので、もしかしたら、インターネットを通じて見られるのでは!?とちょっと期待しながら調べてみると・・・インターネットでの視聴はできませんが、NHKアーカイブス(川口)または最寄りのNHKに行けば無料で見られるそうです。
昭和38年から57年まで放送された「日本紀行」全てが見られるかどうか、番組公開ライブラリーで検索してみたところ、1973(昭和48)年3月19日に放送された、「還住のうた ~青ヶ島~」は公開ライブラリーの対象ではなかった。
アメリカの占領下に置かれていた小笠原諸島が返還されてから1年目の1969(昭和44)年6月16日に放送された「返還1年目の父島」もすごく興味があり、調べてみたが、これも公開ライブラリーの対象ではなかった。残念・・・。
アーカイブス担当者の方々もフィルムの修復やキズの消去、褪せてしまったカラーを復元するなど、非常に大変な思いをしているらしい。
たった5秒間の修復をまる1日かかった作品もあるそうだ。
上記の2作品だけはものずごーく興味があるので、いつかは公開ライブラリーに登録されていれば、絶対に見に行くつもり。
返還された直後の父島の様子、5日おきに旅船が入港していた頃の青ヶ島での暮らしの様子を見てみたいし・・・。 冊子に載っていた、「還住のうた ~青ヶ島~」の写真、上から2番目のところ、昭和47(1972)年と全く同じアングルで撮れたものがあるのですねぇ・・・。
青ヶ島の三宝港は船が1隻しか入港できないスペースだし、海が荒れたときに船体がコンクリートにぶつかってしまう恐れがあるため、陸地の駐車場ならぬ駐船場に引き揚げなければならないのです。
100グラム 198-
388グラム 768-
ドックおじさん(父)いわく、「この価格設定はおかしい。小さくて若いサザエ、大きいサザエでも100グラムあたりの単価が同じならば、小さいのを選ぶわい。そのような大きいサザエだとほとんど食べられない殻が占めていて、正味は小さい」とぼやいていました。 500グラムはあったのだろうか、ドックおじさん(父)の獲ってきた巨大サザエ。(1993年夏)
家によく遊びに来ていた野良猫に見せながら自慢したあと、自分では食べずに人にあげたりしていたらしい。
1個 ?10,000-(≒千円)で売買すれば臨時収入が増えたのにねぇ・・・。 この大きさが1番美味しい。
あまりにも大きいと、硬かったり、まずかったりすることもあるそうです。
タイトルの「ソラ(??)」とは、韓国語で「サザエ」を意味するもの。
韓国の市場でサザエのハングルを見たとき、サザエは「ソラ」と発するなんて、なんと日本語の「空(そら)」のように響きがよい単語だな~と即刻覚えてしまいました。(笑)
ビデオ撮りっ放しでずっと眠らせたままだともったいないなので、一部を公開しますね。
1991(平成3)年1月1日、今から何年前でしたっけ・・・計算してみると16年前じゃないですか~!!
29年前の1978(昭和53)年のビデオよりもカラーの鮮明度が現代版に近づいたようです。
お正月なので、家族そろって小倉で新年会にお出かけのひとコマ。
まず、長門二見駅舎。
大正14年、山陰本線が開通されたときからの駅舎でしたが、今は取り壊され、簡素な駅舎に待合室なるものに建て替えられました。
民営化4年目なのでまだまだ国鉄の雰囲気が引き継がれているのか、車両も国鉄色になっていますね。
現役でディーゼル機関車のけん引する客車といえば、普通乗車券だけで乗れるものはもう全滅。
寝台特急の「出雲」号も京都から山陰本線区間はディーゼル機関車でしたが、2年前の2005年に廃止。
上野~札幌の寝台特急「北斗星」号と青森~札幌の急行「はまなす」号の非電化区間、函館本線のみになってしまいました。
昔はディーゼル機関車のけん引する客車、何両も連なったディーゼルカーが使われていましたが、今はほとんど1両か2両編成のワンマンカー。
特にディーゼル機関車のけん引する客車だと発車時にガクッとする感覚がしたのですが、これも懐かしいですねぇ・・・。
電車、ディーゼルカーだと各車両にモーターがついているので、運転士のハンドルを引けば、全車両同時に動くわけだが、何もついていない客車だと先頭の機関車が引っ張るときの衝撃が車両に伝わるのです。
ずーっと乗っていないので、乗りたければ、客車のブルートレインしかないのですねぇ・・・。
「「ろう者で日本人で・・・」ブログに小湊鉄道車両の写真が掲載されました。
「ろう者で日本人で・・・」(4月13日掲載)
実は・・・その車両は山口の故郷と関わりがあったのです。(撮影場所:長門二見駅)
古いビデオの冒頭に「昭和53年2月 山口県立聾学校下関分校学習発表会」と出ていたので、たぶん、それは1978(昭和53)年の映像だと思われる。
計算してみたら・・・・今から30年前っ!!映像に出ていたドックおじさん(父)はえっと・・・今の年齢から30を引くと・・・。うわーっ!
そういう古いディーセルカーは昔だと全国各地しかも電化される前の八高線、川越線なども見かけたのですが、今だと1日に3本しか走らない岩泉線(岩手県の茂市~岩泉間)、大糸線(新潟県の糸魚川~南小谷のJR西日本担当区間)、島根から広島にかけての山あいを走る木次(きすき)線など秘境を走るローカル線でしか見られなくなりました。
JRだと稀な車両だというのに、近所の「小湊鉄道」は同じ形式のキハ20が毎日、しかも始発から最終まで同じ車両。 1978(昭和53)年2月(今から30年前)の長門二見駅。
今は無人化され、ひっそりとした駅だけど、昔はホームまで駅員さんがいたのですねぇ・・・。
ホーム整理員、信号係(ポイントを手動で切り替えると信号も変わる)、
出札係(いわゆる切符窓口)、改札係、鉄道荷物係・・・・などなど昔は7~8人の駅員さんがいたらしいです(ドックおじさん(父)の話) 1997(平成9)年2月27日(今から10年前)の長門二見駅。
偶然にも動画と同じアングルで撮れた写真を見つかりました。
駅も無人化、たった1両のワンマンカーになってしまったので、駅員さんが立っていた場所にミラーが取り付けられていますねぇ・・・。
国鉄時代、駅員さんがたくさん居た頃の名残なのか、駅員の詰所跡。
鍵がかかっていて、中に入ることはできなかったが、駅事務室につながったのであろう古めかしい電話機が放置されていました。
(いずれも長門二見駅)
毎日更新していたブログが途中で途絶えてしまいました・・・。
先月、国王さまに「国策プロジェクト 手話動画教材」の作成を頼まれましたが、どんなイメージにするか、どこをカットにするか、編集しようがないので、そのまま放置してしまいました。
先週、国王さまのお出まし。
「例のものはもうできたのか、出したまえ」
「恐れながら、まだ出来ておりません・・・・」
出来上がりの大まかなイメージの打ち合わせの後、深夜2時、3時まで編集に専念。
「チャプターもつけたまえ」
「ははっ、チャプターとは?」
「映画のDVDを見たことはある?DVDに本編と各場面の目次のようなものがついているんだろう。あれと同じように作りたまえ。
チャプター機能がなければ、ただのアナログのビデオと同じになり、どこの場面だったのか戻したり、進んだりの検索するのが大変だからね~」
「かしこまりました」その数秒後「・・・・・」
チャプターって何だっけ?と参考にしたのは青ヶ島を舞台にした「アイランドタイムズ」。 このようにサムネイムに各場面の説明がついている目次のようなものだった。
このデザインはプロなので全く同じようなものは作れないが、ビデオ編集ソフトにチャプター編集機能が付き、バックのデザインもあらかじめ用意されていた。
映画のDVDを持っていても、通しの「本編」を見るだけでチャプターで検索する頻度はあまりないのだが、手話動画の教材だとどの場面なのか、検索ができる機能があれば、講義中でも「あれ?あの場面ってどこだっけ??」と探す手間が省ける。
さすがに手話や言語を専門的に研究されている、国王さま。
ところが・・・・
うちのパソコンは映像編集に向いていない、セレロンのCPU(わかりやすく言えば、パソコンの頭脳)を搭載されているため、フリーズ(途中で固まって落ちる)、データを変換するエンコードにすご~く時間がかかってしまった。
このブログに載せる動画はwmv形式、数メガ程度の編集ならそんなに時間はかからないが、ファイル容量の大きいG(ギガ)単位での扱いが必要になるDVDはCPUが弱ければ編集に莫大な時間がかかることが判明。
昨夜、国王さまが宮廷に戻られるはずだったが、深夜0時を過ぎてもなかなか完成できず。
「あの、恐れながら明日もお休みになられたら・・・・」と勧めたが、結局朝6時頃ご出発。
出発までになんとか間に合い、ほっとした・・・。
今のパソコンを購入したのは2004年。Pentium搭載とセレロン搭載の機種があり、見た目では同じモデルなのに、セレロンのほうがPentiumよりは廉価。
当時、動画編集もブログをやっていないし、ただインターネット、文書作成ならわざわざ高性能のCPU搭載よりも廉価なセレロンでもよいと買ったのが大きな誤算。
インターネット閲覧、ブログ更新、静止画のデジカメ編集、Word,Excelなら、CPUがセレロンでも十分に発揮してくれるのですが、映像などの動画編集に莫大な時間が取られてしまいます。
映像、動画編集なら最高性能のデュアルコアプロセッサ(CPUが2つも搭載)がいいみたいですね。(この情報は ウメダスさん から)
職場のパソコンは主に事務用なのでセレロン搭載、中央カウンターに設置のパソコンはたくさんの本をさばけるようにPentium4のが搭載されていました。
そういう使い分けが賢明なパソコンの使い方。
セレロンに無理やり映像編集とはCPUに負担をかけすぎになってしまい、パンクするとフリーズすることも・・・。(ーー;)
日本最南端の都道府県は沖縄県だが、厳密に言えば、東京都(小笠原村)。
東京から南へ1700キロも離れているのに、都内とは違和感がしますが、沖ノ鳥島は日本領土を守る、貴重な島なのです。
陸地から200カイリ(およそ370キロ)までは排他的経済水域内なので、沖ノ鳥島が沈んでしまうと日本の漁業権がさらに狭くなってしまいます。
今から3年くらい前、中国が沖ノ鳥島は「島」ではなく、排他的経済水域の権利を認めない「岩」だと主張し、沖ノ鳥島周辺の海域を調査したこともあった。
その対抗措置として「東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地」の地名を示す金属プレートを取り付けたり、さらに今年の3月16日から「沖ノ鳥島灯台」を設置。
太陽光発電により、8秒ごとにLED発光、360度、23~24キロ先にも光が届くようになっている。
航海標識法に基づき、海図に「沖ノ鳥島灯台」と記載される。
・海上保安庁のお知らせ(pdf形式)
・読売新聞の記事(4月7日)沖ノ鳥島の写真付きで見られます。
沖ノ鳥島の写真をネットでいくつか見たことはありますが、この写真は最近のものらしいです。
島の手前にアパートらしきものが見えますが、これは沖ノ鳥島を守る人達の観測用兼住居になっているみたいですね。
「H」のマークが見えるのは、物資・食品輸送用のヘリポートのようだ。
そこで何人暮らしているのか、色々調べてみましたが、それらしきものは出てこなかった。 もともと沖ノ鳥島は海面に顔を出す程度の小さな島だったのですが、1989年頃からこの小さな岩を守るために工事を施した。
現在の姿を見ると、岩が海面に出ている状態でまわりはチタンやコンクリートで固められていますね。
(新聞記事は読売新聞1999年10月)
小笠原諸島のなかですごく憧れているところなので、一生に1度はそこに行ってみたいな~!(^^)!