戦争が終わったとラジオからの放送が伝えていたその日の
お天気は雨ではなかった、とだけは記憶の片隅にあるの
だけど、今日のように暑い夏の陽ざしだったのだろうか、
覚えていない。
<あなた方のお父さんが帰ってくるのよ>と祖母から聞かされた
のは、はっきり覚えている。
千葉県の父の実家への家族疎開だった。
あのころは集団疎開というのが決まりだったらしいのだが、父は
母に<家族が離れるようなことはするな>と強く伝えて戦地へ
赴いたらしい。 それで目白の家から千葉県への家族揃っての
疎開となった。 母と兄、私、弟の4人だった。
戦時中なのだからいろいろあったにはちがいないが、防空壕に
入る以外は毎日の過ごし方はそれほど逼迫したことはなかった
ような気がしているのは、戦争そのものの何たるかの認識が
なかったのかもしれないし、詳しく話してもらっていなかったのかもで、
そのことを母に問うたこともなかった。
このアルバムもかなり古くなってしまったけど、父が戦地から送って
くれた、ちゃんと私宛の名前で書かれた葉書を結婚するときに、
母宛の手紙や詩歌のなかから抜粋したものを墨で書いて贈ってくれた
ものです。 きっと家族の心のつながりなどの大切さ、不変さを
言葉でなく、教えてくれたのでは...と、今では思っています。
目白駅通過に当たって
<あの森の蔭に吾子等は寝るらん賢く育てよたらちねの下>が
出征するときだったのでしょうか、昭和18年10月とありました。
切手の欄に<軍事郵便>と印刷されている薄い郵便はがきには、
鉛筆で私たち家族のなかで父だけが抜けているのを描いて
<アキコサン、ココニダレノエガヌケテイマスカ>と書いてあります。
あの頃は漢字とカタカナの世界でした、母の姉妹も描かれています。
きっと戦地でのわずかな時間に描いて送ってくれたのでしょう。
ちゃんと祖母の名前様方、000アキコサンとなっています。
おなじように、シナのコドモ、シナのナシ、ラッカセイ、クリ、ニンジン、
ハクサイの絵の間にテツカブトが描かれています。
この葉書の表には陸軍中尉の検閲の文字がはっきりと読みとれます。
今となっては思い出のアルバムですが、父が復員してきたからこその
アルバムで、こんなアルバムはもう私たちの世代で終わりです。
軍服を着て凛々しく馬にまたがった父の写真とは違った、
家族への思いは普通の父だったと改めて思う今日です。