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<知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト> 減反政策

2025-02-24 13:34:45 | 知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト

 「減反政策」

 減反政策(げんたんせいさく)とは、戦後の日本における米の生産調整を行うための農業政策である。

 基本的には米の生産を抑制するための政策であり、具体的な方法として、米作農家に作付面積の削減を要求する。そのため「減反」の名が付いた。一方、コメの緊急輸入を必要とする米不足や事故米穀も発生した。1970年度(昭和45年度)から実質的に開始され、2018年度(平成30年度)に廃止となった。ただし、山下 一仁のように減反廃止はフェイクニュースと述べる者もいる。

 経緯
 戦前~戦中
 日本人の米に対する思い入れは強く、米は最も重要な食べ物(主食)とされているが、戦前の日本における米の10アール当りの収量は、300キログラム前後と現在の約半分であり、しばしば凶作に見舞われていた。1933年(昭和8年)には作況指数120を記録し、米の在庫が増加したことにより「減反」方針が打ち出された事があるが、翌年東北地方において、冷害から凶作・飢饉が発生するなどし、安定した供給が行われていたわけではない。加えて、階級や貧富、地域などによって大きな違いがあり、雑穀や芋などを常食していた人たちも多く、実際には大半の日本人が米を主食とすることはできなかった。

 また、戦前は米も通常の物資と同じく市場原理に基づき取引されていたが、1940年(昭和15年)頃には戦時体制へ突入し米不足が深刻化したため、食糧管理制度に基づく配給制となり、政府の管理下に置かれた。

 戦後~1964年(昭和39年)
 戦後の食糧難は深刻を極め、1945年(昭和20年)10月の東京・上野駅での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。だが、米は引き続き食糧管理制度に基づく政府の固定価格での買い上げだったため、闇市でヤミ米が横行、ヤミ米を食べることを拒否し法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起こっている。

 米ばかりでなく、全ての食料が不足していた時代であり、占領軍の主体となったアメリカ合衆国により、1946年(昭和21年)からララ物資の援助があり、1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)まではガリオア・エロア資金として総額約20億ドルの経済援助が行われ、その60%以上が食糧輸入に充てられたものの、食糧不足の解決は難しく配給の遅配が相次ぐ事態となっていた。食料を生産していない都市部では、欠食児童も多く、学校給食には大量に輸入されたメリケン粉(小麦粉)が充てられ、アメリカの占領政策の一環で、学校給食は米飯ではなく、メリケン粉を使ったパンと脱脂粉乳が主体であったため、日本人の食事の欧風化が進行した。

 マッカーサーは「我が輩は米と魚と野菜の貧しい日本人の食卓を、パンと肉とミルクの豊かな食卓に変えるためにやってきた」と豪語し、GHQ公衆衛生福祉局長のサムス准将は、「太平洋戦争はパン食民族と米食民族との対決であったが、結論はパン食民族が優秀だということだった」と言い放っている。1952年(昭和27年)には、栄養改善法が施行され、厚生省がはじめた栄養改善運動では米偏重の是正が叫ばれ、欧米風の食事を理想としたことも手伝って、主食とされてきた米は遠ざけられ、戦前まで1人1石(160キログラム)といわれていた米の年間消費量は、1962年(昭和37年)に戦後最高の118.3キログラムに達したのをピークに、以後年々減少に向かった。

 1965年(昭和40年)~1984年(昭和59年)
 米食悲願民族といわれる日本人にとって、米を実際の主食とすることは有史以来の宿願であったが、昭和40年代(1965年-1974年)初頭には、肥料の投入や農業機械や農薬の導入、品種改良によって、生産技術が向上したこともあり、ようやく米の自給が実現でき名実ともに主食となった。しかし、その時既にアメリカ合衆国の小麦戦略は見事に成功をおさめ、学校のパン給食や栄養改善運動などによって、日本人の食事の欧風化が進行し、米離れに拍車がかかっていた。

 そして米の余剰が発生、食糧管理制度は経済状態の悪い家庭にも配慮し、買取価格よりも売渡価格が安い逆ザヤ制度であったことから、歳入が不足し赤字が拡大した。国内各地で生産拡大へ向けての基盤整備事業が行われている最中、日本国政府は、新規の開田禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした本格的な生産調整を1970年(昭和45年)に開始した。

 減反については農家から猛反発を受ける一方、県によっては思いのほか希望者が集まる例も見られた。青森県東北町、六ケ所村、横浜町では割当面積の数倍の減反希望者が現れた。八郎潟の干拓事業によって誕生した秋田県南秋田郡大潟村の入植は、1967年(昭和42年)に始まったばかりであったが、この年の入植を最後とし、以後の入植者の募集は取り消された。生産拡大のための基盤整備事業が行われている最中の生産調整の導入であり、大潟村の既入植者が生産可能面積の取り扱いを巡って長年にわたり国と対立するなど、稲作農家の意欲低下、経営の悪化につながるとして強い反発が各方面であった。制度的には「農家の自主的な取組み」という立場を取っているが、転作地には麦、豆、牧草、園芸作物等の作付けを転作奨励金という補助金で推進する一方で、稲作に関する土地改良事業などの一般的な補助金には、配分された転作面積の達成を対象要件とするなど、実質的に義務化された制度である。また、耕作そのものを放棄することは農地の地力低下、荒廃につながることから、転作面積とはみなされない。生産調整の導入以降も、生産拡大へ向けての基盤整備事業の効果が現れはじめたことや、生産技術が向上したことにより単位面積あたりの生産量は増加し、また農家によっては、米を引き続き栽培するためにやむを得ず転作を受け入れるという立場をとる者もいたが、多くは積極的に転作に取り組むことによって農業構造の転換を図ろうとした。

 水稲の作付け面積は、1969年(昭和44年)の 317万ヘクタールをピークに、1975年(昭和50年)には 272万ヘクタール、1985年(昭和60年)には 232万ヘクタールに減少、生産量も 1967年(昭和42年)の 1426万トンをピークに、1975年(昭和50年)には 1309万トン、1985年(昭和60年)には 1161万トンに減少した。

 1985年(昭和60年)~2018年(平成30年)
 さらに、1985年(昭和60年)と1994年(平成6年)のそれぞれ凶作により米の緊急輸入があった翌年を除いては、一貫して生産調整の強化を続け、1995年(平成7年)には作付け面積211万ヘクタール、生産量1072万トンに、2000年(平成12年)以降は、作付け面積170万ヘクタール、生産量900万トン程度を推移し、作付け面積は半減、生産量は60%程度になった。一方で、米の消費量減少には歯止めがかからず、日本人1人あたりの年間消費量は、1990年代(平成2年-平成11年)後半にはひと頃の半分以下の60キログラム台に落ち込んだ。家計支出に占める米類の支払いの割合は、10%強だったものが1.1 - 1.3%と10分の1になり、米の地位低下がはなはだしい。

 生産調整が強化され続ける一方で、転作奨励金に向けられる予算額は減少の一途をたどり、「転作奨励」という手法の限界感から、休耕田や耕作放棄の問題が顕在化し始めた。こうして弥生時代(縄文時代晩期とも)以来、長い時間をかけて開発され、維持されてきた水田の景観は、荒れるに任されるようになった。

 このような状況の中、食糧管理法が廃止されて食糧法が施行され、制度が下記の様に大幅に変更された。

 日本国政府の米買入れ目的は、価格維持から備蓄に移行。これに伴い、買入れ数量は大幅に削減。
 米の価格は、原則市場取引により形成。
 生産数量は、原則生産者(実際は農業協同組合を中心とする生産者団体)が自主的に決定。この際、転作する面積を配分する方法(ネガ配分)から、生産できる数量(生産目標数量)を配分する方法に移行(農家段階では、生産目標数量は作付目標面積に換算されて配分(ポジ配分)。ポジ配分は2004年から本格実施)。
 2013年(平成25年)11月23日、第2次安倍内閣は、2018年(平成30年)で減反政策は終了すると発表した。

 側面的な影響
 減反政策の弊害として、日本の原風景が失われること、自然環境が変化し生態系に影響を与えること、伝統ある農業文化が失われることなどが挙げられる。補助金や関税によって市場価格から遊離した農業生産を奨励する保護政策の裏面として減反政策が存在し、これによる日本産コメの高値維持および国税の浪費などが、日本国民の家計に圧迫を加えているとまことしやかに論ぜられるが、実際には1952年(昭和27年)に施行された栄養改善法により厚生省が栄養改善運動を始め、米偏重の是正が叫ばれ欧米風の食事スタイルが普及し米の消費量は年々減少、ようやく米の自給が実現できた昭和40年代(1965年-1974年)には家計支出に占める米類の支払いの割合は10%強だったものが、1.1 - 1.3%と10分の1以下になっている。

 関税撤廃後、一部の高級ブランドを除き壊滅した繊維産業の先例から、「関税保護などを取り外せば、海外から安い穀物類が入荷するため、これらの作物の生産は、一部の高級ブランドを残して壊滅する」と予測する意見もあるが、一方で新鮮さが要点である野菜の栽培、あるいは卵や牛乳などの酪農などの農業は、生き残るであろうと予測されている。

*Wikipedia より

 

 今回の米価格暴騰は「農政の失態」とも言われているが、「農政」だけの問題ではないと思う。

 「良い部分」もあったし、今の現状だけをみると「悪い部分」が露呈している。

 単純に「農政-米政策」の良しあしではなく、複雑怪奇の「農業問題」はこれからも迷走を続けることだろう。長い目で見て、我々-米専門店は地に足をつけて、できるだけ「やれることだけ」をやっていこうと思います。

 

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<社名の由来> モスバーガー

2025-02-24 10:54:31 | 社名の由来

 「モスバーガー」

 モスバーガー(MOS BURGER)は、株式会社モスフードサービス(英称:MOS FOOD SERVICES, INC.)が展開する日本発祥のハンバーガー(ファストカジュアル)チェーン、および同店で販売されているハンバーガーである。

 概要

 日本人の好みにあったハンバーガーを提供することを掲げ、日本のハンバーガーフランチャイズ店でのシェアは、日本マクドナルドに次ぎ第2位。同社の公式サイトによると、2023年4月現在での店舗数は日本国内で1287店舗(直営店42、フランチャイズ加盟店1245)、国外で457店舗となっている。

 素材を厳選し、注文を受けてから作る「アフターオーダー方式」など、スローフードの要素を取り入れている(ファストカジュアル)のが特徴である。ファストフード店として分類はされているが、「ファストフード」 (fast food) という語が表すように「すぐに食べる」ことはできず、ハンバーガーという商品をメインとして扱っていることからファストフードとされているだけだとも言える。

 1990年代後半のマクドナルドに端を発するファストフードチェーンの値下げ戦争の中で、ハンバーガーを10円程度しか下げず、大幅な値下げを行うことはほとんどなかった。「一番売れているタバコの値段を元に“モスバーガー”の値段を考える」という、基本的なポリシーを遵守してのことである(櫻田の講演より[どれ?])。

 名前の由来
 モスバーガーのMOSは、MはMountain(山のように気高く堂々と)OはOcean(海のように深く広い心で)SはSun(太陽のように燃え尽きることのない情熱を持って)という意味とされている。ただし、創業者・櫻田慧がモス・フード・サービスの前に起こした株式会社モスの社名には、これに加えて、Merchandising Organizing Systemの意味もある。

 初期にはMOST delicious hamburgerのポップを店頭に貼っていたため、一部の客からはこの略だとも思われたこともあったようだが、MOSの意味に変化はないという。略称・愛称は「モス」で、それを使った「今日モス気分」などのキャッチフレーズがある。

*Wikipedia より

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< 郷土料理 > 静岡 安倍川もち

2025-02-24 08:53:15 | 郷土料理

 「安倍川もち」

 主な伝承地域 静岡市

 主な使用食材 餅、きな粉、砂糖

 歴史・由来・関連行事
 つきたての餅に砂糖を入れたきな粉をまぶしたもので、静岡市を中心とした中部地域の郷土料理。「安倍川もち」の名前は県内に流れる安倍川にちなんだものであるが、江戸時代、徳川家康が命名したという説と、東海道を旅する人々の間では安倍川の茶屋で売られていた名物として有名だったため、安倍川もちと呼ばれるようになったという説がある。江戸時代に十返舎一九が著した道中記「東海道中膝栗毛」にも登場している。
 現在も安倍川橋のたもとには、安倍川もちを提供する店が軒を連ね、中には200年の歴史を誇る老舗もみられる。

 食習の機会や時季
 時季を選ばず、一年を通して食されている。
 家庭でおやつや軽食として作る。また土産物として販売されている安倍川もちは日持ちがする工夫がされているため県外者へのお土産物にすることもある。

 飲食方法
 つきたての餅に砂糖を混ぜたきな粉をまぶす。あるいは切り餅を使う場合、焼いたあと軽く湯にくぐらせてから砂糖を混ぜたきな粉をまぶす。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 家庭でも気軽に作られている他、県が推進する「ふるさと給食週間」の取り組みにより、学校給食のメニューに登場することもある。店舗で販売されている安倍川もちは、きな粉以外に、小豆餡で包んだものもある。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/36_18_shizuoka.html より

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<B級ご当地グルメ> 熊本 太平燕

2025-02-24 07:32:15 | B級ご当地グルメ

 「太平燕」

紅蘭亭 下通本店 熊本県熊本市中央区安政町5-26

*https://kumamoto.guide/spots/detail/9049?via=gourmet&via_page=brand%2Ffoods%2Ffoods_03.html より

 太平燕とは

 福州語で「タイピンイェン」と読む、中国福建省福州の郷土料理。福建料理のスープワンタンの一種。
 「たいぴーえん」と「たいぴいえん」、または「たいぴんえん」と読み、日本でアレンジされた中華料理の一種。春雨スープにエビ、イカ、豚肉、白菜、タケノコ、キクラゲなどの五目炒めを合わせ、揚げ玉子を添えたもの。熊本県のご当地グルメ。麺料理の一種。

 中国の太平燕
 「タイピンイェン」は、中国福建省福州市の郷土料理。アヒルのゆで卵を入れたスープワンタンのようなものである。アヒルの卵は福州語で「鴨卵 アッロウン」というが、「圧乱」(戦乱を鎮める)と同音であり、しゃれ言葉で「太平 タイビン」とも言われる。戦乱が鎮まれば、天下太平という訳である。また、福州市には「扁肉燕」(福州語 ビェンニュッイェン)という、豚肉を叩き潰してサツマイモでん粉といっしょに練り込んだ独特の歯ごたえのワンタン用の皮があり「燕」とも略される。この二つの素材を組み合わせた料理が「太平燕」であり、「燕」は「宴」と同音であることから、「太平宴」(平和なうたげ)として縁起が良い名前となり、結婚式などの宴席料理として作られている。台湾海峡を隔てて、福州出身者が少なくない台湾においても、宴会料理として出される場合がある。

 なお、中国語の方言で鳥の卵を「卵」と呼ぶのは浙江省南部、福建省、広東省東部、北部、西部、海南省などと台湾に限られ、他の地域では「蛋」と呼ぶため、しゃれ言葉にならないばかりか、「鴨蛋」(アヒルの卵)には、テストの「零点」という意味もあり、めでたいイメージはない。

 日本の太平燕

 「たいぴーえん」または「たいぴんえん」は、福州料理の太平燕を明治時代に華僑が日本に伝えたものと言われる。伝来後は、日本で入手しづらいアヒルの卵の代わりにニワトリの揚げ卵(虎皮蛋)を、扁肉燕の代わりに春雨を用いたものと考えられる。このアレンジによって、それまでスープ料理であった太平燕が麺料理に変質した。

 日本では長崎県、福岡県、神奈川県、東京都などの個別の中華料理店と、熊本を拠点にして日本各地に店舗を持つ味千ラーメンのメニューにあるのを除けば、基本的に熊本県中部においてしか見られず、ご当地グルメと位置付けされている。熊本市周辺では中華料理店のメニューの定番としてみられ、市の学校給食でも出される[2]ポピュラーな料理である。2008年9月に日高屋がメニューに採用したことで関東地方の一部地域でも食べられるようになった。このことについては「秘密のケンミンSHOW」(読売テレビ)でも紹介された。現在は熊本市のみならず南の宇土市、宇城市(小川)さらには県北部の南関町などでも小学校、中学校の学校給食に使われている。

 太平燕はラーメンと同様、スープには醤油、塩、トンコツなどの味のバリエーションが存在する。また揚げ卵ではなくゆで卵やウズラの卵が入っていたりするなど、店舗や家庭によって千差万別である。また、使用される春雨については中国産の緑豆春雨が中心であるが、馬鈴薯でんぷんを主原料とした日本産春雨を使用する場合もある。

 近年は、比較的低カロリーな春雨を使用し、具に野菜を豊富に使うことから、「ヘルシー志向の麺」として注目されており、2005年には東洋水産、エースコック、西日本食品工業からカップ麺として発売された。また同年に、一部のコンビニでも販売された。さらに2006年にヨネザワフーズから国内産春雨を使用したカップ太平燕が発売されている。具をレトルトパックにした商品もあり、味千ラーメンもこのような商品を販売している。

 なお、長崎市内(長崎ではたいぴんえんと呼ぶ)では新地中華街の江山楼、中華園などがメニューに載せている。福建省出身の華僑は、長崎の興福寺などの寺院で行われる法事に参加する機会も多く、熊本と長崎の福建系華僑は互いに交流があったため、熊本から長崎にも伝わったとされる。

 歴史
 元祖は中華園(熊本市桜町「県民百貨店」8階、1933年創業、2015年閉店)と言われているが、会楽園(熊本市新町)や紅蘭亭(熊本市安政町)を発祥とする説もある。この点について勝谷誠彦は著書「イケ麺!」(新潮社)の中で、「これらの店が創業されたのが1933年から1934年頃で、華僑は横のつながりが強いために情報交換がなされていた可能性が強く、どこが発祥というのは分からないのではないか」と分析している。

*Wikipedia より

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食材探検 おかわり!にっぽん NHK 「王様アスパラ・長崎県」

2025-02-24 07:14:39 | 食材探検 おかわり!にっぽん NHK

 食材探検 おかわり!にっぽん 「王様アスパラ・長崎県」

 元体操選手の田中理恵と藤木徳彦シェフは「王様」と呼ばれる特大のアスパラを求め、長崎県南島原市を訪ねる。フレンチの技法で、ご飯に合うどんな料理に生まれ変わるのか。

 今回の食材は長崎県南島原市の「王様アスパラ」。元体操選手の田中理恵と食材を探検するのは、フレンチの藤木徳彦シェフ。長野県で地産地消に取り組み、野生のシカやイノシシを使ったジビエ料理で知られている。アスパラガス農家を訪ね、直径が5百円玉サイズの甘くてジューシーな特大のアスパラに出会う。他にも地元の旬の食材や棚田米を手に入れ、藤木シェフがフレンチの技でご飯に合うおいしいアスパラ料理に挑む。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201404091930001301000 より

長崎県産 王様アスパラ
日本のアスパラの旬は長崎から北海道へと北上します。 島原半島の最南端で自然の恵みいっぱいで育ったアスパラ。 知る人ぞ知る食通お取り寄せのアスパラのTOPブランドです

極太サイズの王様アスパラは、糖度の高さと根元から穂先まで
とってもやわらかいところが自慢です。
香りも豊かで春の使者として人気の高い王様アスパラ。
ぜひ、旬の時期にお召し上がりください。

≪産地より直送≫
JA島原雲仙では温暖な気候を利用して80名の生産者が「土作り」「化学肥料の低減」「化学合成農薬の低減」の3つの農業生産方式に取り組み、県知事からエコファーマー認定を受け、栽培に専念しています。採れたてのアスパラガスを産地島原より直接お届けします!

*https://www.g-call.com/shopping/pc/detail.php?gdp_no=3847 より

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<料理用語-和食> 竹焼き

2025-02-24 07:05:48 | 料理用語

 「竹焼き」

 別名「鮎の竹筒焼き」

 竹を縦に割り、鮎を入れて蓋をし、蒸し焼きにする。

*https://temaeita.net/top/t2/kj/96_K/021.html より

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<異名-スポーツ選手> オルミーガ

2025-02-24 06:59:50 | 異名

 「オルミーガ-蟻 アントニオ・アルサメンディ」

 アントニオ・アルサメンディ(Antonio Alzamendi、1956年6月7日 - )は、ウルグアイ・ドゥラスノ出身の元サッカー選手。元ウルグアイ代表。ポジションはフォワード。「オルミーガ」(スペイン語で蟻)のニックネームを持つ。

*Wikipedia より

 

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<慣用句・諺> 麦秀の嘆 など

2025-02-24 06:48:57 | 慣用句・諺

 「麦秀の嘆-ばくしゅうのたん」

 《「史記」宋微子世家から》亡国の嘆き。殷 (いん) 王朝滅亡後、殷の一族の箕子 (きし) が破壊された宮殿跡に麦が生い茂っているのを見て、悲しんで作った詩による。麦秀の嘆き。

 

 「縛に就く-ばくにつく」

 罪人として縛られる。

 

 「莫耶を鈍と為し鉛刀を銛と為す-ばくやをどんとなしえんとうをせんとなす」

 《賈誼「弔屈原文」から》名剣である莫耶を切れ味が悪いと言い、鉛で作った刀をよく切れると言って褒める。でたらめな評価をすることのたとえ。

 

 「バケツを引っくり返したような」

 激しく雨が降るさま。どしゃ降りになるさま。

 

 「化けの皮を現す」

 本性をあらわす。正体を暴露する。

 

*goo辞書 より

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<日本酒メーカー> 新潟 麒麟山酒造

2025-02-24 06:40:20 | 日本酒

 「麒麟山酒造」

 名峰とうたわれる麒麟山、阿賀野川や常浪川の清流。94%が森林に覆われた阿賀町で、厳しくも豊かな自然環境から生れる地酒『麒麟山』。
 その味わいは辛口、一途。創業から170余年、代々の当主は淡麗辛口の酒造りを頑なに守り続けている。

 地酒蔵の使命、さらりと飲める晩酌酒

 地元の人が毎晩気軽に楽しめる晩酌酒を主体に製造
 地元の人たちが「うめ~な」と言える酒造りこそが、地酒蔵の使命…と話すのは麒麟山酒造の代表取締役社長・齋藤俊太郎さん。1843年創業の同社7代目蔵元だ。

 桶や蔵人に囲まれて少年時代を過ごし、その頃から蔵を継ぐのだろうなと思っていたという。大学卒業後は広告会社に勤務し、30歳で自蔵に入社。そして今、代表に就任して10年余りが過ぎた。
 現在の製造量の約7割が普通酒で占められるというが、確かなマーケティングの視線はこんな言葉で語られた。
 「この地域では酒を飲むことを楽しみにしている人が多いんです。従って地元の人たちに一番喜んでもらえる酒造りが地酒蔵の使命。毎日飲んで飽きない酒、地域の食文化に合った酒、を考えるとさらりと飲める辛口酒になる。しかもリーズナブルであることが望ましいわけで、必然的に普通酒が一番になります」

 社内にアグリ事業部まで作った理由

 良好な栽培環境を生かした地元米を積極的に使用
 地元で求められるお酒を安定供給するためには、まず原料米を確保しなければならない。麒麟山酒造では20年以上前から中心になって地元農家と共同して奥阿賀酒米研究会を組織し、100%地元米使用を目標にしてきた。
 年間1万俵必要だったが、当初の収量はその10分の1以下。なんとか目標に近づけようと平成23年に自社内に米作り専門部署であるアグリ事業部を立ち上げ、4人の専従社員も共に栽培に取り組んできた。
 現在では、研究会のメンバーは当初に比べて倍増し、2019年、ついに目標としてきた100%を達成した。栽培品種は酒造好適米の「五百万石」「たかね錦」「越淡麗」に一般米の「こしいぶき」。
 普通酒の掛米に使用するため、「こしいぶき」の栽培量が最も多い。
 「ついに地元産の原料100%での酒造りを達成できることになりました。長年の夢がかない、感慨無量です。けれどもここからが肝心。課題はそれを維持する仕組み。農家さんの高齢化、後継者問題がありますからね。ここは気候風土が魚沼と似ていて、栽培環境は良好なんです。だから地域での米作りが続いていくことを念願しています」
 地元米採用のメリットはなんと言っても安全性。確かな品質、信頼できる原料で酒造りに取り組める安心感だという。「だから自分たちの商品は、自信を持って販売できます」と蔵元は断言した。

 森が育む清冽な水を使って

 ミネラル分の少ない軟水を使いゆっくり発酵させている
 仕込み水は、「越後山脈・下越の谷川岳」と呼ばれる御神楽岳(みかぐらだけ)起原の常浪川(とこなみがわ)の伏流水。ミネラル分の少ない軟水のため、発酵が時間をかけてゆっくりと進み、酒は綺麗でスッキリとした味わいに仕上がるという。
 「水質は土壌に由来するんです。阿賀町は94%が森林で地上には広葉樹が落葉してつくられる自然のフィルターが堆積しています。山に降り積もった雪は、そのフィルターを通ってきめ細かな水になるんですね。酒造りに欠かせない良質な水を守るため、弊社では平成22年から「森作り事業」をスタートさせ、ブナやナラといった広葉樹の植林を行っています。また、木を植えて終わりではなく、下草刈りなどを行い、木々の管理をしなければなりません。当社でも年に一回社員総出で手入れを手伝っています」
 森が育む清冽な水は、人が手をかけてこそ保たれる。水は酒質を決める大きな要素だから、水を守る労苦は厭わない・・・そんな姿勢が垣間見えた。

 銘酒造りは人の和から

 麹造りに力量を発揮する専務取締役の長谷川良昭杜氏
 蔵の入り口には「銘酒造りは先ず人の和からはじめよう」という目標が掲げられている。とはいえ、蔵人は15名ほど、20代前半から60代後半までと年齢層の幅が広い。それを束ねているのが、専務取締役で杜氏の長谷川良昭さん。
 25歳から麒麟山酒造に勤務し、先々代の杜氏に厳しい薫陶を受けた。元々は農家だったので米には精通、とりわけ麹造りに力量を発揮しているという。
 この蔵では20年ほど前から社員制を採用。現在は全員が通年雇用だ。新人の蔵人は3年間、県の「新潟清酒学校」で研修する機会があり、その後も「新潟清酒研究会」や「新潟酒造技術研究会」などの組織に所属して研鑽を重ねている。
 こうした向学心も、人の和という絆から生れるのだろう。

 搾ったお酒は先進の設備で貯蔵熟成

 新設間もない貯蔵庫は温度管理を徹底できる
 「新潟清酒は搾ったらしばらく貯蔵して出荷するのが通常なんです。うちの設備で一番課題だったのが貯蔵庫。資金もですが広い土地が必要になりますから、なかなか物件がありませんでした。統廃合した保育園の跡地が使えることになって、ようやく貯蔵庫を新設できたんです」
 と、蔵元は貯蔵庫内を紹介する。導入した貯蔵タンクは100本近くあり、サイズ違いで6種類そろっている。お酒の容量に見合ったタンクで貯蔵することで、酸化による劣化を最小限に抑えるのだ。搾ったお酒は蔵からタンクローリーで運んでくるのだそう。温度管理の行き届いた貯蔵庫で眠るお酒の仕上がりに、期待が膨らむ。

 麒麟山酒造株式会社 新潟県東蒲原郡阿賀町津川46

*https://www.niigata-sake.or.jp/interview/k12.html より

 代表銘柄

麒麟山 超辛口 KIRINZAN “EXTRA DRY”

すっきりとして、キレ抜群。心地良い旨味から徐々に辛さがふくらむ究極の淡麗酒。味わいは55℃のお燗にてさらに開花します。

新潟・奥阿賀産米100%使用

推薦温度
◎ 55℃
○ 20℃
○ 10℃
アルコール度数:15度

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<日本の名水百選> 静岡 湧玉池

2025-02-24 06:36:00 | 名水百選

 「湧玉池」

 湧玉池(わくたまいけ)は静岡県富士宮市にある湧泉である。富士山本宮浅間大社の境内に位置し、国の特別天然記念物に指定されている。平成の名水百選の1つでもある。

 概要

 昭和19年(1944年)11月に国の天然記念物に指定され、昭和27年(1952年)には特別天然記念物に指定された。湧玉池の水源は富士山の伏流水であり、年間を通してほとんど増減なく毎日約30万t湧き出ており、水温は1年を通して13℃前後で安定している。一級河川神田川は、湧玉池を水源としている。

 池の水源がある境内北の丘陵地に末社である水屋神社が位置し、近辺には水汲み場が存在している。また池周辺には他に末社として厳島神社や稲荷神社が位置する。

*Wikipedia より

 「湧玉池・神田川(わくたまいけ・かんだがわ)」

 由来・歴史
 境内より水が湧き出る浅間大社は、火難消除などの守護神である木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめの)命(みこと)を主祭神としている。富士山の噴火を鎮めるため、当初は現在地から約6km北側の山宮に祭られた。
 昔、霊峰富士に登ろうとする者は、湧玉池で身を清め、精進潔斎することが第一条件とされていた。
 水質保全活動
 漁業権を持つ組合が、現在年4回神田川に入ってゴミの除去等の清掃を行っている。
 浅間大社青年会は、湧玉池内に生育するバイカモの保全を目的に、コカナダモ等の除去及びごみ拾いを毎年6月に実施している。

 周辺の自然環境-富士山を源流とし、国の特別天然記念物に指定されている。その昔、平安朝の歌人平兼盛が「つかふべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠ったとの言い伝えがあり、環境は常に良好に保たれている。
 利用状況-富士山の山開き神事前の伝統的な行事である禊が湧玉池で行われたり、神田川周辺では8月に「御神(ごじん)火(か)まつり」が行われる。神田川は、地域の特産品のニジマスを放流し、漁場となっていることもあり、3月には鱒つり大会が開催される。

*https://water-pub.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/data/index.asp?info=55 より

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