「剣聖 塚原卜伝」
塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本の戦国時代の剣士、兵法家。父祖伝来の鹿島神流(鹿島古流・鹿島中古流)に加え、養父祖伝来の天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新當流を開いた。
*Wikipedia より
「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)は、「上泉信綱」(かみいずみのぶつな)と並んで、戦国時代に双璧をなした剣豪です。「一之太刀」(ひとつのたち)と呼ばれる奥義を会得し、「鹿島新當流」(かしましんとうりゅう)を創始。戦歴は生涯無敗を誇り、最強の剣豪と謳われました。しかし、その人生は旅路に次ぐ旅路。生涯の約半分にあたる約39年間を廻国修行の旅に費やしています。各地を巡りながら剣の道を探求し続けた孤高の剣豪である塚原卜伝。その足跡をたどりながら、強さの秘密や秘剣・一之太刀の謎を紐解いていきます。
生涯無敗!常陸国の名家に生まれた天才
元服前に2つの流派を体得した麒麟児
「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)は1489年(延徳元年)、常陸国(現在の茨城県)で生まれました。生家の「卜部吉川家」(うらべよしかわけ)は代々「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)の祝部(はふりべ:神に仕える役職者)を務める家柄。
朝廷から常陸国大掾(ひたちのくにだいじょう:朝廷公認の地方領主)を拝命している鹿島氏の「四宿老」(よんしゅくろう)のひとつに数えられる名家でした。
鹿島氏の神官には、剣術を修めた家が7つあり、各家では「鹿島七流」(かしましちりゅう)と呼ばれる流派をそれぞれ継承していました。卜部吉川家もこのひとつで、「鹿島中古流」(かしまちゅうこりゅう)を伝承。塚原卜伝は、幼い頃から父「吉川覚賢」(よしかわあきかた)の手ほどきを受け、メキメキと剣の腕前を上げていきました。
塚原卜伝が10歳のとき、転機が訪れます。剣術の才と重厚沈着な性格が「塚原城」(茨城県鹿嶋市)を治める「塚原安幹」(つかはらやすもと)の目に留まり、養子に入ったのです。塚原家もまた剣術の名家として知られ、「香取神道流」(かとりしんとうりゅう)を修める一族でした。塚原卜伝はここでも持ち前の才気を発揮して剣術を修得し、10代半ばで2つの流派をマスターする傑物として一目置かれる存在になったのです。
戦乱の京都で剣豪としてスケールアップ
塚原卜伝は17歳で武者修行の旅に出ます。小領主の若殿として未来は約束されていましたが、自分の腕前と運を試したかったのです。諸国を巡って京の都に至った塚原卜伝は、名のある剣豪との立ち合いで早速剣名を知られるようになり、室町幕府11代将軍「足利義澄」(あしかがよしずみ)の目に留まります。そののち、足利氏直属の家来に取り立てられ、京の戦乱に身を投じることになりました。
戦場においても、塚原卜伝の剣技はレベルが違いました。37回戦場に立ち、そのうち22回敵と干戈(かんか:武力や武器)を交えてすべてに勝利。大将首12、武者首16を討ち取り、計212人を斬り倒したと言われています。しかも、自分が受けた傷はささいな矢傷が6ヵ所。京都にその名をとどろかすには充分な槍働きを見せたのです。こうした実戦における経験は、のちに塚原卜伝が生み出した「鹿島新當流」(かしましんとうりゅう)にも大いに影響を与えました。
秘剣を体得!「一之太刀」で前人未踏の剣境へ
鹿島神宮に1,000日篭もり、開眼
1518年(永正15年)、塚原卜伝は戦乱の京都から常陸国鹿島に戻ります。
7年前に旧主が没したあとも足利将軍家のために戦い続けましたが、混乱収束の見込みがいっこうに立たず、京都での生活に見切りを付けたのです。塚原卜伝は帰郷後、再び剣術修行に没頭します。養父である塚原安幹のすすめで鹿島家四宿老の一家である松本家の「松本政信」(まつもとまさのぶ)に師事。
松本政信は鹿島神宮に参篭(祈願のために神社などに篭もること)して秘技「一之太刀」(ひとつのたち)に開眼した剣豪であり、師礼を執ってきた塚原卜伝にも参篭修行をすすめました。
教えにしたがい鹿島神宮での1,000日参篭に入ると、満願の1,000日目が迫ったある夜、塚原卜伝に神託が降りました。白い髭を垂らした老人が現れ、木刀を突き付けてきたのです。塚原卜伝はその木刀を払い、相手に打ち付けようとしましたが、手応えがありません。やがて老人が神か仙人の類であると悟った塚原卜伝は、目の前に見える姿を脳裏から消し去り、自然体のまま一念のみを込めて木刀を打ち込みました。
そのとき、「自分も相手も存在せず、ただ無心で太刀とひとつになる」という不思議な感覚を体得。いわゆる一之太刀が開眼した瞬間でした。この新たな境地を開いたことにより、独自の流派・鹿島新當流の基礎が形成されたのです。
秘剣「一之太刀」の正体とは?
一之太刀については、ごく一部の高弟にしか伝授しなかったため、技の詳細は謎に包まれています。ただし、塚原卜伝の流れをくむ「卜伝流剣術」によると、「一つの太刀に生を燃焼し尽くし、一気に甲をも打ち割る気迫を込めた捨身の技を精神とし、二の太刀、三の太刀は用いない」とのこと。初太刀に全身全霊を込める技であることは確かです。
しかし、実際の塚原卜伝の立会は、一之太刀の極意に見える神秘的な側面とは打って変わり、極めて現実的な手段で下準備を行っていたことが分かっています。
例えば、「梶原長門」(かじわらながと)という武芸者との決闘では、敵が刃長(はちょう)約75cmの小薙刀(こなぎなた)を使用することを事前に調べ、自らの得物を80~85cmの太刀に変更。あらかじめ間合いの深さで優位を築いた上で立ち合い、一刀のもとに斬り倒しました。
このように、塚原卜伝は立ち合いを申込まれると、門弟を使って相手の情報を収集し、勝利により近付く方策を立てた上で決闘に臨むのが常でした。剣の心得をまとめた連歌集「卜伝百首」には、「武士の いかに心の たけくとも 知らぬ事には 不覚あるべし」という一首があります。事前の情報収集や状況分析がいかに大切なのかを説いています。
つまり、塚原卜伝の剣技の真髄とは、一之太刀のような必殺技が主体ではなく、徹底的に自分と相手を知ることで勝利を盤石にし、「戦わずして勝つ」ことにあるのです。
3度の廻国修行を経て天寿を全う
塚原卜伝は生涯を通じて計3回の廻国修行に出ています。初回が1505年(永正2年)から15年間、2度目が一之太刀に開眼したあとの1522年(大永2年)から11年間、そして3度目が1556年(弘治2年)から15年間です。
塚原卜伝が没したのは、3度目の修行から帰郷した1571年(元亀2年)。83歳の生涯のうち、39年間も廻国修行に費やしたことになります。これは、自らの剣技を広めることに力を注いだ証です。しかし、秘技・一之太刀を伝授できるだけの力量ある弟子は、片手で数えるほどしか現れませんでした。
*https://www.touken-world.jp/tips/73544/ より
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