「EX」
エクストラ、エキストラ(extra; [ˈɛkstrə])
「外」を意味するラテン語の接頭辞。特別、追加、臨時、番外。非常に。スーパーより強い強調。主に「EX」と略される。
*Wikipedia より
「EX」
エクストラ、エキストラ(extra; [ˈɛkstrə])
「外」を意味するラテン語の接頭辞。特別、追加、臨時、番外。非常に。スーパーより強い強調。主に「EX」と略される。
*Wikipedia より
「三洋電機」
三洋電機株式会社(さんようでんき、英: SANYO Electric Co., Ltd.)は、パナソニックホールディングスの子会社である日本の電機メーカー。本社は大阪府大阪市中央区、登記上の本店は大阪府門真市門真のパナソニック本社敷地内に所在。パナソニック傘下に入る以前には、創業から68年にわたり大阪府守口市に本社を置いていた。
松下幸之助の義弟(妻の弟)で、松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)の創業にも関わり、同社の専務取締役だった井植歳男が、GHQによる公職追放指定に伴い、1946年(昭和21年)に松下電器を退社。翌年2月1日、松下幸之助より、自転車用発電ランプの製造権と加西市にある松下電工北条工場(現在の「イオンモール加西北条」敷地)を譲り受け、個人事業「三洋電機製作所」を創業し、自転車用ランプを製造。当初は松下電器が三洋電機の名前を併記して「ナショナル」ブランドで販売していたが、のちに直販化した(2009年(平成21年)6月30日まで存在した企業博物館「サンヨーミュージアム」には、「ナショナル発電ランプ:三洋電機株式会社製造」などという旨が書かれた当時の広告やブランドロゴが展示されていた。)。松下電器産業の後藤清一も創業時に工場長として参加(後に副社長)。
1949年(昭和24年)、三洋電機株式会社設立。会社のロゴマークに、源流企業である松下電器の「ナショナルマーク」(Nマークの中身)に類似した円形に電気のスパークとサンヨーロゴ(こちらはナショ文字を意識はしているが同一ではないもの)をデザインしたものを採用。社名は太平洋・大西洋・インド洋を意味し、世界で活躍できる企業になるという意志が込められている。
*Wikipedia より
「牛鍋」
主な伝承地域 横浜市
主な使用食材 牛肉、長ねぎ、豆腐、しいたけ、春菊、卵
歴史・由来・関連行事
味噌や醤油を使ったたれで牛肉を煮込んだ、横浜市発祥の鍋料理。すき焼きに似ているが、すき焼きは肉を焼いてから煮るのに対し、牛鍋は最初から具材をたれで煮る。
日本で一般的に牛肉が食べられるようになったのは、長い鎖国が終わった江戸末期以降である。1859年に開港した横浜では、西洋文化の影響を受け、国内でもいち早く肉食文化が広まった。横浜港付近の居留地に住む外国人たちが食べていた牛肉料理にヒントを得て、横浜の居酒屋「伊勢熊」の主人が1862年に初の牛鍋屋を開業。当時の日本では牛肉を食することを嫌悪する人も多く、「伊勢熊」も妻の猛反対のため店を仕切って半分を居酒屋、半分を牛鍋屋としていたが、食べ慣れない牛肉を日本人好みの味付けにしたことから人気を博し、やがて牛鍋の専門店となったという。周囲にも次々と牛鍋屋が開店した。現在でも明治時代に開業した老舗料理店が営業を続けており、今では横浜を代表する名物料理となっている。
食習の機会や時季
季節を問わず一年を通して提供されている。現在においては高級料理のイメージがあり、人が集まるお祝いの席や法事などの際に食されることが多い。
飲食方法
鍋に、たれと肉・野菜を入れて煮る。煮えた具材を、溶き卵につけて食す。
店舗によって、肉が薄切りだったり角切りだったり、あるいはたれが醤油味だったり味噌味だったりと、味付けや具材にそれぞれ特色がある。
保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
市中の飲食店で提供されている。明治元年に創業し当時の味を守り続ける「太田なわのれん」のほか、「じゃのめや」「荒井屋」など長い歴史をもつ老舗が現在も営業を続けている。
市内の小学校では、横浜で生まれ全国に広がった料理として、毎年1月に牛鍋をアレンジした「すき焼き風煮」が提供されている。
*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/35_17_kanagawa.html より
「玉子焼」
*https://www.yokoso-akashi.jp/akashi/akashi-yaki.html より
玉子焼(たまごやき)は、鶏卵、浮粉(うきこ)や沈粉(じんこ)と呼ばれる小麦でんぷん、小麦粉、タコを材料に調製される軽食で、兵庫県明石市の郷土料理である。地元の明石市、東播磨、北播磨南部(特に加古川市、高砂市、三木市、小野市、播磨町、稲美町)、神戸市西部(西区、垂水区、須磨区など)、淡路島北部(淡路市)以外の地域では、卵を調理した卵焼きと区別するため、明石焼(あかしやき)と呼ばれることが多い。
概要
専用の鍋で焼かれた直径5cm程度の楕円体であり、見た目はたこ焼きに似ている。江戸時代の終わり頃から食べられており、たこ焼きのルーツのひとつであるといわれている。
たこ焼きと異なる点は、
鶏卵を多量に使うため色味が黄色い。また、短時間で焼き上げ表面を焦がすことはない。
小麦粉以外に浮粉と呼ばれる小麦でんぷんの粉を使うので、生地が非常にやわらかい。
焼き鍋が熱伝導が良い銅製である。鍋のくぼみはたこ焼き用よりも浅く、球形にはならない。
玉子焼を裏返すのに銅製の焼き鍋を傷つけないよう、金属製の道具を用いず菜箸を使う。
具が基本的にタコのみである。
昆布や鰹節などで取った出汁に浸して食べる。
店舗によって材料が異なり、小麦粉または浮粉を全く配合しない店舗もあるため、店舗ごとに味や柔らかさが変わる。
焼く際に焼き鍋に曳く油に胡麻油を用いる店舗がある。店によっては、タコ以外にこれも明石名産の穴子を具として入れているところもある。
小さなまな板状の木製の板に盛り付けられ、箸を使って添えて出される出汁に浸けて食べる。出汁は熱い玉子焼を冷ますのが本来の目的だったが、現在は温めた出汁を提供する店が多い。温かい出汁を用いるようになったのは比較的新しく、1963年ごろに神戸元町の店が始めたのが最初であるという。だし汁に薬味として三つ葉を浮かべるのも上記の店から広まったスタイルである。
まな板状の上げ板は手前が低く奥が高くなっている。これは、皿の洗浄の際に同方向に重ねると水切りがよいためや、奥の柔らかい玉子焼を取りやすいためなど、諸説ある。また玉子焼が柔らかくまた崩れやすく、また大阪のたこ焼きとは違い千枚通しを使わず、焼き鍋から木皿に取り出しにくいため、焼き鍋の上に木の板をかぶせ焼き板ごと裏返して板状の木皿に乗せる。その時の持ち手がついているため、今のような形になったとも言われている。また、この焼き鍋を裏返しにして木皿の上に玉子焼をのせる動作も、玉子焼を焼く上でのひとつの見せ場だという。
伝承
明石では卵の白身を用いた模造珊瑚の装飾品、明石玉の生産が盛んであり、卵の黄身が余る状況であった。このことが明石焼きの誕生につながったという説がある。この説は1964年に雑誌『旅』において漫画家の広瀬安美が唱えたもので、広瀬は玉子焼発祥の店として明石市川端通の向井屋をレポートした。玉子焼を始めたのはこの年87歳で亡くなった向井屋の店主とも伝えた。
一方、兵庫県水産試験場(明石市)でタコ博士と呼ばれた井上喜平治によると1930年代の明石には玉子焼という名前は無く、屋台引きが各種揚げ物を含めてテンヤモンと呼んだ商品の中の一つであったと1965年の著書『蛸の国』で自身の体験を紹介している。また、近隣の老人による聞き取りで玉子焼の誕生は1889年~1890年(明治22~23年)頃であったと伝え、広瀬説にある向井屋の店主の年齢と天保年間に誕生した明石珠とは少し年数が合わぬ気がすると指摘している。
その他
明石市でも特に明石駅南側の魚の棚などの商店街一帯にある店舗が有名で、明石を目指す観光客の目的の一つにもなっている。また明石以外の土地では、たこ焼きを扱う店で「明石焼」の名称で扱われることが多い。この名称が広がったのは大阪府守口市に本社を置く白ハト食品工業が1973年に白ハト印明石焼として各地で販売を開始したことが大きい。なお、明石で「明石焼」のみで「玉子焼」の表記がない店舗には老舗は少なく、観光客向けの店舗が多い。
古くからある店では玉子焼の専門店は少なく、お好み焼き、そば焼き(焼きそば)、玉子焼の三本柱で提供している店が多くある。
明石にずっと住んでいる年配者では、「タマゴヤキ」ではなく「タマヤキ」と呼ぶ者も多く、明石の寺町(大観校区)の玉子焼店では今でも「タマヤキ」で通じる。
一人前の個数は、8個から12個ほどと、用いる鍋の大きさによって異なる。基本的に銅板の焼き鍋1つ分であるため、かつては一人前を一鍋(ひとなべ)と呼んでいた。
明石市の西部や姫路市などでは、玉子焼にソースを塗った上で出汁につける食べ方も一般的である。
*Wikipedia より
「水前寺海苔」
淡水産のノリ。藍藻類ネンジェモ科。
熊本の水前寺周辺の池や江津湖が原産地であったことから水前寺海苔という名称になった。
*https://temaeita.net/top/t2/kj/93_J/05.html より
「冬の日本海が育む 極上の味と風味! ずわいがに〜石川・金沢市〜」 2023年1月9日
石川県で水揚げされる「ずわいがに」は今が旬。ぎっしり詰まった身はもちろん濃厚カニミソも極上!豪快漁師メシから老舗割ぽうの一品まで地元の多彩なかに料理をご堪能あれ
日本海の冬の味覚を代表する「ずわいがに」石川県産のオスは加能がに(加賀+能登)と呼ばれプリプリ食感ととろける甘さが絶品です。漁師たちは加能がにの中でも超大物のプレミアムがにを狙い漁に出ます。食材ハンター中村昌也さんも同行しようとしますが、想定外の展開が!果たして超大物はゲットできたのか?地元割ぽうの名人直伝のかに料理はゆでても揚げても焼いても美味この上なし!年の初めは極上のずわいがにでいかがカニ?
「うまいッ!」の秘密
何より、活きの良さがずわいがにの命!獲ったかには、いけすへ入れ、港へ水揚げするギリギリまで生かします。このいけす、かにが暮らす海底と同じくらいの水温に海水を冷やす機能もついていて、より元気な状態で港へ運びます。
極小のリング状のアイテム。かにのつめに取り付けることで、いけすの中でほかのかにを傷つけないように守ります。さらに、身の危険を感じると自ら手脚を取ってしまうという、かにの生態を考え、自らの身までも傷つけさせない「小さくても大きな」効果をもたらすアイテムです。
「ずわいがにを使った料理」について
「ゆでがに」※ずわいがにの甘みやうまみを存分に味わうには、漁師さんおススメのゆでがにが一番!
<作り方>
・甲羅や殻の表面を洗ったずわいがにを、水の状態からなべに入れて丸ごとゆでる。
沸騰してから15分ゆでれば完成。
「刺身」
<作り方>
・ずわいがにの脚を包丁を使って殻を外し、身の部分を氷水に数分さらす。身が花が開いたようになったらできあがり。
※新鮮なものしかこのような状態にはなりません。
「天ぷら」
<作り方>
・下処理は刺身と同様。(氷水にはさらしません。)
あらかじめ冷やしておいたてんぷら粉と水を、あまり混ぜすぎないようにかき混ぜて衣を作る。カニの身に衣をつけ、180℃の油で1分程度揚げる。
●「焼きがに」について
<作り方>
魚焼きグリルや、カセットコンロに乗せた網で焼く。火加減は弱火。(できれば遠火)
表面に焼き色がつき、身がふくれたらOK。(みそも表面に焼き色がつけばOK)
*https://www.nhk.jp/p/umai/ts/P7R4N8K39M/episode/te/54NJJ7RX31/ より
「El Matador-闘牛士 マリオ・ケンペス」
マリオ・アルベルト・ケンペス(Mario Alberto Kempes, 1954年7月15日 - )は、アルゼンチン・コルドバ州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。アルゼンチン代表であった。ポジションはフォワード。ペナルティエリア内に陣取るセンターフォワードではなく、運動量の多いフォワードとして知られ、しばしばペナルティエリア外からもゴールを狙った。
*Wikipedia より
「アビセレステスの闘牛士」
果敢な突進とスピードで相手の堅陣を打ち破り、優れた技術と反射神経、強力な左足キックでゴールを量産したストライカー。またヘディングも得意とし、総合能力の高さを誇った。その冷静に相手を仕留める正確なシュート技術で「エル・マタドール(闘牛士)」の異名を持つのが、マリオ・ケンペス( Mario Albert Kempes )だ。
早くから点取り屋としての才能を発揮し、19歳で地元の名門ロサリオ・セントラルへ入団。74年には25ゴールを挙げ、若くしてリーグ得点王に輝く。76年にはスペインのバレンシアへ移籍。研ぎ澄まされた嗅覚とスピード感あふれるドリブル突破でゴールを量産し、リーガ・エスパニョーラの2年連続得点王に輝いた。
アルゼンチン代表として74年のW杯に初出場。この時は1得点も挙げられずに終わったが、78年の自国開催W杯ではエースとして活躍。大会得点王となる6ゴールを決め、アルゼンチンを初の世界王者に導く。その謙虚な人柄とフェアプレー精神で、長髪のマタドールとして国民に愛された。
アルゼンチンの若き点取り屋
マリオ・ケンペスは1954年7月15日、首都ブエノスアイレスの西北600kにあるコルトバ州の小さな町ベルビジュに、ドイツ系の父親とイタリア系の母親の間に生まれた。
父はアマチュアとしてプレーするサッカー選手で、息子のマリオも幼い頃からボールに親しみ、7歳の時に地元のジュニアスクールでサッカーを開始する。
すると早くもCFとしての才能を発揮し始め、14歳の時にプリメーラ・デビシオン(1部リーグ)に所属するタジェレス・デ・コルドバの下部組織に加入。17歳でトップチームデビューを果たす。
すると1年目の73シーズンから13試合で11得点を挙げ、この活躍により名門ロサリオ・セントラルと契約。強豪エスツディアンテス・デ・ラプラタとのデビュー戦でハットトリックを演じた。
そして移籍1年目の74シーズン、36試合29得点の活躍で後期ステージ得点王。翌75シーズンも前後期合わせて49試合で35ゴールと得点を量産。たちまち国内きっての点取り屋として知られるようになった。
20歳でのW杯初出場
クラブでの顕著な活躍により、73年9月に19歳でフル代表初招集。W杯南米予選のボリビア戦で初キャップを刻んだ。
アルゼンチンがW杯南米予選で首位突破を果すと、翌75年4月に行なわれた親善試合のルーマニア戦でケンペスは代表初ゴールを記録。このあと5月のフランス戦、イングランド戦と強豪を相手に立て続けに得点し、たちまちアビセレステス(アルゼンチン代表の愛称)の若きホープとなった。
74年6月、Wカップ・西ドイツ大会が開幕。1次リーグの初戦は、72年ミュンヘン五輪金メダルのポーランドに2-3と競り負け。第2戦は前大会準優勝のイタリア相手に先制するが、痛恨のオウンゴールで1-1の引き分け。それでも最終節で格下ハイチを4-1と退け、グループ2位で2次リーグへの進出を果す。
2次リーグの初戦は、「トータルフットボール」で大会に旋風を巻き起こしたオランダと対戦。今ひとつ勢いに乗れないアルゼンチンにオレンジ軍団を止める力はなく、ヨハン・クライフの2発に沈んで0-4の大敗。続く第2戦もライバルのブラジルに1-2と敗れてしまう。
最終戦でようやく東ドイツに1-1と引き分けるが、2次リーグ最下位で敗退となった。ケンペスは6試合のうち5試合で先発、残り1試合も途中から入って全試合出場を果たすが、大舞台での経験不足を露呈してノーゴールに終わってしまった。
翌75年、4ヶ月間のホーム&アウェー方式で行なわれたコパ・アメリカに出場。ケンペスは4試合3ゴールの活躍を見せたものの、ここでもブラジルの後塵を拝しファーストステージ敗退。アルゼンチンは近年の低迷から抜け出せずにいた。
新天地スペインでの活躍
78年W杯はアルゼンチンでの開催が決まっていたが、大会を2年後に控えた76年に軍事クーデターが勃発。軍の圧政と弾圧による強権体制が敷かれた。そして軍事政府は国際的イメージの回復と経済不況からの脱却を図るべく、W杯の成功と母国初優勝の至上命題を、40歳の青年監督セサル・ルイス・メノッティに託した。
60年代に入ってからのアルゼンチン代表は、相手の中心選手を暴力的なプレーで潰す野蛮なスタイルで世界に悪名を轟かせ、国内の評判も悪かった。そんなダーティーイメージを払拭したい軍事政権にとって、クリーンなプレーと高い個人技を基盤とした攻撃サッカーを志向するメノッティ監督はうってつけの人材だった。
またメノッティ監督も軍事政権の権力を利用。長期の強化合宿で連携の質をあげるため、代表候補選手の国外への移籍を強制的に禁止する。また国内のクラブには代表チームへ協力態勢をとるよう圧力をかけ、チーム作りの綿密なプログラムを組み立てた。
76年シーズンのリーグ戦途中、1試合1ゴールのハイペースで得点を重ねていたケンペスに、スペインのバレンシアからオファーが舞い込む。破格の移籍金を提示されたロサリオは、バレンシアへの譲渡を承諾。ケンペス本人は悩んだが、軍事政権下にあるアルゼンチンを離れてバレンシアと契約を結ぶことを決める。メノッティ監督にとっては、寝耳に水の移籍だった。
バレンシアでの76-77シーズン、スタートこそ不慣れな環境で躓いたケンペスだが、尻上がりに調子を上げ24ゴールを記録。いきなりリーグ得点王に輝く。チームメイトの信頼を得た翌77-78シーズンも、28ゴールの活躍で2年連続の得点王。サポーターは南米からやってきた点取り屋を「エル・マタドール」と呼んだ。
母国開催のワールドカップ
代表強化に努めるメノッティ監督は、ダニエル・パサレラやオズワルド・アルディレスといった若い知性派を抜擢。彼らを中盤の軸に据え、国内組で固めた攻撃的なチーム作りを進めていた。
それでも欧州屈指のストライカーとなったケンペスの得点力は無視できず、メノッティ監督は過去のいきさつを水に流すことにした。こうして欧州からはFWケンペス、MFピアザ(サンテティエンヌ)、DFウォルフ(レアル・マドリード)の3人をW杯メンバーに招集。このうち2人は都合により参加できなくなったため、ケンペスは唯一の国外組として代表へ合流することになる。
78年6月、Wカップ・アルゼンチン大会が開幕。1次リーグ初戦は前半10分にハンガリーの先制を許すも、5分後ケンペスのシュートの跳ね返りをFWルーケが押し込んで同点。終盤の83分にはベルトーニの逆転ゴールが決まり、開催国が2-1と白星スタートを切った。
続く第2戦はプラティニ擁するフランスと対戦。前半ロスタイム、ケンペスの突破からルーケにボールが渡り、相手のファールを誘ってPKを獲得。これを主将のパサレラが沈め、アルゼンチンが先制。後半60分にはプラティニのゴールで追いつかれるも、73分にルーケが勝ち越し弾。
その後あやわPK献上の場面も主審の見逃しに救われ、アルゼンチンが逃げ切って2-1の勝利。2連勝で早々と2次リーグ進出を決める。
第3戦はグループ首位を争うイタリアとの全勝対決。地元アルゼンチンとしては首都ブエノスアイレスに残るためぜひとも勝ちたい試合だったが、アズーリの老獪な守りに抑えられて0-1の敗戦。開催国は地方のロサリオへ移動することとなった。
しかしロサリオはケンペスにとってかつてのホームグラウンド。1次リーグでそれなりの働きをしながら不発に終わったケンペスは、慣れ親しんだピッチでついに本領を発揮する。
エル・マタドールの本領発揮
2次リーグ第1戦の相手はポーランド。開始15分、ベルトーニからのクロスに走り込んだケンペスがヘディングで先制。37分にはポーランドのラトーが決定的なシュート。それをケンペスが手で弾き、ポーランドにPKが与えられる。だがそのPKをポーランド主将のティガが失敗、アルゼンチンは窮地を逃れた。
そして71分、アルディレスのパスからケンペスが中央に切れ込み、豪快な追加点を叩き込む。こうして古巣で目覚めた闘牛士の活躍で、アルゼンチンは2-0と勝利を収める。
続く第2戦の相手は宿敵ブラジル。試合は両チーム合わせて4人の負傷者が出る大荒れの内容となり、結局0-0の引き分けで終わった。
2次リーグの最終節でブラジルはポーランドに3-1と快勝。この時点でアルゼンチンが決勝に進むには、ペルーとの最終戦で大量得点差をつけての勝利が必要となった。ゲームはアルゼンチン選手が過度のプレシャーに襲われる中、21分にパサレラとの壁パスで中央を破ったケンペスが左足を振り抜き、先制弾を叩き出した。
これで勢いに乗ったアルゼンチンは43分に追加点。後半に入った46分にもケンペスが3点目を挙げた。その後ルーケが2ゴールを記録するなどペルーに6-0と圧勝。ブラジルを得失点差でかわし、地元アルゼンチンが決勝進出を果たした。
紙吹雪の中の決勝戦
エスタディオ・モヌメンタル(リーベル・プレートの本拠地)で行なわれた決勝の相手は、前回 “オレンジ旋風” を巻き起こした準優勝国のオランダ。だがそこに世界的スパースター、ヨハン・クライフの姿はなかった。
「アル・ヘン・ティーナ!」の大歓声と白い紙吹雪にグランドが包まれる中、熱狂の試合は開始。その38分、アルディレスの縦パスを受けたルーケがボールを中央へ。するとケンペスがDFの間を縫って突進し、左足を伸ばしてGKの右を抜く先制点を挙げる。
リードされたオランダは後半に反撃。82分には途中投入された長身のナニンハがヘディングでネットを揺らし、ついに終盤で追いつく。ロスタイムにもレンセンブリンクがあわやのシュートを放つが、ポストに阻まれオランダは決勝点を逃してしまう。
決勝は延長戦へ突入。その前半の105分、ベルトーニのパスを受けたケンペスが強引なドリブルから2人のDFを置き去りにしてシュート。1度はキーパーに弾かれたが、素早く反応して勝ち越し弾を押し込んだ。
さらに延長後半の116分、ケンペスのドルブル突破からベルトーニが追加点。4-2と勝利を決定づけた。こうしてアルゼンチンは地元開催でW杯初制覇を果たし、6得点を挙げて優勝の立役者となったケンペスは大会得点王とMVPを獲得。南米年間最優秀選手賞とアルゼンチン最優秀選手賞にも輝く。
闘牛士の引退
78-79シーズン、バレンシアはコパ・デル・レイの決勝に進出。ケンペスはレアル・マドリードとの決勝で全2得点を挙げ、クラブ12季ぶり5度目の優勝に貢献する。翌79-80シーズンの欧州カップウィナーズ・カップでも得点王となる9ゴールの活躍を見せ、大会初優勝の原動力となった。
こうしてバレンシア史上最高のストライカーと呼ばれるようになったケンペスだが、アルゼンチンの強豪リーベル・プレートから高額提示のオファー。81年に母国に戻ってプリメーラ・デビシオンに貢献するも、リーベルが移籍金を支払いきれなかったため、ケンペスは1年でバレンシアに復帰する。
82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。ケンペスは若き10番ディエゴ・マラドーナの引き立て役に回って中盤に下がるが、すでに4年前ほどの輝きはなく、5試合に先発してノーゴール。前回王者のアルゼンチンが2次リーグで敗退すると、大会終了後に代表からの引退を表明。実質7年間の代表歴で43試合に出場、20ゴールの記録を残した。
同じ84年にバレンシアを去ると、同じスペインのヘラクレスで2年間プレー。30代を過ぎてからはオーストリアに活躍の舞台を移し、3つのクラブを経て92年に引退する。
その後は古巣バレンシアでアシスタントコーチを務めたのち、95年にチリ2部リーグのフェルナンデス・ビアスで現役復帰。96年にはインドネシアリーグのペリタ・ジャヤで監督兼選手となり、1年間プレーして42歳で現役を退いた。
現役引退後はアルバニア、ベネズエラ、ボリビアなどでクラブ監督を歴任し、13年からはバレンシアのグローバル・アンバサダーとして活動している。
*https://rincyu.hateblo.jp/entry/2023/12/25/185614 より
「念が晴れる」
全く思い残すところがなくなる。
「年季が明ける」
年季奉公の期限が終わる。年 (ねん) が明く。
「年季」-1 奉公する約束の年限。2 「年季奉公」の略。
「年季が入る」
1 長い間修練を積んで確かな腕をしている。
2 道具などが長く使い込まれている。老朽化している。
[補説]「年期が入る」と書くのは誤り。
「年季を入れる」
長い間努力してその仕事を修練する。
「年貢の納め時」
《租税の滞納を清算する時の意から》悪事をしつづけた者が、捕まって罪に服する時。転じて、物事をあきらめなくてはならない時。
*goo辞書 より
「野口酒造店」
野口酒造店の歴史
江戸幕末の時代。
大國魂神社の神人(じにん)という役職にあった野口家は、神社で使用する御神酒造りを依頼され、万延元年(1860年)当家初代、野口久兵衛が「中屋」と名乗り酒造りをはじめました。
それが野口酒造店のはじまりです。
「中屋」の「久兵衛」から「中久」と呼ばれるようになり、その酒造りをはじめた地で、現在も当酒造店直営「中久本店」の屋号を守り、酒を通じた商いを営んでおります。
長年ご愛顧いただきました「國府鶴」を38年ぶりに手造りで醸します。
2024年、復活蔵の新しい「國府鶴」どうぞご期待ください!
合名会社 野口酒造店 東京都府中市寿町2丁目4番地ノ8
國府鶴(こうづる)
「純米」「純米辛口」「純米大吟醸」「さくら福姫」「生酒」
「寂地川」
西中国山地国定公園の三大渓谷の一つとされる。標高300m、錦川支流の宇佐川にあり、犬戻峡と竜ヶ岳峡の二つに分かれている。犬戻峡は犬戻十八滝が名所で、幾つもの滝が連続する。特に五竜の滝は環境省の日本の滝百選にも選ばれている名瀑。対して竜ヶ岳峡は七ヶ所の滝を中心として、奇岩、岩屋が連続する。寂地山の頂から清冽な水が流れており、1985年(昭和60年)寂地川として名水百選に選ばれている。 湧水が豊富で水質が良いことから飲料水やワサビ栽培に利用されている。
*Wikipedia より
錦川の支流宇佐川の最上流で西中国山地国定公園内にあり、昔、村人を悩ませた大蛇を退散させたという「寂地の高僧」と呼ばれる伝説がある。豊富な湧水は古くから地元住民の飲料源や特産物であるわさび栽培に利用されている。
水質・水量
昭和60年の選定当時とほぼ変わらず水質・水量ともに良好な状況を保っている。(近年は水質検査を実施していない)
由来・歴史
大昔、このあたりいったいの里人を苦しめる「大蛇」がいた。七尾七谷に体を横たえ、一度動けば峰の草木は倒れ、その息吹に花や木は枯れ果て里人を悩ませていた。ある日、「寂仙坊」と名乗る旅の僧が現れ里人の災いを救わんと、「大蛇」退散の祈祷を続け、見事に「大蛇」を退治したことから、「寂地」の名前がついたといわれている。
水質保全活動
地区の方が「寂地川」周辺の遊歩道やキャンプ場などの清掃活動を毎月定期的に行っている。
おすすめの時期-5月の新緑のころから11月上旬の紅葉まで
周辺の自然環境-付近一帯は西中国山地国定公園に指定され、ブナの原生林に覆われている。なかでも「寂地川」周辺は特別保護区となっている。また、「寂地川」にある「五竜の滝」は日本の滝百選にも選定されている。
利用状況-寂地川からくみ上げた水を地区の飲料水として昔から利用している。
イベント情報-周囲にはキャンプ場、バンガロー等も整備され夏には涼を求めて多くの人でにぎわう。
*https://water-pub.env.go.jp/water-pub/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=73 より
寂地川の水は、採水地に向かえば飲用することも持ち帰ることも可能です。ただし、容器が配布されているわけではないため、持ち帰る際にはペットボトルや水筒などの容器が必要となります。
また、寂地川の水はインターネット通販などでも購入することが可能です。300mlの容器に入った水が20本入りで販売されています。
*https://www.flair-water.jp/meisui/1821/#i-8 より
上記のようにあるが、確認されませんでした。