「赤津焼」
Description / 特徴・産地
赤津焼とは?
赤津焼(あかづやき)は愛知県瀬戸市の東部にある赤津町周辺で作られている陶器です。平安時代から鎌倉時代にかけて始まった代表的な窯にあたる、日本六古窯(にほんろっこよう)の1つになります。
赤津焼の特徴は赤津焼が日本六古窯の中でも、最初に釉(うわぐすり)のかかった本格的な技法を始めたということです。伝統工芸品である釉薬(ゆうやく)は、平安時代に灰釉(かいゆう)からはじまり、鎌倉時代には鉄釉(てつゆう)、古瀬戸釉(こせとゆう)などが出現し、江戸時代初期には7種類が釉薬の技法として確立しました。また同時に、型押しで模様をつける「印花(いんか)」、波形や点線、渦巻きの模様を描く「櫛目(くしめ)」などの12種類の装飾技術も発展を遂げ、現在もなお一千年を超える赤津焼の伝統が続いています。
その伝統の灯を絶やさぬように、伝統技法をしっかりと継承しつつ、新しい器を作ろうと二世らが情熱を燃やし切磋琢磨しました。美術工芸品、茶道具・花器などから一般食卓用品にいたるまで高品質な手作りの陶器として日本で浸透しています。
History / 歴史
赤津焼の起源は奈良時代(700年頃)に存在した須恵器からだと伝えられています。古墳時代に瀬戸の猿投(さるな)山山麓から始まった赤津焼は、平安時代以降日本最古である「灰釉」という「釉薬」の出現や、「張り付け」、「浮き彫り」等の多彩な技法に磨きがかかり、日本六古窯の一つに数えられるようになりました。
桃山時代に入り黄瀬戸、志野、織部の釉薬の出現により、当時茶華道が発達していたこともあり茶陶を中心に重宝されるようになりました。優雅な桃山時代を思わせる鉄絵の装飾は、今もなお赤津焼の代表作品として作られています。徳川幕府が開幕し、江戸時代に入ると名古屋城を中心とした尾張藩が作られ始めました。尾張藩の御用窯として赤津焼は多くの高級茶器から日常的に使われる食器などを作ることになります。
伝統を受け継ぐ窯は現在瀬戸市に60余り存在し、日本の窯業の一大中心地にまで発展しました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/akazuyaki/ より
日本六古窯の一つ、赤津焼千年の歴史
愛知県瀬戸市と聞けば、誰もが連想する「せともの」という言葉。幅広い分野の陶磁器が生産されるなか、市内東端にある赤津地区で作られる陶器の赤津焼は飛鳥・奈良時代にまでその起源がさかのぼるといわれ、日本六古窯の一つに数えられている。
静かな風土に育まれた伝統
尾張瀬戸駅から車で10分ほど、坂道の多い赤津地区はまさに「やきものの里」の名がふさわしい。多くの窯元が軒を連ね、傾斜を利用したかつての登り窯の名残もところどころに姿を見せる。弄月(ろうげつ)窯の梅村晴峰さんをたずねお話しを伺った。子どものころから「土が遊び相手」だったという梅村さんは、公務員として働いた後、昭和40年39才のときに江戸時代から続く由緒ある窯を継いだ。折しも時代は高度経済成長期。「いい時代に始めたと思っていますよ」。だが時代を味方につけただけでなく、自らの探究心と意欲を注ぎこんで赤津焼の伝統技法に取り組んできた。
七つの釉薬の不思議
赤津焼の特徴として「七つの釉薬、十二の技法」という言葉がよく使われる。本来釉薬は発色や焼成の状態によって名前が違い、数多くの種類がある。それを整理して七種類に統合したのは実は梅村さんの考えによるものだ。「レインボーカラーをイメージしたんですよ。」平安前期の灰釉をはじめとして、赤津は日本で一番早く釉薬を使用した産地。 「この地方は第一にいい陶土が採れます。鉄分の少ない白い土でね。それにいろいろな着物を着せるということですよね」。力強さを感じる黒褐色の鉄釉、明るく上品な黄瀬戸、深みのある緑色の織部、他に古瀬戸、志野、御深井と、どれもそれぞれに味わい豊かな色合いで、まさに七色の秘薬といったところだ。そして、バラエティに富んだ釉薬を際立たせる数々の装飾技法もまた、赤津焼の特徴である。ヘラ目、櫛目、印花、浮き彫りなど多くの技法がこの地で生まれ、他の産地へ伝えられた。
これからの陶工には、トータルプロデュースが必要
「赤津焼は総合職の仕事でね。」土を練るところから作業が始まる。釉薬もすべて自分で作るので、作者それぞれの特色が出る。「いかにいいものを作るかという観点で仕事をしています。自分ならこういうふうに作る、という意欲を持たなければ・・・。」焼きものは時代性の受け入れが簡単ではなく、新商品の開発は難しい。そのなかで時代感覚にマッチした造形のもの、生活様式の変化に伴う生活用品を考えていく必要がある。「もう大量消費の時代じゃない。何か付加価値をつけて、いいものを買っていただくということです。これからの陶工は、デザイナーであり、技術者であり、販売業者でもあることが求められます」。流通業者に頼らず、自分の作ったものをどうやって売っていくかが課題となる。「自分のファン、自分の顧客を作りなさい、といつも言っているんですよ。」赤津焼の将来を見据え、観光産業化やインターネット上でのPRも視野に入れるとともに、伝えていくためには、技術だけではなく学術的な裏付けや知識を持つことも重要だと主張し、若い世代への期待も大きい。「歴史のある赤津の地で、いつまでも焼き続けられて欲しいですからね。」
火の魔力にすべてを預ける
そう語る梅村さん自身も、まだまだ創作意欲は衰えていない。十数年前に鉄結晶釉の平茶碗を作った。面白いものが焼き上がり、それから何百回と挑戦したが同じものはできなかった。「一生のうちにもう一回、あれを作りたいね。あとはやはり後世に残る作品を作りたい」。焼きものの魅力のひとつは最後の重要な部分を、自分の能力を超えた「火」に預けるところだと言う。いい方向にも悪い方向にも変える力。火の魔力が七色の釉薬の可能性を広げていく。
職人プロフィール
梅村晴峰 (うめむらせいほう)
1926年生まれ。 大量生産とは異なる独自性、質の良さにこだわる。
こぼれ話
お茶の流行と茶道具として親しまれる器
赤津焼には千年を超える長い歴史がありますが、桃山時代には茶道の発展とともに、織部、志野、黄瀬戸などの茶陶が盛んに焼成されるようになりました。深みのある赤津焼は礼節作法を重んじるお茶の世界によく似合います。ところで、もっと最近にも習い事としてお茶が盛んになった時期がありました。それは昭和40年代。 記憶をたどると、小学生から主婦まで、多くの女性がお茶の教室に通うのがブームとなりました。外で習うだけでなく、家にもきちんと道具をそろえ、さらに結婚するときには新しい道具を買い揃えた人も多かったのではないでしょうか。この時期にはやはり抹茶茶碗をはじめとする茶道具の生産が盛んだったそうです。 今はめっきり正式なお茶の作法で客をもてなすという習慣が少なくなり、茶道具より多目的の器が多く作られています。 世の中のブームで、陶器の需要も変わりつつあるのです。
*https://kougeihin.jp/craft/0408/ より
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