足取り高く 雲もなく 日毎夜ごとの激戦に
どうせ明日は死ぬる身と 覚悟していたけれど
ぼくは不思議にかすり傷
どうぞ母さん この手紙 着いたら泣かずに皆さんに
伝えてください頼みます ぼくの手柄じゃありません
髭だけ見たら 部隊長
一番と二番の歌詞が混じり、曲の終わりも分からないのですが、幼い私が覚えていた軍歌の一つです。歌詞だけ読めば、深刻になりますが、メロディーは軽やかで、明るい歌です。誰が歌っているのか知りませんが、今でも私は口ずさめます。
シベリアに抑留されていた父が、運よく戻り、母と私は、それまで暮らしてた出雲を離れ、父の郷里で生活しました。年に一度だけ母は私を連れ、二人だけで、母の姉の住む都市で何日かを過ごしました。
今にして思えば、大勢の家族の同居する田舎で、休む間も無く働いていた母を、息抜きさせようと、父が行かせていたのかとも思います。この軍歌は、まだ小学校へ上がる前だった私が、叔母の家のレコードで聞いたものです。伯母は羽振りの良い商売人で、立派な電蓄があり、レコード盤も沢山ありました。大人たちが忙しく働いていましたので、一人で二階の部屋にあるレコードを聴いていました。
「だめ、こんな歌を聞いたらダメ。」「進駐軍に聞こえたら、捕まってしまうよ。」
伯母に叱られ、二度と聞けなくなりましたが、心に刻まれた歌は、消されずに残りました。当時はまだ、街なかを進駐軍のジープが走り、乗っているアメリカ兵が、ガムやキャンディーをくれることがありました。子供たちには怖い兵隊というより、お菓子をくれる優しい大人でしたから、ジープを見つけると大勢で後を追いました。
サンフランシスコ平和条約を締結し、日本が独立したのが昭和26年で、そのときは小学校の一年生だったと思います。連合軍は日本の独立後いなくなっていますから、軍歌のレコードを聴いたのは、それ以前だと分かります。7才で一年生ですから、5才か6才頃の話になります。
敗戦以後、GHQは全ての軍歌を禁じ、軍と繋がる歌詞まで禁止するという徹底ぶりでした。以前ブログに書きましたが、「村の船頭さん」と「冬の夜」という唱歌に、検閲のため削除されている言葉があったと知り驚いたものです。今の子供たちが、こういう唱歌を学校で習っているのかどうか、知りませんが、歴史の記録として息子たちに紹介しておきます。
1. 村の船頭さん 戦前の原詞 [編集]
(1) 村の渡しの船頭さんは
今年六十のお爺さん
年を取つてもお船を漕ぐときは
元気いつぱい艪がしなる
それ ぎつちら ぎつちら ぎつちらこ
(2) 雨の降る日も岸から岸へ
ぬれて舟漕ぐお爺さん
今日も渡しでお馬が通る
あれは戰地へ行くお馬
それ ぎつちら ぎつちら ぎつちらこ
(3) 村の御用やお國の御用
みんな急ぎの人ばかり
西へ東へ船頭さんは
休む暇なく舟を漕ぐ
それ ぎつちら ぎつちら ぎつちらこ
2. 村の船頭さん 戦後の改訂稿 [編集]
(1) 村の渡しの船頭さんは
今年六十のお爺さん
年を取つてもお舟を漕ぐときは
元気いっぱい艪がしなる
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
(2) 雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて舟漕ぐ お爺さん
けさもかわいい 子馬を二匹
向こう牧場へ 乗せてった
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
(3) 川はきらきら さざ波小波
渡すにこにこ お爺さん
みんなにこにこ ゆれゆれ渡る
どうもご苦労さんと いって渡る
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
GHQによる言論統制が、どれほど徹底していたかの一端が、息子たちにも伝わったと思います。もうひとつが、「冬の夜」の唱歌です。
(1) 燈火(ともしび)近く衣(きぬ)縫(ぬ)う母は
春の遊びの、楽しさ語る。
居並(いなら)ぶ子どもは指を折りつつ
日数(ひかず)かぞえて喜び勇む。
囲炉裏火(いろりび)はとろとろ
外は吹雪(ふぶき)。
(2) 囲炉裏のはたで縄(なわ)なう父は
過ぎしいくさの手柄(てがら)を語る。
居並ぶ子どもはねむさ忘れて
耳を傾(かたむ)けこぶしを握(にぎ)る。
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪
春の遊びの、楽しさ語る。
居並(いなら)ぶ子どもは指を折りつつ
日数(ひかず)かぞえて喜び勇む。
囲炉裏火(いろりび)はとろとろ
外は吹雪(ふぶき)。
(2) 囲炉裏のはたで縄(なわ)なう父は
過ぎしいくさの手柄(てがら)を語る。
居並ぶ子どもはねむさ忘れて
耳を傾(かたむ)けこぶしを握(にぎ)る。
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪
2番の歌詞の、「過ぎしいくさの手柄を語る」の部分は、戦後の小学校では、「過ぎしむかしの思い出語る」と、教えていました。私が、わざわざこのような話をするのは、年末から元旦にかけて観た、「昭和の歌謡全集」の放映が、どれほど画期的な番組だったかを、息子や訪問される方々にご報告したかったからです。
どうしてGHQは、ここまで徹底した検閲ができたのか。これについても、ブログで取り上げたことがありますが、全てGHQに破格の高給で雇われた、日本人の協力があったからです。
詳細は忘れましたが、普通の人の給料の十倍以上のお金をもらい、彼らは、「生涯誰にも他言しない」という誓約書を、書かされたという話でした。大学教授や高校の教師や、大学生だったと聞きましたので、誰でも良かった訳でなく、身元のしっかりした知識層でした。
身元の確かな人物なら、秘密が守れるためだったからですが、GHQが思った通り、進駐軍がいなくなっても、自分が検閲に参加していたと名乗り出る人はいませんでした。
GHQがなくなっても、生涯秘密を守り通した人々が、いかに多くいたかという証明です。恥を知る、義理硬い、律儀な日本人です。だからこそ、マッカーサーがくれた憲法も、彼らが去ったあとになっても、改正されることなく存続したのだと思ったりします。
南原繁氏や宮沢俊義氏など、一流の学者たちが変節し、GHQにこぞって協力したことと併せ考えれば、敗戦国の情けなさを改めて実感します。そうなりますと、こうした歌番組を放映したテレビ局を、私が反日左翼の腐れマスコミと、一方的に責めることが難しくなります。
今回も、本題の歌謡曲に触れる前に、スペースがなくなってしまいました。なぜマスコミがここまで変質したのか、少し考えたいと思いますので、関心のある方は次回も「ねこ庭」へ足をお運びください。