日本のテレビ放送は、敗戦から8年後の昭和28年に開始されました。もちろん始めたのはNHKです。その頃の状況を調べましたので、紹介します。
「2月1日午後2時、NHKが東京でテレビ本放送を開始。」「当時一日の放送時間は、約4時間程度で、テレビカメラがわずか5台しかなく、フィルム取材によるニュースや、劇場映画などを除き、大部分の番組が生放送の時代だった。」
「続く8月28日には、民間放送テレビ第1号となる、日本テレビ放送網が開局する。」「同局は、開局に先立ち関東地方全域に、街頭テレビを設置。主にスポーツ中継(巨人戦、大相撲本場所、プロレス中継など)が、人気を博す。」
「また、日本テレビの開局と共に、テレビコマーシャルの放送も始まった。」「その第1号は、精工舎(現・セイコーホールディングス)の、時報(正午、夜7時の2回)であった。」
カラー映像でなく、白黒の不鮮明な画像で、しかもチラついていましたが、高価なテレビでしたから、誰でも買える訳でありません。近所の電気店が、通りに面した台の上に置き、人々がその前に群がっていた様子を思い出します。大相撲や力道山の空手チョップなど、大人も子供も一生懸命に観ていました。
裕福な家がテレビを買うと、近所の子供たちが誘い合って集まり、野球や歌などを、食い入るように眺めました。おおらかと言えば良いのか、貧しい時代だったというべきなのか、今では考えられない風景です。
私の年代の人間には、懐かしい思い出ですが、「ねこ庭」を訪問される方々には、若い方も多いのか、「昭和歌謡大全集」のブログになり、アクセス件数が減りました。
やっと「昭和歌謡大全集」の話に戻ります。
並木路子さんの「りんごの歌」と、田端義夫さんの「かえり船」は、昭和21年の大ヒット曲でしたが、当時はテレビがありません。動画で写されている画面は、昭和40年代の「懐メロ」の画像です。ヒットした時から、20年が経過していますので、歌手たちの全盛期の姿ではありません。みんな初老の時期ですが、それでもまだ元気な声が出ています。
「昭和歌謡大全集」の動画は、さらに平成4年の製作ですから、招待された歌手たちは、初老どころかほとんどが老人です。紹介されなくては誰なのか、分からないほど老け込んだ人もいますし、遺影となって参加し椅子に飾られた歌手もいました。
作詞サトウ・ハチロー氏、万城目正氏作曲の「りんごの歌」は、敗戦後の日本で、人々の心に希望の灯を灯した歌でした。
1.赤いリンゴに 口びるよせて
だまってみている 青い空
リンゴはなんにも 云わないけれど
リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
2.あの娘よい子だ 気立のよい子
リンゴによく似た 可愛い娘
どなたがいったか うれしい噂
軽いクシャミも とんで出る
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
懐かしい曲ですが、今になって歌詞を読んでみますと、こんな言葉のどこに感激したのだろうと、不思議になります。大人たちはもちろんですが、子供だった私たちも、はしゃいで歌いましたが、なんということもない歌詞です。焼け野原になった都会や町、荒れ果てた田畑や、空腹だった人々など、そうした時代の背景があるから、並木さんの明るい声が、庶民の心に届いたのでしょうか。それはもう、息子たちには伝わらない、伝えようのない過去の日本です。
だまってみている 青い空
リンゴはなんにも 云わないけれど
リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
2.あの娘よい子だ 気立のよい子
リンゴによく似た 可愛い娘
どなたがいったか うれしい噂
軽いクシャミも とんで出る
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
懐かしい曲ですが、今になって歌詞を読んでみますと、こんな言葉のどこに感激したのだろうと、不思議になります。大人たちはもちろんですが、子供だった私たちも、はしゃいで歌いましたが、なんということもない歌詞です。焼け野原になった都会や町、荒れ果てた田畑や、空腹だった人々など、そうした時代の背景があるから、並木さんの明るい声が、庶民の心に届いたのでしょうか。それはもう、息子たちには伝わらない、伝えようのない過去の日本です。
清水みのる氏作詞、倉岩晴生氏作曲の「かえり船」は、外地から日本へ帰る人の心を歌ったものでした。マドロス帽子にギターを抱えた、田畑義夫さんが舞台にいます。
1. 波の背の背に 揺られて揺れて
月の潮路の かえり船
霞む故国よ 小島の沖じゃ
夢もわびしく よみがえる
2. 捨てた未練が 未練となって
今も昔の 切なさよ
瞼あわせりゃ 瞼にしみる
霧の波止場の 銅鑼(ドラ)の音
3. 熱いなみだも 故国に着けば
うれし涙と 変わるだろう
鴎ゆくなら 男のこころ
せめてあの娘(こ)に つたえてよ
「皆さま、ご苦労様でした。ここは、日本の国です。」到着した船は、こうしたアナウンスとともに、「かえり船」の曲を流したと、司会の水前寺さんが説明していました。私はこのアナウンスを紹介された時、思わず涙がこぼれ、止まらなくなりました。復員船の萩の船で、私が母と博多港に着いたのは4才でしたから、当時はなんの感慨もありません。
年を重ね、母や周りの叔父や叔母たちから、引き揚げの苦労話を聞かされ、大人たちの気持ちが伝わっていました。父や母や、叔父や叔母たちが、どんな思いで日本の土を踏んだかと、そう思うだけで胸がいっぱいになりました。映し出された画面には、田畑義夫さんの歌に聞き入る、満員の観客が溢れていました。男も女もどの顔も、自分の思い出と重ねているのか、うなづいたり、小さく口ずさんだりしていました。父や母がこの場にいたら、同じ気持ちで、聴き入っただろうと思いました。
これらは全部ひっくるめて、息子たちには、伝えようもない、日本の過去であり、歴史です。ブログをあと何回続けるのか、自分でも分からないまま、とりあえず本日は、ここで一区切りといたします。