ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

津久井やまゆり園殺傷事件 - 3 ( 事件の家族が匿名を希望する理由 )

2020-01-09 21:13:57 | 徒然の記
 今回は、尾野剛志氏の話を中心にブログを進めます。
 
 「匿名にする理由は、障害者が差別されてきた偏見がなくなっていないからです。」
 
 「だから多くの家族は、子どものことを隠しているんです。」「私の知っている人ですが、1日だけテレビで顔を出したところ、」「故郷の方から、電話がかかってきたそうです。」「自分の子が障害者とわかったら、親戚、近所みんなから、いろいろ言われて恥ずかしい思いをする。」
 
 「だから、それまで知らせてなかったようなんです。」「そういう差別が続いてきたことが、今回の事件で犠牲者が匿名になった理由です。」
 
 私には、氏の話がよく分かりました。子供を持つ親なら、誰でも思い当たります。息子や娘の縁談相手の家族に、重度の身体障害者がいると分かって、二の足を踏まない親はいません。自分はそうしないと、断言できる人が何人いるでしょう。私自身にも、言い切る自信がありません。
 
 それはやはり、差別とか偏見とか、そういう言葉でしか語れない気がする一方で、当然の気持だと、反論したい思いもあります。そうであれば、障害児の存在を隠したがる親たちの心も、斟酌しなくてなりません。尾野氏の話を続けます。
 
 「敢えて、きつい言い方をさせていただくと、名前を出したくないという家族の方々が、当人でなく、家族が差別されるから、名前を出したくないという、自分の保身で出さないんだと、僕はそう思っています。」
 
「ただ、最終的に決めるのはご家族だから、心が癒えて、話してくれるのを待つしかない。僕がそれに対して、実名にしなさいとは言えません。」
 
 私は氏の意見にも賛成しました。障害のある子供への思いやりでなく、自分が陰口を言われないための保身・・・、それもあるだろうと考えました。命を絶たれた子供なのに、名前さえ呼ばれないのですから、「植松からだけでなく、彼らは家族にも殺された」、という氏の言葉の意味も分かります。
 
 「僕が知っている範囲でも、子どもが津久井やまゆり園にいるのに、一度も来ない人がいるんです。」「障害をもった人が亡くなった時に、家族が、同じお墓に入れないという例もあるんです。」「これが現実なんです。」
 
 「知的障害者であっても、自分の子どもは可愛いんですが、それをわかちあえない。だから仕方なく隠す人がいるんです。」
 
 障害があっても子供を愛する親がいて、忌避する親もいるでしょう。それこそ人生いろいろ、親もいろいろですから、第三者には分からない話になります。氏の話だけで、他の家族の人たちを判断するのは難しいと感じました。
 
 「事件の後家族会で、その問題について話す機会もありませんでした。」「去年の10月6日のお別れ会には、県の部課長も来たのに、遺族は一人も来ませんでした。まだ気持ちの整理が、ついていなかったのでしょうね。」
 
 「ただそれから時間がたって、今年 ( 平成29年 )7月22日に、芹が谷園舎で、祈りの集いをやったのですが、その時は亡くなった19人のうち、8人の方の遺族、親戚なども含めて、十数人が来ていらっしゃいました。」
 
 「僕が名前と顔を出して息子のことを語るのは、黙ってしまうと植松に負けたことになるんじゃないかと思うからです。」
 
 複雑な犠牲者の家族のことが、心を暗くし、思案に暮れるしかできない自分です。それでも私は、「黙ってしまうと、植松に負けたことになる」という、氏の言葉に励まされました。そして微かな落胆が、次の瞬間に来ました、
 
 「僕は妻と再婚しましたから、一矢は僕の子ではないのです。」「一矢が4歳の時に知り合って、全然恥ずかしいと思ったこともないし、障害を持った子がいることを、隠そうと思ったこともありません。」
 
 つまり一矢君は、氏と血の繋がりがなかったのです。家族たちが一番気にかけているのは、血の繋がる家族のことで、親から子へと伝わる遺伝があるため、障害児を隠そうとします。
 
 一矢君は奥様の子供ですから、家族としては氏と無縁でありませんが、冷静に語れる背景には、氏自身の血に、障害児の遺伝がないという確信があるような気もします。
 
 他の家族会の人たちには、実名秘匿について氏に語る資格があるのかと、そんな気持ちがあったのでないかとも思ったりします。しかしその尾野氏にしても、自分に真似のできない親の姿ですから、部外者の私が、あれこれ推測しているのが次第に恥ずかしくなります。

 むしろ私が考えなくてならないのは、どうすれば自分の中から、偏見や差別をなくすことができるかでしょう。無くすことはできませんが、減らしたり、障害のある人たちに、辛い思いをさせない工夫とか、努力しようと思います。正直に言って、これはやはり至難の技ですが、尾野氏の言葉が支えとなります。
 
  「黙ってしまうと、植松に負けたことになるんじゃないか、」
 
 車椅子の利用者のことを考えてみれば、周りの道路は段差ばかりですし、駅や公園の階段には、スロープがまだ少ししか設置されていません。国会議事堂にしても、障害者の議員のため、昨年やっと改装されました。おそらく日本は、障害者の人々には不親切で、無関心な国なのかもしれません。
 
 言い足りないことが、沢山ありますが、まずは自分の足元から始めよです。中途半端ですが、今回でこのブログを終わります。
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津久井やまゆり園殺傷事件 - 2 ( 健全な社会と健全な意見 )

2020-01-09 16:45:14 | 徒然の記
 「障害の子を持った経験のないお前に、何が分かるか。」と、被害者の家族の方に言われたら、きっと私は黙ってしまうと思います。
 
 しかしこれは、「戦争経験のないお前に、戦争の何が分かるのか。」と、私の意見を封殺する人々と似た主張になります。この世の出来事が、経験した者にしか語れず、経験した者の意見だけが正しいと言われれば、私はその意見に賛成しません。それは、誰にでも分かる簡単な理由からです。
 
 「殺人に反対という話は、殺人をした人間にしか語れない。」「悪事に反対するには、悪事の経験者にしか言う資格がない。」
 
 誰がこのような意見に賛成するでしょうか。経験したことがなくても、悪いことは悪い、間違ったことは許さないと、そう言えるのが健全な社会です。だから今の日本が、全体として常識の場所から、少しずれた位置にあるのではないかと、そんな気がしています。そしてまた、微妙な問題についても、臆せず意見を述べるのが本当の勇気ではないかと考えたりもします。
 
 話が本題を外れますが、勇気のない人間の例として、反日野党の議員諸氏の顔が、浮かんできます。「差別を許すな。ヘイトクライムを許すな。」と、大騒ぎして、彼らは「ヘイトスピーチ規制法」を作りました。
 
 法律の目的は、在日韓国・朝鮮人に対する、日本人によるヘイトスピーチを規制するものですから、身体障害者に対する殺人犯植松のヘイトスピーチは関係ないと、野党の議員たちは考えているのでしょうか。
 
 共産党も立憲民主党も、国民民主党も、日頃の元気は何処いったのか、この事件にはダンマリを決め込んでいます。犯人の障害者に対する、激しい偏見と差別の意見を批判すれば、「極刑にせよ」と言う世論に同調することにつながります。
 
 殺人犯でも人権を守れ、官憲の横暴な捜査を許すなと、日頃騒いでいますから、極悪犯と分かっていても、犯人植松を攻撃することができないのでしょう。現実無視の人権擁護論を展開していると、植松のような殺人犯が出てきた時、何も言えなくなるという実例です。人権第一という言葉は、多くの国民を引きつけますが、政治的スローガンに過ぎませんから、現実には対処できないことが分かりました。
 
 今回のブログの本題は、卑怯な、八方美人の野党の話ではありません。
  1.  被害者ご家族の、全員一致の匿名
  2.  それを是とした、裁判所、警察、マスコミ、世間
  3.  植松自身の思考 常識と非常識と狂気の混在
 
 この三つですから、ここへ戻ります。
ネットの情報を根気よく探し、やまゆり園家族会前会長の、尾野剛志氏の談話を見つけました。報道で匿名となったいきさつが分かりますので、氏の話を紹介します。
 
 「事件当日の7月26日、僕が行く前に、遺族の方が、5時半くらいにいらしてて、入倉かおる園長に、絶対に名前を出さないで下さいとお願いをしたらしいんです。」「そこで園長と、家族会の大月和真会長が、津久井警察署に電話をしたんですね。」
 
 「警察署は、最初断ったようです。被害者の方は実名報道ですよ、ということで断られた。」「でも遺族の方が、園長と会長に懇願して、もう一度津久井署に電話をしました。」「それで警察の方は、本庁とも協議したんでしょう。」「今回だけは、障害者なので特例として匿名を認めます、ということで匿名になったというんです。」「しかも遺族だけじゃなくて、負傷者の家族まで、いつのまにか匿名になってしまった。」
 
 「その後、遺族はいっさい匿名になって、マスコミの前で名前と顔を出して話すことはないのですが、僕はそのことに反対なのです。家族で実名を出して、取材に応じたのは、僕ともう一人だけでした。」
 
 「僕はそれが納得できなくて、警察が障害者だから匿名にしますというのは、差別じゃないかと、思うんですね。」「僕は、障害者という言葉自体も嫌いなんですけれど、健常の方も障害を持っている方も、それぞれ個性、特性があるんです。うちの一矢も、一人の人間なんです。」
 
 「この事件で犠牲になった方は、名前が出ないわけですよ。19人の中には、津久井やまゆり園で、何十年も暮らしていた人もいたのに、そこにいたことにならなくなってしまう。」「彼とか彼女の人生は、何だったのかなと思うと、植松に殺されて、家族にもまた殺されてしまったという気がするんです。」
 
 氏の話で、19人の犠牲者の家族のうち、匿名を希望しなかったのが、たった二家族だったことが分かりました。
 
 「重度の障害者は、生きていても、なんの役にも立たない。それどころか、国のお金が沢山使われている。障害者は、みんなに迷惑をかける邪魔者だから、死んだ方が社会のためになる。」
 
 働いている間中、植松はこのような思いを募らせ、周囲の人間に漏らしていました。彼が国に対し、殺人後に、5億円を支援しろと要求した根拠に、この考えがあったはずです。
 
 実名を隠さないという尾野氏の意見は、私と似ていました。しかし、もっと考えさせられたのは、植松からだけでなく、彼らは家族にも殺されたという氏の言葉でした。こうなりますと、事件は他人事でなく、私たち自身の問題へと変わっていきます。
 
 今回はここで一区切りとし、次回へ続けます。
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