同じく共同通信社が、全国の地方紙に配信している「追想 ( メモリアル ) 」記事の続きです。
「慰安婦を歴史に残す」と頑張った、森川万智子氏への追悼記事です。ペテン師吉田清治の嘘から始まり、植村記者の捏造が加わり、朝日新聞の社長が辞任すると言う、恥ずべき慰安婦問題を、それでも追求したと言うのですから、私の理解を超える人物です。
慰安婦は、韓国人に限らず、日本人でも薄幸の女性がほとんどです。一人一人を追っていけば、同情せずにおれない過去を背負っています。森川氏は、戦時中の慰安婦の数は、日本人女性の方がもっと多数であったことや、彼女たちがなぜ名乗り出ないのかと、一度でも考えたことがあるのでしょうか。インタビューし記事を書けば、日本のマスコミがもてはやし、反日家たちに喜ばれる・・、そんな環境下での活動ですから、私は何の評価もしていません。
それどころか、氏の記事は日本人の心を傷つけ、反日の韓国政府を喜ばせたのですから、許せるものではありません。森川氏の行為は、国連人権委員会で、捏造の資料を作成している反日・日本人団体と同じ行動です。記事には「共同通信社 三好典子」と、記名がありますが、この記者も前記福島氏と同様、「共同通信社に巣食う害虫 」の一人と、私は考えます。
記事を見る気にもなれませんが、それでは息子たちに伝えられませんから、止む無く読みます。
「森川氏は、福岡県生まれ。」「高校卒業後、当時の郵政省に入省。」「女性差別に直面して、労働運動に。」「20年勤めて、同省を退職。」「福岡市に居を移し、市民運動に身を投じ、」「慰安婦問題に取り組むようになった。」
これが、氏の略歴です。一体三好記者は、森川氏の経歴のどこに心酔したのでしょうか。( 分からないことは余計な詮索をせず、先に進むのが無難です。)
「韓国人元慰安婦・文玉珠さん(1996・平成8年死去)の、足跡を辿り続け、」「亡くなる直前の、昨年9月半ばも、」「韓国で取材していた。」
「旧日本軍に無理やり連れ回されたのに、公式の記録もなく、」「歴史から、抹殺されようとしている。」「だったら、私が書くしかない。」「私たち女性が、慰安婦の彼女らを、歴史に残さなければと、」「その道半ば、急逝した。」
森川氏だけでなく、この記事を書いた三好記者も、世間の常識に疎いのでしょうか。もはや慰安婦たちは、軍が連れ回したのでなく、軍の後を追いかけていた女衒たちが引き連れていたのだと、誰もが知っています。歴史から消えようとしているのは、朝鮮人の慰安婦だけでなく、日本人の慰安婦も同じです。と言うより、森川氏たちは、最初から日本人女性を無視し、歴史から消し去っています。氏の理由づけは、自分を満足させるための屁理屈としか、私には聞こえません。
森川氏が半生をかけることになった、文さんとの出会いは、平成4年でした。ビルマでの集会で、文さんが「軍事郵便貯金」をしたと言う証言を聞き、衝撃を受けたと言います。
「私が長く勤めた、下関局では、」「軍事郵便貯金を扱っていた。」「こんな風につながるなんて、と興奮気味だった。」
ネットの検索で別途調べましたところ、文さんの証言によると、ビルマの慰安所で将兵の相手をした際の料金は、兵士が1円50銭、下士官が2円、少尉~大尉2円50銭、少佐~大佐3円だったそうです。兵隊の給料は、上等兵が6円40銭、二等兵・一等兵が5円50銭と言いますから、彼女たちは性奴隷でなく、対価を得ていた売春婦だったと、森川氏はなぜそこに目を向けなかったのでしょう。
それ以来森川氏は、文さんの貯金払い戻し運動を開始し、20回近くも韓国の文さんを訪ね、話を聞くなどして、『文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』と言う一冊にまとめます。なぜそこまでするのかと言う、三好記者の疑問に、「女性文化賞」を得たとき、彼女が答えています。
「慰安婦だった時のことを、文さんは、」「私は人間じゃなかった、と言っていた。」「その経験に負けなかった文さんに、圧倒された。」「文さんとの出会いが、人生の失敗を重ねていた、」「私を立ち直らせてくれたと、話した。」
「失敗が、何かはわからない。」「ただ女性への差別に、今よりずっと声をあげにくかった1990 ( 平成2 ) 年代、」「理不尽に屈しない姿は、周囲を励ましていたはずだ。」
これが、三好記者の結びの文章です。明治や大正時代ではあるまいに、平成2年の頃、森川氏の声や姿が、どのように周囲を励ましたと言うのでしょう。それよりも日本を汚染した、氏の反日活動の方がずっと問題だと私は思います。もしかして、三好記者は、共同通信社の中で、女性差別に悩んでいるのでしょうか。それでなければ、森川氏の行動にここまで肩入れし、記事にまでする動機が思い当たりません。
本日で、共同通信社に巣食う害虫のブログを、終わりますが、後味の悪い記事でした。