肝心の書評より、経歴の方に関心を引かれるというのは、珍しい経験です。右のようで左でなく、反日のようで、保守でもなくという、まるでカメレオンみたいに、角度を変えると色が変わる不思議な人物です。
「経済企画庁長官、内閣特別顧問、内閣官房参与などを歴任。」
前回の民主党政権時の、左翼政府ならまだしも、自民党政権でこういう職務に就くというのですから、氏が保守と見られていた証拠でしょう。
「また、株式会社堺屋太一事務所および、株式会社堺屋太一研究所の、」「代表取締役社長であり、様々な博覧会のプロデューサーとしても、活動していた。」
しっかり金儲けに精を出しているところも、竹中氏に似ています。竹中氏は「パソナグループ取締役会長」、「オリックス社外取締役」、「SBIホールディングス社外取締役」、他にもありますが、一番儲けているのは、安倍内閣が作った移民法です。外国人労働者は、全て人材派遣会社を通じて入国してきますが、その窓口が、パソナグループや、オリックスという業界の大手です。
堺屋氏の博覧会プロデューサー業は、通産官僚の時代に、有名な「大阪万博」をコーディネイトした時の、経験と人脈を活用したものですから、金儲けでは竹中氏の先輩とも言えます。堺屋氏は、竹中氏ほどに憎まれていませんので、野党の議員から「役職を利用して、金儲けしている。」と、批判されたことがありません。( 美しいバラは刺があっても、愛されますが、刺のある竹中氏のような男は、攻撃されます。)
もう少し、堺屋氏の経歴を辿ってみます。
・「昭和29年、住吉高校卒業後、受験に失敗。滑り止めの慶應大学に入るが、すぐ退学。」
・「2年間の浪人の後、昭和31年東京大学に合格。当初は建築に興味を持ち、工学部建築家を目指す。」
・「教養課程で経済学に興味を抱き、経済学部へ転入。
・「経済学部で、大河内一男教授(後の総長)に師事。」「経済学部で3番目の成績で、卒業した。」
氏の東京裁判史観が、どこで身についたのかが分かりました。後の総長・大河内一男教授への師事という事実の中にあります。話が飛びますが、終戦の翌年(昭和21年)に、大日本帝國憲法を改正しなければならないと、政府が改正事業に着手しました。東大総長南原繁氏が、政府とは別に、学内に「 憲法研究委員会」を設けました。
「多数の優れた学者を持つ、東京帝国大学としても、」「これについて、貢献する責務があると考えられたからであろう。」「発案者は南原総長であったが、学内にそうした気運がみなぎっていたことも、確かであった。」
「 」内の叙述は、3年前に「変節した学者たち」と題して、11回のシリーズで書いたブログからの引用です。南原氏は、日本の第一級の人材を集めましたが、同時に彼らは皆、GHQに協力する、反日・左翼学者でした。南原氏は、このほかにも学内に「東大社会科学研究所」という、左翼学者の養成所を作り、日本の学界と思想界を左翼思想で染め上げた人物です。
前回も紹介しましたが、「 憲法研究委員会」の委員一覧表を、貴重な資料ですから、再度転記します。
委 員 長 宮沢俊義(法学部)
特別委員 高木八尺(法学部) 杉村章三郎 岡 義武 末弘厳太郎
和辻哲郎(文学部) 舞出長五郎(経済学部)
委 員 我妻 栄(法学部) 横田喜三郎 神川彦松 尾高朝雄
田中二郎 刑部 荘 戸田貞三(文学部)
板沢武雄 大内兵衛(経済学部) 矢内原忠男
大河内一男 丸山真男(法学部) 金子武蔵(文学部)
左翼政治家たちの理論武装を助け、反日マスコミ擁護の論陣を張り、彼らの果たした役割の大きさと、汚染度の高さは、戦後74年経っても元に戻せないのですから、今の「武漢コロナ」以上かもしれません。
強力な「左翼ウィルス」に接触しても、堺屋氏が一途な左翼にならなかったのは、おそらく、氏が生まれながらに持っている、ご先祖からのDNAだろうと思います。世間での金勘定を忘れない、現実主義者の心が、左翼の空論にのめり込むのを引き留め、飾りの知識としてだけ身につけさせたのだと考えます。
多くの東大生がそうであるように、堺屋氏も、「頭脳明晰」、「学術優秀」、「何にでも即答できる知識の塊」となり、その分だけ「魂の抜けた」日本人になったようです。私のような無知な人間を相手にする時、左翼史観は便利なツールです。整然とした論理で、あらゆる社会現象を説明しますから、知識のない人間はうなづくしかありません。
今回も氏は、著書の中で、随所に左翼史観を述べますが、反日学者でないため、執拗な叙述をしません。知識人の飾り文句として、料理の味つけ程度の引用ですから、ぼんやり読んでいると気づきません。意図しているというより、無意識の内に、氏の性格がさせるのだと、私は好意的に推測しています。
すでに故人でもありますし、少しくらい贔屓の引き倒しをしても、分かる人には分かってもらえると、今回はいい加減な弁解をしています。