2月の1日から3日間、回線の不具合でパソコンが使えなくなり、おかげで分厚い『教師』を、読み終えました。
小学校、中学校、あるいは高校、大学でも、学校は在るものと思い、存在自体にあまり関心を払わない私でした。今にして思えば、自分や息子たちばかりでなく、教えてくれた先生方にも、さまざまなことがあったのだと、感慨深いものがあります。
政治や経済が動き、それにつれ暮らしが変わると、人々の考え方も変わります。時代の要請や、国民の期待や要望を受け、行政も学校も変化してきました。87人の教師の意見を読みましたが、生徒や親や同僚について、みんなそれぞれ真剣に考えていました。
生徒の中に落ちこぼれがいたら、落伍させまいと頑張る教師や、彼らに関わっていたら、多数の生徒が遅れるため、放置しかないと観念する教師など、いずれの側にも道理がありました。
1. 国や社会に有為な人間を作るための教育 (共同体主義) (国家主義)
2. 国や社会のためでなく、個人を伸ばすための教育 (個人主義)
1. 2.が両立すれば好都合なのに、現実はそうならず、どこかで二者択一になります。戦後の教育で育った教師は、1.を否定し、2.に力点を置きますが、それはそれで壁にぶつかります。私みたいに、国や社会に有為な人間をと言えば、彼らは「右翼」、「全体主義」、「軍国主義」と批判します。
自分の国を愛し、先祖を敬い、過去を大切にするのは、「右翼」でも「全体主義」でもなく、まして「軍国主義」でもありません。多くの教師のこういう紋切り型の決めつけが、私の嫌悪する「東京裁判史観」から生まれた、反日左翼思考です。戦後77年目を迎えようとしている現在、学校の先生方がこのままで良いと、私には考えられません。
今も昔も国際社会は、国々の利害がぶつかり合う弱肉強食の世界だ、と言う現実は変わりません。自分の国である日本だけを批判したり、攻撃したり、卑下したりする思考を卒業し、ろそろ現実を見る姿勢に戻る必要があります。そうでなければ、目前に近づいている日本崩壊の危機が、乗り越えられません。
多くの日本人が、「東京裁判史観」の桎梏から解放されれば、先生もずいぶん楽になるだろうにと、思います。それには、親である私たち庶民が政治を動かし、教育行政を変えなくてなりません。実行すべき結論は、既に分かっていますが、簡単であるため、逆にいっそう困難な結論です。
1. 「反日左翼学者の駆除」「反日左翼マスコミの駆除」
2. 選挙の一票の行使による、「反日左翼政治家の駆除」
3. 自主憲法の制定 (「憲法改正」)
以上が一番簡単な結論で、一番困難な結論です。言うまでもありませんが、「反日左翼政治家」は、自民党内にもいますので、自民党の議員であれば安心という話にはなりません。こうした現実を頭に入れつつ、教師の談話を紹介いたします。
「管理職」と言うタイトルで、国岡義一 ( 仮名 ) 氏が意見を述べています。氏は都内の公立中学で教頭を務める、40代後半のベテラン教師です。匿名だから言えた意見、なのかもしれません。
「文部省もそうだけど、教育委員会とか上の人たちは、」「今の学校の現状を、本当は理解していないと思う。」「理解している、と言うけれど、」「絶対、理解していないと思うよ。」「だったら、生徒指導で大変な学校を、」「文部省の指定校にしてみろって、言いたくなる。」「絶対できませんよ。」
「だってそんな学校に、文部大臣が来たって、」「生徒から、みかんを投げられるのがオチだからね。」「現実の学校では、生徒が走り回って、」「教師は、うるせぇ ! とか言われてるわけでしょ。」「ではその教師に、指導力が足りないかと言えば、」「そうじゃない。」
氏は私より15才年下ですが、当時の生徒はそんなにひどかったのかと、信じられない思いがします。私が中学生だった頃も、不良と呼ばれる荒れた生徒はいましたが、それでも教師に面と向かって、うるせぇ ! と言う礼儀知らずはいませんでした。10年一昔と言われますから、15年も経てば、学校も生徒も様変わりするのでしょうか。
「人の話を静かに聞くとか、学校教育以前の、」「基本的な生活習慣が身についてない子供たちが、学校に来ているわけだから。」「文部省の職員は、家庭訪問とかやって、」「もっと真剣に現実に目を向けないと、問題は解決しないと思うよ。」「現場の学校の先生が、努力していない訳じゃないんだから。」
納得する一方で、氏への疑問も生じます。基本的な生活習慣が身についていないと、生徒を批判しますが、私にすれば、氏も似たようなものです。「文部省の職員」と言う言葉遣いには、教頭らしからぬ礼節の無さがあります。一般的に「学校の職員」と言う時の職員には、教師が含まれず、職員室にいて雑用をする、事務作業の従事者を指します。「文部省の職員」と氏が言っているのは、雑用をする事務員ではありません。文部省の役人を指しているからこそ、彼らに家庭訪問をし、生徒の実態を把握するようにと提案しています。
しかるに氏は前段で、「教育委員会とか上の人たち」と言う丁寧な言い方をしています。教頭にとっては、校長や教育委員会の人間が「上の人たち」なのでしょうが、「文部省の職員」は、校長や教育委員会の上位に位置する役人です。
教師に「うるせぇ ! 」と言う、礼儀知らずの生徒とどこが違うのかと、私は氏の言葉遣いに首を傾げます。
「彼らは、私ら管理職が苦労していることだって、」「分かっていないと思うんですよ。」「きっと、校長や教頭がいなくても、」「学校は動くと、思っているのでしょう。」「でももし、二人とも倒れたら、本当にその学校は大変なことになりますよ。」「書類ひとつだって、処理できませんよ。」
文部省の役人が、学習指導要領を作り、全国の学校が実行します。一般の教師にそれを伝達し、実行に繋げる役目をしているのが、校長と教頭、その下の教務主任や学年主任で、学校では彼らが管理職と呼ばれています。
「行政職から管理職になった人が、校長の学校は、」「パンクしているんです。」「言っていることは正しいんだけど、現実に先生方は動いてくれないわけです。」「だからもう、みんなバラバラ。」「現実も知らないでって、管理職の言うことに、」「いっさい耳を貸さなくなっちゃうわけ。」「いわゆる学級崩壊の、学校版。」「そう言う学校を、いくつも知っています。」
氏が強調しているのは、文部省から天下ってきた校長は、頭でっかちで現実を知らない・・と言うことです。共鳴する部分はありませんでしたが、氏が本音で語ってくれたお陰で、文部省、校長、教頭、教育委員会、一般教師との関係が理解できました。有意義だけれど、つまらない話の見本だと、そんな気がしますが、「ねこ庭」を訪れる方々は、何と思われるのでしょうか。