八闋 和気清 ( わけのせい ) 和気清麻呂と道鏡 7行詩
九闋 遣唐使 ( けんとおし ) 帰らなかった遣唐使 7行詩
十闋 城伊澤 (いざわにきづく) 桓武天皇と蝦夷征伐 8行詩
十一闋 髫齓天皇 ( ちょうしんてんのう ) 藤原一族の繁栄 6行詩
十二闋 賢聖障子 ( けんじょうのしょうじ ) 菅原道真の出世と左遷 8行詩
枚数にして6枚、ページにすると12ページ、短い解説ですが中身は盛り沢山です。親子兄弟、異母兄弟姉妹、甥姪など込み入った人間関係に苦労しましたが、どうやら皇統について学ぼうとすれば、避けて通れない道であることが分かってきました。
現在の天皇御一家は「皇室」と呼ばれ、江戸城の跡地にご親族が家族毎に分かれて住んでおられ、地域一体を総称して「皇居」と言います。政治にも軍事にも無関係となられ、国民統合の象徴としてのご存在です。古代の天皇は政治の中心におられ、軍事も握られていましたから、今とは比べ物にならない権力と権威を持たれていました。
ですから、天皇の居られる場所は「皇室」でなく「宮廷」と呼ばれたのだと思います。「八闋 和気清 ( わけのせい )」のたった七行の漢詩を理解するには、これまで同様時代背景という、基本的な氏の解説を読まなければ先へ進めません。
「古代においては、天皇が変わるたびに都を移していた。」
へえ、そういうことだったのかと、まず驚きます。
「遷都といえば、京都から東京へ移るような大移動を今日のわれわれは連想しやすいが、当時はたいてい近い所を動いていた。今で言えば、皇居から赤坂離宮とか、浜離宮に移るのとそれほど変わらない。つまり新帝は、前の天皇と違う御殿で政治を執られたのである。」
近親が互いに争い、疑心暗鬼で殺し合いをしたのですから、人心一新のためにも新しい場所が必要とされたのではないかと思います。書を読み進むほどに、平穏な日々の少なかった皇室を知り気持ちが沈みます。
国内では並ぶ者のない、富と権力の中心におられるとなれば、へつらう者も妬むも者も出てきます。油断をすると疑心暗鬼の風が吹き、人を見る目が無いと、一日も務まらまい大変な地位です。
「第四十三代(710年)元明天皇から、第四十九代(780)光仁天皇までの七代、70年間は都を奈良に置いていたので、奈良時代と呼ばれる。七代のうち、四代は女帝であった。一つの時代の半分以上が女帝というのは、注目すべきことである。ただし女帝孝謙天皇は、重祚して称徳天皇となられている。」
「八闋 和気清」の中心人物となられるのは女帝孝謙天皇ですが、氏はまだ何も触れません。無関係と思われる時代背景の説明を続けます。
「奈良時代の最も目覚ましい事業は、聖武天皇による東大寺の起工である。建築史の専門家によれば、八世紀に行われた世界最大の建築工事であるという。」
「大仏もできたし、正倉院もできた。文献的にも『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』なども編まれた、輝かしい時代である。『日本書紀』は、元正天皇という女帝の時にできている。」
「元正天皇も聖武天皇も、天武天皇(おおあまのおおじ)の系統の天皇である。そのせいか、大友皇子は『日本書紀』では天皇として認められていなかった。しかし近江で実際に天皇としての大権を持っていたことは確かなので、明治三年に弘文天皇と追謚(ついし・死後に送られた名)され、三十九代天皇とされた。」
「いずれにせよ、天武天皇の孫が文武天皇であり、その子が聖武天皇であり、その娘が阿部内親王、のちの孝謙天皇である。」
ここでやっと孝謙天皇の名前が出てきますが、スペースがなくなりましたので、続きは次回といたします。私は以降の話を、「女性天皇」の危険性に関する事例として受け止めていますが、明るい話題でありませんので皇統に興味のない方はスルーしてください。