天皇・皇后も人のお子ですから、皇位継承を誰にするかにつき、自分の愛する者にしたいとされるお気持が分からないではありません。しかしこのため長年のしきたりを無視されると人心が乱れ、無用の殺生が生ずることは、前例があるにもかかわらず繰り返されます。
大化の改新、壬申の乱も、結局は皇位継承者を曖昧にしたり、無理を通したりしたために疑心暗鬼が生じました。聡明だった天智天皇然り、天武天皇然りでした。渡部氏は言及していませんが、天武天皇の曾孫である聖武天皇が、似たような間違いをされたと私は考えます。
聖武天皇はご自分の娘・阿部内親王を、早くから女性として日本最初の皇太子にされました。さらに聖武天皇は仏道に専心するため、生きているうちに皇位を皇太子に譲られました。説明が省略されていますが、阿部内親王は独身のまま孝謙天皇として即位されています。
「西暦756年に、出家されていた聖武天皇が亡くなられた。その時の遺言によって、天武天皇の末の皇子である新田部親王(にいたべしんのう)の子の、道祖王(ふなどおお)が皇太子になったが、翌年孝謙天皇は道祖王を廃した。」
ここからは文章体をやめ、項目で説明します。
・孝謙天皇は、皇太子を天武天皇の孫である大炊王(おおいのおお)に代えた。
・大炊王は、『日本書紀』の編者である舎人親王の子である。
・翌年孝謙天皇は譲位し、大炊王が第四十七代淳仁(じゅんにん)天皇として即位した。
・淳仁天皇は藤原仲麻呂を重用し、恵美押勝(えみおしかつ)の名を与え、太政大臣にした。
・孝謙天皇は上皇として政治に関与し、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧を宮中に入れて、寵遇されていた。
「権力が二つあれば、必ず争うことになる。」渡部氏はこのように言い、二人の争いの経過を語ります。
・孝謙天皇と淳仁天皇と恵美押勝の関係は、元来良好であったのである。近江の保良宮(ほらのみや)へ一緒に行幸され、歓を尽くした。
・しかし西暦762年頃から、上皇と天皇の間が険悪になっていった。その原因は道鏡という僧侶の登場である。
・上皇が病気になられた時、道鏡は上皇の看病禅師となり、病気の平癒を祈り寵愛を受けるようになったと言う。
・上皇は結婚したことのない女性で、二人の間には後世誇張され伝えられるようになった特別な関係もあったらしい。
・仲の良かった淳仁天皇が、道鏡を上げて上皇を批判したため、これに対して上皇が天皇とその支持者である恵美押勝を非難する詔勅を出した。
・喧嘩が公になり、その翌年恵美押勝は実力で反乱を起こしたが、彼は敗れて琵琶湖のほとりで殺された。
・彼の一族と従者も全て最後を遂げ、淳仁天皇は廃されて淡路へ流され、上皇が重祚して称徳天皇となり一件落着した。
ここまで解説されても、まだ頼山陽の漢詩の前段です。六行の詩の一行にも触れていません。寧ろ話の山はこれからです。
「武力で制覇した政権は強い。その寵愛を受けていた道鏡の勢力は、飛ぶ鳥を落とすほどだった。」
・恵美押勝が滅ぼされると道鏡は大臣禅師となり、上皇が重祚して称徳天皇になると、太政大臣禅師に任じられた。
・それでも足らぬかの如く、翌年には法皇の地位を与えられ、人臣の域をこえて皇族に準ずる待遇であった。
・道鏡は天皇に準ずるような振る舞いを始め、大臣以下の拝賀を受けたり、宮中で宴を催し群臣に物を与えたりしている。
氏も不愉快になっているらしく、辛辣な解説になっています。
「このようなことは、女帝と特別な関係がになければ考えられないことである。正史である『続日本紀』の記述は、後世のヨタ記事とは違って最も信頼できるものであるが、この中にも二人が特別の関係にあったことが十分示されている。道鏡は天皇の御住居に住んでいたと言うから、夫婦同様の生活をしていたと解するのが通例である。」
「何しろ正史にこれだけ書かれているくらいだから、一般の書になると描写はさらに露骨になる。」
こう言って氏は、奈良時代に書かれた『日本霊異記』、鎌倉時代の『古事談』・『水鏡』、室町時代の『下学集』などの一部を紹介します。しかし学者ですから、冷静な意見も述べます。
「このような阿保な話をあげたのも、それがグロテスクにデフォルメ化された形で、女帝と道鏡、さらに皇位と仏教を示しているからである。」
「女帝には結婚の体験がなかった。恵美押勝を滅ぼしたり、皇太子道祖王を滅ぼしたり、淳仁天皇を流したりした時の称徳帝は、強く、明敏な女性であったように思われる。」
「道鏡も、これという氏素性もなく宮廷に出入りするようになったと言うのだから、抜群の修行僧だったに違いない。四十才になり、もし立派な男性を初めて知ったとしたら、女帝の考えもおかしくなってくるのではないか。子供のない女帝は、道鏡を後継者に選びたいと気になっていたようである。」
「そうすると、その気配を察して胡麻をする人間が出てくる。」
西暦769年5月に、筑紫太宰の主神(かんつかさ)である中臣習宣阿曽麻呂(なかとみのすけのあそまろ)が、こう言上してきた。
「八幡の神様が現れて教えて申されますには、道鏡を皇位に就かせましたならば、天下は太平であろう。」
これで中臣習宣阿曽麻呂は歴史上の大馬鹿者として名前を残し、子孫には気の毒な話です。頼山陽の漢詩にはまだつながっていませんが、スペースが足りなくなりましたので、次回といたします。