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『日本史の真髄』 - 47 ( 頼山陽の漢詩と反日学者の研究書 )

2023-01-14 23:15:03 | 徒然の記

   大風一たび起こって虎に翼を生ず

   関西(かんせい)の草木皆色無し

   当初虎に被(き)するに袈裟をもってす

   爪牙(そうが)皆露わるるを奈何(いか)にすべき

 渡部氏の解説を紹介すると、漢詩の意味は自ずから伝わってきます。

  「行動を起こせば、大海人皇子は虎の如く敏速であった。六月二十二日に家来を自分の所領である美濃国へ派遣し、兵を挙げて不破関の道を塞がせ、まず朝廷と東国の連絡を断ち切らせた。」

 「自分は、大津の都から駆けつけた長男の高市皇子(たかいちのみこ)と合流して伊勢に入ったが、そこの国司は歓迎して迎えた。さらにすぐに、鈴鹿の山道を塞がせた。」

 そうしていると大きな黒雲が、天にかかったそうです。天文に通じていた大海人皇子は、自らで占い、これは天下両分の前兆で自分が天下を取ることになると、判断します。一方近江京では、「大海人皇子起つ」という知らせが入ると、上下みな愕然として、山奥に逃げ出す者も出たと言います。

 「大友皇子は東国との連絡が取れず、中国地方、北九州の国守や太宰(おほみこともち)は、大海人皇子に好意を持ち動きそうにない。すぐに行動を起こすべしという議論もあったが、大友皇子はぐずぐずしていた。」

 人望の有る無し、人間の器の違いと、氏はそのような解説をしていませんが、人心の動きを見ていますとつい考えたくなります。しかし私はここに、皇室の伝統である血筋への畏敬の動きを見ます。

 大友皇子の母は、天皇の給仕役をする身分の低い女官であったと、氏が説明していまし、また氏次のようにも語っていました。

 「当時は、皇位の継承順位が特に決まっていませんでしたが、皇族か有力豪族の娘が産んだ子供でなければ、皇位に就くことが難しかった。」

 「人間平等」、「男女平等」と左翼学者が口を揃え、誰が天皇になっても良いという伝統無視の意見を述べていますが、古代ではこのような意見は通用しませんでした。地方の豪族や官吏たちが、こぞって大海人皇子の味方をしたという事実は、皇統の血筋を重んじる気持が浸透していたことを示すのではないでしょうか。

 「結局大友皇子は、自分の母の郷里である伊賀や大和では、局地的な勝利はあったが、近江京は陥落した。大友皇子は自殺し、右大臣・中臣金は死刑、左大臣・蘇我赤兄は流刑になり、壬申の乱は決着した。」

 大海人皇子は即位して、天武天皇となります。完全な武力制圧でしたから、天皇の権力は絶大であり、人々も天皇を神のように見るようになります。氏はこの根拠として、『万葉集』の中に、天武天皇を「皇(おおきみ)は神にしませば」と讃える和歌が何首がある事実を挙げています。

 最後の三行について、氏の解説を紹介します。

 「初め袈裟を着たのだが、虎はやはり虎、機を見て爪牙を出し、近畿一帯を一挙に武断平定したのである。これが頼山陽のイメージである。」「戦後、天武天皇について標準書とされる単行本を通読したが、そこには〈虎に翼をつけて放てり〉という『日本書紀』の表現に全く言及がなかった。」

 それとなく述べていますが、さてはこの本も反日左翼系学者の著作なのかと推察できます。だからその分を加え、頼山陽への誉め言葉が強くなっています。

 「頼山陽は一人の人名もあげず、近江京にも触れず、壬申とも言わず、ただ〈虎〉のイメージでこの乱のことをまとめた。そう考えてみれば、天武天皇についての一巻の研究書よりも、頼山陽の七行の詩の方が、大海人皇子と大友皇子の壬申の乱を、よりよく眼前に彷彿せしめていることを認めざるを得ない。」

 「ここにおいてわれわれは、〈 史は詩  〉なることを改めて知るのである。」

 戦後出版された反日学者の研究書と比較して語られますと、私にも頼山陽の漢詩の奥深さが分かる気がしました。

 次回は、「八闋 和気清 (  わけのせい  ) 和気清麻呂と道鏡     7行詩 」です。

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