昨日のことを忘れないうちにもう少し。
ひとことで言うと、昨日の演奏はとても楽しかったのです。
なにが楽しかったかというと、「かけひき」というか「やりとり」。
聴いているほうが「次はこうくるであろう・・」と思っているところに、「いえ、今度は違いまっせ」とフェイントをかける(実際かかったかどうかは技術面から言ってあやしいところではありますが)、面白さ。
昨日のは「恋のうぐいす」と「めんどり」という鳥シリーズだったのですけど、フレンチバロックにはやたら具体的なタイトルの曲が多いです。
鳥にしても、「かっこう」や「つばめ」もあり、鳥以外だと「うなぎ」などという曲もあります。
こういう曲は、似たような音型が続くうえに、繰り返しが多く、聴くのも弾くのも飽きてしまいそうなのですが、ほんとに「上手い」演奏を聴くと飽きないんですね。
チェンバロって、音量も音色も基本的には変わらず、タッチでほんの少し変化をつけたり、トリルの分量で音量が変わったように聴かせたり、ある種の操作で音を変えることはあるにしろ、そんなにダイナミックな変化ではありません。
私が考えるに、「ダイナミックな変化でない」ところがミソです(笑)。
基本的に「きちんとした形式美」というものが前提にあり、それのところどころに「あれ?・・」という微妙な変化があるのがお好きな方にはたまらない・・ということなのではないか、と思うわけです。
いただいたアドバイスのなかに(恋のうぐいすについて)、「左をあとほんの少し長めに弾くと、静かな雰囲気をこわさないでよいと思います。音を短く切りすぎるとチェンバロの場合、強い表現になってしまいますので、“切る”というよりは“音をやめる”という意識で弾いてみてください」とありました。
ほんとにそういうことなんですよね。音や休符のほんの少しの長さ、フレーズや音と音の間によって表現がガラッと変わる。ピアノでもそういうことはもちろんあるわけですけど、ピアノは「間」で表現する度合いというのはそこまで大きい楽器ではないと思いますし、音響の感覚がちょっと違うので、またやることが変わってくると思います。
だいたい「うぐいす」とか「めんどり」という曲をいい大人がどうやって弾こうか・・と思ってしまうわけです(笑)。鳥の気持ちになって弾くのか?
さすがに「気持ち」にはなれませんから、形態模写的なものをまずは試みたのですけど、なかなか難しいです。「気持ち」を表すほうが楽かもしれませんね。
で、こういうものを聴いたほうはどう思うのか?うまくいけば「おもしろい」「楽しい」でしょうけど、「いやあ感動しました」ということが起こりうるのかどうか・・。
聴いた方の気持ちはちょっとわかりませんけど、弾いているとですね、ロマン派の「わし掴みにされるような、波にさらわれるような」気持ちの動きとは別の動きがあるわけです。
某氏が、ドビュッシーの小品について「大事にしていたおもちゃ(人形?)をなくした時のような気持ち」と書いておられたように記憶していますけど、ちょっと似たような感じでしょうか?
ふたつの<鳥モノ>を弾きながら、「小さいものなかに見え隠れする、ちらっとした哀しみとかきらっとした歓び」という感覚を味わいました。
いやあ面白いもんですね。
チェンバロの特徴というよりはフランスものの特徴なのかもしれませんが。
自分はドイツ寄り日本人だと思っていたのですが、50歳くらいからおふらんす系もいけるか?・・(逃)
ひとことで言うと、昨日の演奏はとても楽しかったのです。
なにが楽しかったかというと、「かけひき」というか「やりとり」。
聴いているほうが「次はこうくるであろう・・」と思っているところに、「いえ、今度は違いまっせ」とフェイントをかける(実際かかったかどうかは技術面から言ってあやしいところではありますが)、面白さ。
昨日のは「恋のうぐいす」と「めんどり」という鳥シリーズだったのですけど、フレンチバロックにはやたら具体的なタイトルの曲が多いです。
鳥にしても、「かっこう」や「つばめ」もあり、鳥以外だと「うなぎ」などという曲もあります。
こういう曲は、似たような音型が続くうえに、繰り返しが多く、聴くのも弾くのも飽きてしまいそうなのですが、ほんとに「上手い」演奏を聴くと飽きないんですね。
チェンバロって、音量も音色も基本的には変わらず、タッチでほんの少し変化をつけたり、トリルの分量で音量が変わったように聴かせたり、ある種の操作で音を変えることはあるにしろ、そんなにダイナミックな変化ではありません。
私が考えるに、「ダイナミックな変化でない」ところがミソです(笑)。
基本的に「きちんとした形式美」というものが前提にあり、それのところどころに「あれ?・・」という微妙な変化があるのがお好きな方にはたまらない・・ということなのではないか、と思うわけです。
いただいたアドバイスのなかに(恋のうぐいすについて)、「左をあとほんの少し長めに弾くと、静かな雰囲気をこわさないでよいと思います。音を短く切りすぎるとチェンバロの場合、強い表現になってしまいますので、“切る”というよりは“音をやめる”という意識で弾いてみてください」とありました。
ほんとにそういうことなんですよね。音や休符のほんの少しの長さ、フレーズや音と音の間によって表現がガラッと変わる。ピアノでもそういうことはもちろんあるわけですけど、ピアノは「間」で表現する度合いというのはそこまで大きい楽器ではないと思いますし、音響の感覚がちょっと違うので、またやることが変わってくると思います。
だいたい「うぐいす」とか「めんどり」という曲をいい大人がどうやって弾こうか・・と思ってしまうわけです(笑)。鳥の気持ちになって弾くのか?
さすがに「気持ち」にはなれませんから、形態模写的なものをまずは試みたのですけど、なかなか難しいです。「気持ち」を表すほうが楽かもしれませんね。
で、こういうものを聴いたほうはどう思うのか?うまくいけば「おもしろい」「楽しい」でしょうけど、「いやあ感動しました」ということが起こりうるのかどうか・・。
聴いた方の気持ちはちょっとわかりませんけど、弾いているとですね、ロマン派の「わし掴みにされるような、波にさらわれるような」気持ちの動きとは別の動きがあるわけです。
某氏が、ドビュッシーの小品について「大事にしていたおもちゃ(人形?)をなくした時のような気持ち」と書いておられたように記憶していますけど、ちょっと似たような感じでしょうか?
ふたつの<鳥モノ>を弾きながら、「小さいものなかに見え隠れする、ちらっとした哀しみとかきらっとした歓び」という感覚を味わいました。
いやあ面白いもんですね。
チェンバロの特徴というよりはフランスものの特徴なのかもしれませんが。
自分はドイツ寄り日本人だと思っていたのですが、50歳くらいからおふらんす系もいけるか?・・(逃)