唯のブログ。

病気の体験、療養生活や日々思いついた事などを書き留めているブログ。時々毒吐き。楽しめれば最高、無理なら受け流す。

真夏の思い出。 からの。。。つづき。

2017-08-11 18:01:54 | インポート
 
 祖父と祖母。

周りの話では、祖父は(自分が小1の時亡くなったが)、それはそれは自分を可愛がってくれていたらしい。
 
 自分の記憶にも残っている。 電車に乗ってよく隣町へ連れて行ってもらった事。天ぷらそばが好きでよく一緒に食べた。  真夏にアイスを買いに連れて行ってくれた事。 台風の暴風雨の中、自転車で保育園に迎えに来てくれた事。 等など。 厳しく色々な事を躾けられたが、今でも言わんとしていた事は覚えている。
 大地に根を張って天高く真っ直ぐに伸びていく大樹のように生きる事。 曲がった事はするな名前はそういう意味だ。
 苦労を避けてはいけない事。 楽な時に気を抜いてはいけない事。 登りも降りも同じようにがんばる事。。。。。

 祖母も同じ、いつも自分を大切にしてくれて、自分の事のように大切にしてもらった。 夜怖くてトイレに行けなければ起きて付いて来てくれる。 怖い夢を見て泣いていると、一緒に起きて付き添ってくれる。 大きくなって実家を離れてからも、帰ればすぐにおなかすいてないかと心配してくれた。
 30才前に永遠の別れを突然迎えた時は、人生が終わるほどの衝撃だった。 当時赴任地仙台から実家まで、真夜中の高速を180キロでアクセル踏みっぱなし、リミッター効きっ放し、前の車をパッシングしまくりで駆けつけた。 飲み屋から寮へ帰り、そのまま向かっていた。 もうどうなってもいいと半分やけくそだった。 あの時、人生半分終わったのかもしれない。 (それから、2年後か、潰瘍性大腸炎を劇症で発症。)
 
 一方、父親、母親は、難行苦行の試練を与えてくれた。 こちらもよく周りに言われる。 子供の頃は本当に酷い事ばかりされていたねと。
 本当に尋常では無い強烈な折檻そのもの。 今思っても親が子供にしてはいけない事を全てしていたようなものだった。 当時はそれが当たり前だと、標準だと思って人生のスタートを切れたのだからある意味幸運だったのかもしれない。
 「世の中そんなに甘くないんだよ、もっときちんとしろ。。」と、言われて育ったが、高校卒業後に家を出ると、世の中優しい人ばかり、よくしてくれる人ばかりだった。 学生時代の師範や、社会人の道場の先輩などはそれはそれは厳しくも優しく色々な事を教えて頂いた。 時には多額のお金を使って頂き、未熟な自分に社会経験をさせていただいた。 社会人になってからもお客さんにはよく面倒をみてもらったし、上司にも恵まれた、一部酷い人間もいたが、 親ほど酷い人は殆どいなかった。 病気で退社してからも、それはそれは一般では信じられないくらい多方面にお世話になっている。  親に管理下で生活していた頃と較べると本当に天国のようだ。 

 
 物を与えない。 お金を与えない。 罵詈雑言を浴びせる。 殴る。 怒鳴る。 ひつように追及する。 間違いをなじる。 面倒を見ない。 ほったらかし。 教えないで怒るだけ。
 常に神経を尖らせ、顔色を伺っていないと、、機嫌が悪いと何をされるか解らない。 
 誤魔化したり、逃げたりすれば、5倍、10倍になって返ってくる。しつこいほど追及されてぼろ糞にされる。
  そんな試練を受けて、なんと成長した事か。。気付く。想像する。覚えている。学習する。おもんばかる。気配る。気を使う。相手の立場に立って感じる。忖度。 何でもござれだ。 しかし、これを身につけるのにどれだけ心身を削ったか。。。

できれば、もっと他の方法で身につけさせてもらいたかったが、それが俺には合っていたのでしょう。
それが、自分の人生なのでしょう。

 感謝などしていないが、一時に較べれば憎しみは減り、どうでもいい事になった。
 
 俺は、刺激を受けて、経験し成長し自分の支えを身につければ良いこと。
 過去に親が何をしようと自分には関係ないこと。 成長して親と無関係でも生活できるようにして貰えたのだから十分でしょうに。。

 
 


真夏の思い出。

2017-08-11 16:48:25 | インポート

 当時、保育園児だった夏の思い出。

  近所の小1の友達と午前中に遊んでいると、余りに暑いので二人だけで町営プールへ行こうとなった。 

  家に帰って、恐る恐る父親に切り出す、OKは出たが、お金の話をするとバス代とプール代きっかりの金額を渡された。 子供ながらに渋渋だと感じた。 まさかきっちりしかくれないとは、、、がっかり、やっぱり、そんな感じだった。
 正午過ぎの炎天下、バス停まで1キロ弱を歩いて、バスを待ちプールへ行く。 

 プールでたくさん泳いで帰路に着いたが、バス停までの途中、駄菓子屋の前を通るとプールで遊んだ帰りにジュースやアイスを食べる子供がたくさんいた。 のどがカラカラだったし、暑くてアイスも食べたい、、、しかし俺には帰りのバス代しかないのだ。 どうするか悩んでいると、友達も俺に気遣って何も買わない。  俺と同じように「どうする。」と、一緒に悩んでくれていた。

  アイスかジュースを買いたい、でもそうするとバスに乗れない。
 それはそれは大きな問題だった。 悩んだ末に、欲望に負けてアイスを買う事にした。 しかも30円の一番安いアイス。 なんとなく、残ったお金でバスに乗れるような(そんなことは無いのだが、)少しでも少ない金額を使う事で自分に言い訳をしていたように感じる。

 アイスを食べ終わると、楽しい時間は終わり、現実にもどる。 バス停までを歩き、バス停についてもバスを待たずに通り過ぎた。 その時初めて厳しい現実を実感する。 持ってるお金ではバスに乗れないのだ、、、
 この炎天下、家までの途方も無い距離を歩かなくてはいけないのだ。。。。
 まるで遠足の帰り道、重たい足を踏ん張って歩いているようだった。 暫くすると、バスが自分たちを追い抜いていった。 なんとも情けないさびしい気持ちになったが、仕方なくとぼとぼと歩き続ける。

 巻き添えにして申し訳なかったが、一つ上の友達もバス代があるにもかかわらず付き合って歩いてくれた。
 どうせバスには乗れないのに、どうして50円のアイスにしなかったのだろう。。そんなことも悔やんだ。

 もう夕方になり、家に着くと縁側に祖父がいた。  「ただいま。」  「どこへ行っていたんだ?。」
 事の次第を話すと、一言 「なんだ、一緒にいたらそんな事にはさせなかったのにな。。」と、言われた。
 保育園児を子供だけでプールに行かせる事も、余計なお金を持たせない事も、普通の親のやる事ではないと感じていたので、祖父が理解してくれた事で本当に救われた。

 祖父は、その後闘病し、宇都宮、東京の病院と転院し長期入院、自分が小1の終わりに家に戻って来たが2日目に亡くなった。 一度お見舞いに行ったが、長く離れていて亡くなる時には何も知らずお別れもろくにできないままで終わってしまった。
 祖父がまだ、家にいた時分なので、保育園の時と記憶できている。