鷲田清一『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』TBSブリタニカ,1999年。
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(本文より)わたしは,哲学を<臨床>という社会のベッドサイドに置いてみて,そのことで哲学の,この時代,この社会における<試み>としての可能性を探ってみたいとおもうのだが,そのときに,哲学がこれまで必死になって試みてきたような「語る」ー世界のことわりを探る,言を分ける,分析するーではなく,むしろ「聴く」ことをこととするような哲学のありかたというものが,ほのかに見えてくるのではないかとおもっている。
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あとがきにあったエピソード。発達心理学者の浜田寿美男さんによる,古い卵と新しい卵の話(抄)。
お子さんが小学校で古い卵と新しい卵を見分ける方法を習った。割って黄身が高く盛り上がっているのが新しく,黄身が平べったくなっているのが古いものだと。そして後に試験にこれが出た。「図のようなふたつの卵があります。あなたはどちらを食べますか?」お子さんは即座に平べったいほうと答え,クラスメートは全員,盛り上がっているほうに丸をした。正解は盛り上がっているほう。こちらが新しいということであった。しかし,お子さんはだから,平べったいほうを正解としたのだった。賞味期限に差があれば,まず古いほうから食べるというのがあたりまえだから。
このエピソードに対して鷲田氏は,この問いは設問として孤立していて,なんのために新しいか古いかをを調べるのか,それが判ったらじゃあどうするのかというふうに,日常の生活のうちに位置づけられることがないという。この知識は「身につく」ということがないし,使用されもしないとも。そして,お子さんが家事の文脈のなかでこの問いをとらえていたことを指摘して,ひとは何を知るべきなのか,何が知るにあたいすることなのか,それを知ることが生きるということにとってどういう意味をもっているのかと問い,臨床哲学はこの「ちいさな哲学者」の眼を忘れてはならないだろうと述べる。
※表紙だけでなく本文中にも,鳥取県を拠点に世界的な活躍をみせた植田正治氏による「音楽のような写真」が数多く使われる。
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(本文より)わたしは,哲学を<臨床>という社会のベッドサイドに置いてみて,そのことで哲学の,この時代,この社会における<試み>としての可能性を探ってみたいとおもうのだが,そのときに,哲学がこれまで必死になって試みてきたような「語る」ー世界のことわりを探る,言を分ける,分析するーではなく,むしろ「聴く」ことをこととするような哲学のありかたというものが,ほのかに見えてくるのではないかとおもっている。
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あとがきにあったエピソード。発達心理学者の浜田寿美男さんによる,古い卵と新しい卵の話(抄)。
お子さんが小学校で古い卵と新しい卵を見分ける方法を習った。割って黄身が高く盛り上がっているのが新しく,黄身が平べったくなっているのが古いものだと。そして後に試験にこれが出た。「図のようなふたつの卵があります。あなたはどちらを食べますか?」お子さんは即座に平べったいほうと答え,クラスメートは全員,盛り上がっているほうに丸をした。正解は盛り上がっているほう。こちらが新しいということであった。しかし,お子さんはだから,平べったいほうを正解としたのだった。賞味期限に差があれば,まず古いほうから食べるというのがあたりまえだから。
このエピソードに対して鷲田氏は,この問いは設問として孤立していて,なんのために新しいか古いかをを調べるのか,それが判ったらじゃあどうするのかというふうに,日常の生活のうちに位置づけられることがないという。この知識は「身につく」ということがないし,使用されもしないとも。そして,お子さんが家事の文脈のなかでこの問いをとらえていたことを指摘して,ひとは何を知るべきなのか,何が知るにあたいすることなのか,それを知ることが生きるということにとってどういう意味をもっているのかと問い,臨床哲学はこの「ちいさな哲学者」の眼を忘れてはならないだろうと述べる。
※表紙だけでなく本文中にも,鳥取県を拠点に世界的な活躍をみせた植田正治氏による「音楽のような写真」が数多く使われる。