竹岡式ラーメン、という言葉をご存じだろうか。
「あぁ、あのショーユで真っ黒のやつねw」
愚か者。
醤油の量が多いために黒いのではない。
醤油に対し長時間の加熱調理を行うことで、醤油の酸化を極限まで促進し、あの黒味となっているのだ。
この手法こそ、いわゆる「焦がし醤油」とされるもので、大豆醤油の味覚のみならずその風味を飛躍的に向上させる。
大豆醤油を味覚の根幹となす我々日本人の郷愁は、ここに大きく揺さぶられるものと断言できよう。
そして、その中毒性において、「そういえば、最近、喰ってないな」と思い出してしまったら最後、食するまでもやもやとした毎日を過ごすことになる。
その点において、未食の者は、幸いである。
高邁な我が千葉県民によって、このように秀逸な地域産品が今尚継承されている事実は、ワールドワイドな栄光そのものと考える。
ただし、当職の見解としては、同じ日本人でも「関西人」には語るだけムダ、としておきたい。
特に、関西人を自称してはばからない者は特に警戒すべきである。
念のため、正統的関西人に対して敬意を示すべき要素もあり、対応には配慮が必要な部分もある。
自称関西人の中には、「数年大阪に住んでいたことがある」とか「大阪で生まれたが、中学校からは別地域に居住していた」などといった偽装関西人が大変に多く含まれることにも念頭に置かねばなるまい。
彼ら自称関西人は、この「焦がし醤油」を理解できる味覚と嗅覚を持ち合わせていない者が、多数派だ。
また、味覚上は納得できたとしても、彼らの価値観である「上品な」という、得体のしれない価値基準からは、大きく外れるらしい。
歴史的に見れば、彼らは、古くは関ケ原で敗北し、大坂夏の陣で権威を失い、近代日本では畏きところが東京にご動座された。
敗北の歴史観といっていい。
これら敗北によって鬱屈せざるを得なかった独自の歴史的価値観に固執する者の末裔や、こういったセンチメンタリズムに憧憬する者こそ自称関西人であり、ゆがめられた表現があまりに多い。
よって、心中では「なるほど」と思っていても、決して態度の上では認めようとしない。
いわゆる、逆ぶぶづけ現象だ。
仁義礼智信忠孝悌に代表される清廉な千葉県民像とは、残念ながら大きく乖離しているところでもある。
ゆえに、自称関西人のほとんどは「あのドブ水みたいな塩っ辛い汁なんぞ、ヒトの食するモノでは、、、」となる。
コレは江戸前の日本蕎麦などでもよく耳にする話だ。
無知の知を知らず、理解力に貧しい上に配慮に欠ける表現であって、全くもって嘆かわしい限りだ。
彼らが嗜好する薄口醤油も、発酵度が低いだけで、塩分濃度で見れば濃口醤油とさほど変わらない。
また、無分別に周囲の嗅覚を蹂躙するソース味を彼らが好む傾向についても、決して上品とは形容し難く、これを考慮の上発言されるべきと考える。
結果として、予測される反応に鑑みて「竹岡式ラーメン」は、彼らに与える意義さえ見いだせない、手間のかかった高級品ともいえる。
したがって、自称関西人に、「竹岡式ラーメン」を与えてはならない。
コレは、心血注いで「竹岡式ラーメン」を作り続けている職人への、冒涜に等しい行為でもある。
決して、関西人を自称する者に「竹岡式ラーメン」を与えてはならない。
さて、時は梅雨。
現時点でバイクしか移動手段を持たない当職にとって、直近の一週は貴重な1週間となった。
なんせ、日曜から全てが、雨予報だったのだ(6月15日火曜日時点)。
健康上の理由もあり決断には逡巡したが、当職の責務として、「竹岡式ラーメン」を復習することとした。
ただ、2019年6月より木更津市の「富士屋ラーメン」が無期休店中であり、また、2017年より市原市の「炭火ラーメングルメ」が閉店しており、画竜点睛を欠かざるを得ないのは遺憾である。
また、残念ではあるが、「竹岡式ラーメン発祥店」とされることが多い富津市の「鈴屋」については、次段の定義により除外した。
一言をもって「竹岡式ラーメン」と称されるが、現時点ではかなりの分流がある。
しかし、「竹岡式ラーメン」の押さえるべき定義は、2点だ。
1:豚肉を醤油中心の煮汁で長時間煮込み、これを「チャーシュー」とし、煮汁をストックやお湯で割ったもの、もしくは煮汁そのものをスープとしていること
2:薬味・具材として加えられるネギはタマネギであり、長ネギではないこと
他にも、定義には及ばないとしても、特徴として以下が挙げられる。
・あえて乾麺を使用している店もあり、スープが麺に浸み込みやすくしていること
・調理担当はなぜか壮年以降の女性であること
・N比(麺を除いた具材総重量に対するニクの比率)が極端に高いこと
・メンマは細切りであること
・MS比(麺とスープの重量比)がS寄りであること
・小鍋を用いて各個にスープで麺を煮上げる調理工程をとること
などがあげられる。
本記事は、当職の得意とするエリア内における、「竹岡式ラーメン」再確認の記録として公開するのが趣旨である。
このエリア以外において当職が認識している「竹岡式ラーメン」の名店としては、東金の「ぐうラーメン」と千葉市の「炭一(すみいち)ラーメン」を挙げておきたい。
また、本文についてはあくまでも食レポではないので、ポイントのみの記載とする。
当職としては、実食における評価については、個人個人の感性に委ねるべきが正しいと信じる。
読者諸兄にはこの点、ご留意いただいた上でご高覧いただきたい。
富津市竹岡「梅の家」
上総において言わずと知れた、有名店。
写真はラーメン薬味増しである。チャーシュー麺ではない。
現在、来店客数の増大により、製造リソースの上限に達しており、チャーシュー麺の受注は停止しているとのことだ。
この状態でも、現在の「竹岡式ラーメン」の世界標準といえる。
全ての竹岡ラーメンは、この店のラーメンに独自の深化進化を加えたものといっていい。
乾麺を批判する暗愚な者も散見するが、スープが麺に浸み込みつつあるのを楽しめるラーメンという趣旨の商品である。
全くの理解不足に起因するもので、断じて批判にはあたらないことをここに強く抗議する。
この店は、「竹岡式ラーメン」の食しかたの基本を思い出させてくれる味である点を特記する。
以下に記しておくので、実食の際には参考にされたい。
・一般のラーメンとは異なり、スタートからスープをすすらない
・スープに浸った麺と具材から、薬味のタマネギを用いて消費する
・薬味のタマネギは、スープに沈み気味になったものを使用する
・麺と薬味のタマネギは絡めて食する
・チャーシューによって薬味のタマネギを丸め取るように食する
・麺と具を消費した後、レンゲで残ったスープを、拡散した薬味を収斂しつつ、まず、一口すする
・スープの醤油に肉の旨味が溶け込んでいる味わいを口内で回し堪能し、飲み込む
・コップ水を少し、あくまで少し、使用し口内をリセットする
・日本人としてのDNAがもう一口のスープを求める、そんな不思議な体験に耽溺する
・店の味と実食者の好みがシンクロする場合、スープまで全て完食してしまう、これも不思議な体験
梅の屋は、竹岡式ラーメンの絶対王者といっていい逸品である。
市原市姉崎「富士屋ラーメン」
この屋号は当職の知る限り、木更津、市原市五井、市原市姉崎の3店がある。
当職内では、木更津店が筆頭である。
しかし、木更津店は前述の通り無期休業中で、当職内で五井店との競合に打ち勝ったのが、この富士屋ラーメン姉崎店である。
伝え聞いたところによると、この3店は血族によって運営されているらしい。
写真はチャーシュー麺メンマ増しである。
麺が生麺であることを除いて、これまた「竹岡式ラーメン」の特徴を全て備えている。
前段の梅の屋より、柔らかめのスープで完食に陥りやすい。
スープの堪能方法は前段の通り。
N比は少し低め、メンマは塩蔵ではなかろうか、食感と風味がよい。
こうやって記事を作っていると、発作的に食したくなる逸品である。
2024.08.14追記
2024.05.30より無期休業中
残念で仕方ない。
木更津市井尻「福のじ」
写真はノーマルのラーメン薬味増し。
絶対的に麺量が多い高M比である上に、高N比を誇る。
標準のラーメンでも、通常、我々が目にする「チャーシュー麺」におけるチャーシューの体積を優に超えるニク量だ。
さらに、経営方針なのか、追加トッピングのニク系の物量は、まさに刹那的といえる。
事実、当職個人は「原始人チャーシュー麺」及び「チャーシュー増し」を完食している来店客を見たことがない。
愚かな来店客が、子供にラーメン一人前を与えたり、話題つくりでチャーシュー麺大盛を注文し、店主の善意をフードロスにしているのは嘆かわしいところでもある。
しかしながら、そのような状況にあっても、敢えてこの経営方針を継続する店主の貴き志には感服するところである。
我々人類が、肉食ではなく草食動物を由来に持つ事実を認めざるを得ない状況に追い込まれる店であるが、魂がニク食を求めているときには、まさに楽園である。
一昨年頃より、スープが深化してきており、濃度は低めで色味も通常の「竹岡式ラーメン」より薄い。
だが、この推移を知っている当職としては、コレは紛れもなく「竹岡式ラーメン」である。
麺は自家製麺。
以前より、特段の変化はないとの記憶なのだが、変化したのは当職のほうなのだ。
かつては「コシの少ないノびたような食感の麺」と、悪印象で足が遠のいていた。
しかし、昨年、昼食場所が近くになく、止むを得ずこの店に立ち寄って以来、この麺がうまくてうまくてしょうがない。
スープが変化したことによって、麺の旨味が感じられやすくなったのではないかと、当推量しているが実のところは不明。
なぜか、食熱が常に低めなのだが、コレについては、一度、店主に確認したい。
ラーメンとは、嗜好品であって、カロリーを取得するための食料ではないことを再認識させてくれた、逸品である。
市原市姉崎「天一」
スープに一般のラーメンの要素をうまく反映した「竹岡式ラーメン」である。
そのせいか、ボリュームについては、「街のラーメン屋さん」の域を出ない。
ただ、焦がし醤油を主体に用いながらも、味わいに尖ったところがない。
この、尖鋭化していないところが、いい。
「竹岡式ラーメン」はその主体性ゆえに、攻撃的な食品という側面も否定できない。
故に、中毒的マニアと完全否定派双方が存在すると推察する。
この点において、この「天一」は、最大公約数的な「竹岡式ラーメン」といえる。
純血種ではないが、正統な一族。
地元で長年にわたり支持され続けていることが、その証左のように思えてならない。
また、地元のみならず遠征客の支持率も高く、まさに名店でありこの称号はゆるぎない。
純血種よりも品種改良されたもののほうが、ネガティブ少なく愛される、これを証明した逸品である。
袖ケ浦市上泉「ラーメン定度」
この店は「ザ・竹岡式ラーメン」の一店である。
梅の屋、富士屋よりもさらに尖鋭化を感じる。
数ある「竹岡式ラーメン」の中でも筆頭の塩分濃度である上に、タマネギの分解度もかなり低めとなっている。
醤油の焦がし具合も既出店より緩めで、醤油の個性がストレートに表現されている印象である。
だが、前述の方法で食してみると、「竹岡式ラーメン」の良さを満喫できる。
MS比がスープ7割に及ぼうかというスープ量を誇る。
東京ドイツ村(東京ではなく千葉県に所在し、ドイツの印象とは程遠いイルミネーションだらけで、村ではなく袖ヶ浦市内にある)に程近く、およそ飲食店とは無縁の立地だが、地元民を中心に連日賑わっている。
暴力的な味覚が、中毒を誘発することを証明した逸品である。
袖ケ浦市坂戸市場「寿ラーメン」
前段の「ラーメン定度」とは、逆方向に振った「竹岡式ラーメン」の名店である。
焦がし具合こそ弱めなものの、きっちり「竹岡式ラーメン」の主体性としての攻撃性を見事に緩和してある。
スープは、そのまま完飲できる塩梅で、尖った性格が希薄で、客に敗北感を感じさせない。
「竹岡式ラーメン」一族の血脈である濃密な焦がし醤油の色こそ表現されているが、ここまでまろやかに仕上げてある店は少ない。
また、尖った性格の「ラーメン定度」が乱切タマネギといった姿なのに対し、「寿ラーメン」は非加熱・水さらしをしていないすりおろし状の生タマネギであり、これを対比としてとらえると、大変に興味深い。
まろやかな「竹岡式ラーメンスープ」に刺激的な、辛みを感じるおろしタマネギが、絶妙な相互補完性を感じさせるのだ。
反面、チャーシューは他店よりも煮込みが浅目で、ニクの食感そのものを楽しむタイプである。
他の「竹岡式ラーメン」のようにホロホロまで完煮されたものとは異なるので、チャーシュー麺を選択する際は留意するべきである。
また、他店では見かけない別鉢で注文可能なメンマは、歯応え、風味、味ともにラーメンのお供には最適である。
当職は推奨しないが、ビールと併せる来店客も多い。
開店時、昼食時間後14時、いづれの平日でも4-5組ほどの待機を経ないとありつけない。
着店-着丼まで1時間近くかかるのが通常であるようだ。
遠征客の姿もちらほらあるが、来店客は圧倒的に地元民の様相である。
「竹岡式ラーメン」における柔和的な味わいも、圧倒的な支持を受けること証明した逸品である。
約10日間における、「竹岡式ラーメン」の再確認作業は、業務とはいえ、この上ない至福の日々であった。
明日を思うと胸躍る感覚、往路における期待感、店内での至福の時間、復路における満足感、これらは当職にとってかけがえのない宝となった。
ただし、反作用として、継続して摂取する場合、確定的にオーバーカロリーであり健康上の指標においては、その悪影響が懸念されるものでもある。
読者諸兄においては、適正なインターバルを意識したうえで、是非ともご堪能いただきたい。
------------2024.06.09追記------------
市原市山田「ラーメン旭日」
ついに、というかやっとというか、というのは誤りである。
まさに希っていた想いが天におわす何者かに通じた、まさにそんな感慨である。
店主の体調不良が原因との噂だが、ここ数年休店と営業を複数回繰り返していたのだ。
最近、戦線に復帰したという情報を入手、6月入って実食に至った。
「絶メシ」という言葉は、心情的に受け入れがたい表現であるものの、概念としてはまさにソレなのである。
実は上記店のうち、最も直近に(とはいっても5~6年前くらいだろうか)実食した店でもある。
当職の未熟さゆえなのだが、仮設建築とみまごう店構えに恒久的に営業している店舗とは受け止めていなかったのだ。
駐車場に来店客らしき車両が複数台停車していて、やっと認識を改め訪店したのだ。
初の実食に至った際、慚愧の念に打ち震えたのを今でも鮮明に記憶している。
「梅の家」「富士屋姉崎店」「富士屋五井店」に全く劣ることのない「竹岡式ラーメン」の巨匠と表現すべき名店だったのだ。
この地に居を構えて30年近く、この店を「竹岡式ラーメン」の名店と知らずして、何が地元民か。
先入観というものがいかに人生を陳腐なものにするか、改めて身の引き締まる思いだった。
そして、この店が休店したとき、その後悔は再開を希う想いに変わっていたのだ。
この店は正しく「竹岡式ラーメンの本道」であり、その完成度は先に述べたとおり「巨匠」の領域である。
例えて、歯を使わずとも充分咀嚼・味わうのが可能なチャーシュー。
当職は豚肉の脂身は若干苦手なのだが、当店のソレはおいしくいただけてしまうのだ。
焦がし醤油のスープは塩分濃度控えめで、適切この上ないバランスの味わいである。
大豆醤油の旨みを極限まで引き出し、生醤油の尖りをすべて丸め込んで、その風味を最大にまで誇張させる。
小麦の風味が強めのやや細めの麺との相性も「これが最良ではないか」と思わせるほど、スープとの均衡を保っている。
薬味としての玉ねぎはスタンダードだと、控えめな分量で加熱気味である。
竹岡式ラーメン特有の刺激を求める御仁には追加が必要だろう。
チャーシューメンであっても、N、M、Sの比率は普通のチャーシューメンのソレであって特段の主張はない。
だが、そのバランスはまさに黄金比といっていい、正統派である。
また、ノーマルの「ラーメン」は¥550である。
失政策による物価高にあえぐ現代日本においては店主の良心をストレートに感じる対価であり、その心意気には万雷の喝采を送りたい。
まさに「竹岡式ラーメン」における究極の一角といえる逸品である。
「あぁ、あのショーユで真っ黒のやつねw」
愚か者。
醤油の量が多いために黒いのではない。
醤油に対し長時間の加熱調理を行うことで、醤油の酸化を極限まで促進し、あの黒味となっているのだ。
この手法こそ、いわゆる「焦がし醤油」とされるもので、大豆醤油の味覚のみならずその風味を飛躍的に向上させる。
大豆醤油を味覚の根幹となす我々日本人の郷愁は、ここに大きく揺さぶられるものと断言できよう。
そして、その中毒性において、「そういえば、最近、喰ってないな」と思い出してしまったら最後、食するまでもやもやとした毎日を過ごすことになる。
その点において、未食の者は、幸いである。
高邁な我が千葉県民によって、このように秀逸な地域産品が今尚継承されている事実は、ワールドワイドな栄光そのものと考える。
ただし、当職の見解としては、同じ日本人でも「関西人」には語るだけムダ、としておきたい。
特に、関西人を自称してはばからない者は特に警戒すべきである。
念のため、正統的関西人に対して敬意を示すべき要素もあり、対応には配慮が必要な部分もある。
自称関西人の中には、「数年大阪に住んでいたことがある」とか「大阪で生まれたが、中学校からは別地域に居住していた」などといった偽装関西人が大変に多く含まれることにも念頭に置かねばなるまい。
彼ら自称関西人は、この「焦がし醤油」を理解できる味覚と嗅覚を持ち合わせていない者が、多数派だ。
また、味覚上は納得できたとしても、彼らの価値観である「上品な」という、得体のしれない価値基準からは、大きく外れるらしい。
歴史的に見れば、彼らは、古くは関ケ原で敗北し、大坂夏の陣で権威を失い、近代日本では畏きところが東京にご動座された。
敗北の歴史観といっていい。
これら敗北によって鬱屈せざるを得なかった独自の歴史的価値観に固執する者の末裔や、こういったセンチメンタリズムに憧憬する者こそ自称関西人であり、ゆがめられた表現があまりに多い。
よって、心中では「なるほど」と思っていても、決して態度の上では認めようとしない。
いわゆる、逆ぶぶづけ現象だ。
仁義礼智信忠孝悌に代表される清廉な千葉県民像とは、残念ながら大きく乖離しているところでもある。
ゆえに、自称関西人のほとんどは「あのドブ水みたいな塩っ辛い汁なんぞ、ヒトの食するモノでは、、、」となる。
コレは江戸前の日本蕎麦などでもよく耳にする話だ。
無知の知を知らず、理解力に貧しい上に配慮に欠ける表現であって、全くもって嘆かわしい限りだ。
彼らが嗜好する薄口醤油も、発酵度が低いだけで、塩分濃度で見れば濃口醤油とさほど変わらない。
また、無分別に周囲の嗅覚を蹂躙するソース味を彼らが好む傾向についても、決して上品とは形容し難く、これを考慮の上発言されるべきと考える。
結果として、予測される反応に鑑みて「竹岡式ラーメン」は、彼らに与える意義さえ見いだせない、手間のかかった高級品ともいえる。
したがって、自称関西人に、「竹岡式ラーメン」を与えてはならない。
コレは、心血注いで「竹岡式ラーメン」を作り続けている職人への、冒涜に等しい行為でもある。
決して、関西人を自称する者に「竹岡式ラーメン」を与えてはならない。
さて、時は梅雨。
現時点でバイクしか移動手段を持たない当職にとって、直近の一週は貴重な1週間となった。
なんせ、日曜から全てが、雨予報だったのだ(6月15日火曜日時点)。
健康上の理由もあり決断には逡巡したが、当職の責務として、「竹岡式ラーメン」を復習することとした。
ただ、2019年6月より木更津市の「富士屋ラーメン」が無期休店中であり、また、2017年より市原市の「炭火ラーメングルメ」が閉店しており、画竜点睛を欠かざるを得ないのは遺憾である。
また、残念ではあるが、「竹岡式ラーメン発祥店」とされることが多い富津市の「鈴屋」については、次段の定義により除外した。
一言をもって「竹岡式ラーメン」と称されるが、現時点ではかなりの分流がある。
しかし、「竹岡式ラーメン」の押さえるべき定義は、2点だ。
1:豚肉を醤油中心の煮汁で長時間煮込み、これを「チャーシュー」とし、煮汁をストックやお湯で割ったもの、もしくは煮汁そのものをスープとしていること
2:薬味・具材として加えられるネギはタマネギであり、長ネギではないこと
他にも、定義には及ばないとしても、特徴として以下が挙げられる。
・あえて乾麺を使用している店もあり、スープが麺に浸み込みやすくしていること
・調理担当はなぜか壮年以降の女性であること
・N比(麺を除いた具材総重量に対するニクの比率)が極端に高いこと
・メンマは細切りであること
・MS比(麺とスープの重量比)がS寄りであること
・小鍋を用いて各個にスープで麺を煮上げる調理工程をとること
などがあげられる。
本記事は、当職の得意とするエリア内における、「竹岡式ラーメン」再確認の記録として公開するのが趣旨である。
このエリア以外において当職が認識している「竹岡式ラーメン」の名店としては、東金の「ぐうラーメン」と千葉市の「炭一(すみいち)ラーメン」を挙げておきたい。
また、本文についてはあくまでも食レポではないので、ポイントのみの記載とする。
当職としては、実食における評価については、個人個人の感性に委ねるべきが正しいと信じる。
読者諸兄にはこの点、ご留意いただいた上でご高覧いただきたい。
富津市竹岡「梅の家」
上総において言わずと知れた、有名店。
写真はラーメン薬味増しである。チャーシュー麺ではない。
現在、来店客数の増大により、製造リソースの上限に達しており、チャーシュー麺の受注は停止しているとのことだ。
この状態でも、現在の「竹岡式ラーメン」の世界標準といえる。
全ての竹岡ラーメンは、この店のラーメンに独自の深化進化を加えたものといっていい。
乾麺を批判する暗愚な者も散見するが、スープが麺に浸み込みつつあるのを楽しめるラーメンという趣旨の商品である。
全くの理解不足に起因するもので、断じて批判にはあたらないことをここに強く抗議する。
この店は、「竹岡式ラーメン」の食しかたの基本を思い出させてくれる味である点を特記する。
以下に記しておくので、実食の際には参考にされたい。
・一般のラーメンとは異なり、スタートからスープをすすらない
・スープに浸った麺と具材から、薬味のタマネギを用いて消費する
・薬味のタマネギは、スープに沈み気味になったものを使用する
・麺と薬味のタマネギは絡めて食する
・チャーシューによって薬味のタマネギを丸め取るように食する
・麺と具を消費した後、レンゲで残ったスープを、拡散した薬味を収斂しつつ、まず、一口すする
・スープの醤油に肉の旨味が溶け込んでいる味わいを口内で回し堪能し、飲み込む
・コップ水を少し、あくまで少し、使用し口内をリセットする
・日本人としてのDNAがもう一口のスープを求める、そんな不思議な体験に耽溺する
・店の味と実食者の好みがシンクロする場合、スープまで全て完食してしまう、これも不思議な体験
梅の屋は、竹岡式ラーメンの絶対王者といっていい逸品である。
市原市姉崎「富士屋ラーメン」
この屋号は当職の知る限り、木更津、市原市五井、市原市姉崎の3店がある。
当職内では、木更津店が筆頭である。
しかし、木更津店は前述の通り無期休業中で、当職内で五井店との競合に打ち勝ったのが、この富士屋ラーメン姉崎店である。
伝え聞いたところによると、この3店は血族によって運営されているらしい。
写真はチャーシュー麺メンマ増しである。
麺が生麺であることを除いて、これまた「竹岡式ラーメン」の特徴を全て備えている。
前段の梅の屋より、柔らかめのスープで完食に陥りやすい。
スープの堪能方法は前段の通り。
N比は少し低め、メンマは塩蔵ではなかろうか、食感と風味がよい。
こうやって記事を作っていると、発作的に食したくなる逸品である。
2024.08.14追記
2024.05.30より無期休業中
残念で仕方ない。
木更津市井尻「福のじ」
写真はノーマルのラーメン薬味増し。
絶対的に麺量が多い高M比である上に、高N比を誇る。
標準のラーメンでも、通常、我々が目にする「チャーシュー麺」におけるチャーシューの体積を優に超えるニク量だ。
さらに、経営方針なのか、追加トッピングのニク系の物量は、まさに刹那的といえる。
事実、当職個人は「原始人チャーシュー麺」及び「チャーシュー増し」を完食している来店客を見たことがない。
愚かな来店客が、子供にラーメン一人前を与えたり、話題つくりでチャーシュー麺大盛を注文し、店主の善意をフードロスにしているのは嘆かわしいところでもある。
しかしながら、そのような状況にあっても、敢えてこの経営方針を継続する店主の貴き志には感服するところである。
我々人類が、肉食ではなく草食動物を由来に持つ事実を認めざるを得ない状況に追い込まれる店であるが、魂がニク食を求めているときには、まさに楽園である。
一昨年頃より、スープが深化してきており、濃度は低めで色味も通常の「竹岡式ラーメン」より薄い。
だが、この推移を知っている当職としては、コレは紛れもなく「竹岡式ラーメン」である。
麺は自家製麺。
以前より、特段の変化はないとの記憶なのだが、変化したのは当職のほうなのだ。
かつては「コシの少ないノびたような食感の麺」と、悪印象で足が遠のいていた。
しかし、昨年、昼食場所が近くになく、止むを得ずこの店に立ち寄って以来、この麺がうまくてうまくてしょうがない。
スープが変化したことによって、麺の旨味が感じられやすくなったのではないかと、当推量しているが実のところは不明。
なぜか、食熱が常に低めなのだが、コレについては、一度、店主に確認したい。
ラーメンとは、嗜好品であって、カロリーを取得するための食料ではないことを再認識させてくれた、逸品である。
市原市姉崎「天一」
スープに一般のラーメンの要素をうまく反映した「竹岡式ラーメン」である。
そのせいか、ボリュームについては、「街のラーメン屋さん」の域を出ない。
ただ、焦がし醤油を主体に用いながらも、味わいに尖ったところがない。
この、尖鋭化していないところが、いい。
「竹岡式ラーメン」はその主体性ゆえに、攻撃的な食品という側面も否定できない。
故に、中毒的マニアと完全否定派双方が存在すると推察する。
この点において、この「天一」は、最大公約数的な「竹岡式ラーメン」といえる。
純血種ではないが、正統な一族。
地元で長年にわたり支持され続けていることが、その証左のように思えてならない。
また、地元のみならず遠征客の支持率も高く、まさに名店でありこの称号はゆるぎない。
純血種よりも品種改良されたもののほうが、ネガティブ少なく愛される、これを証明した逸品である。
袖ケ浦市上泉「ラーメン定度」
この店は「ザ・竹岡式ラーメン」の一店である。
梅の屋、富士屋よりもさらに尖鋭化を感じる。
数ある「竹岡式ラーメン」の中でも筆頭の塩分濃度である上に、タマネギの分解度もかなり低めとなっている。
醤油の焦がし具合も既出店より緩めで、醤油の個性がストレートに表現されている印象である。
だが、前述の方法で食してみると、「竹岡式ラーメン」の良さを満喫できる。
MS比がスープ7割に及ぼうかというスープ量を誇る。
東京ドイツ村(東京ではなく千葉県に所在し、ドイツの印象とは程遠いイルミネーションだらけで、村ではなく袖ヶ浦市内にある)に程近く、およそ飲食店とは無縁の立地だが、地元民を中心に連日賑わっている。
暴力的な味覚が、中毒を誘発することを証明した逸品である。
袖ケ浦市坂戸市場「寿ラーメン」
前段の「ラーメン定度」とは、逆方向に振った「竹岡式ラーメン」の名店である。
焦がし具合こそ弱めなものの、きっちり「竹岡式ラーメン」の主体性としての攻撃性を見事に緩和してある。
スープは、そのまま完飲できる塩梅で、尖った性格が希薄で、客に敗北感を感じさせない。
「竹岡式ラーメン」一族の血脈である濃密な焦がし醤油の色こそ表現されているが、ここまでまろやかに仕上げてある店は少ない。
また、尖った性格の「ラーメン定度」が乱切タマネギといった姿なのに対し、「寿ラーメン」は非加熱・水さらしをしていないすりおろし状の生タマネギであり、これを対比としてとらえると、大変に興味深い。
まろやかな「竹岡式ラーメンスープ」に刺激的な、辛みを感じるおろしタマネギが、絶妙な相互補完性を感じさせるのだ。
反面、チャーシューは他店よりも煮込みが浅目で、ニクの食感そのものを楽しむタイプである。
他の「竹岡式ラーメン」のようにホロホロまで完煮されたものとは異なるので、チャーシュー麺を選択する際は留意するべきである。
また、他店では見かけない別鉢で注文可能なメンマは、歯応え、風味、味ともにラーメンのお供には最適である。
当職は推奨しないが、ビールと併せる来店客も多い。
開店時、昼食時間後14時、いづれの平日でも4-5組ほどの待機を経ないとありつけない。
着店-着丼まで1時間近くかかるのが通常であるようだ。
遠征客の姿もちらほらあるが、来店客は圧倒的に地元民の様相である。
「竹岡式ラーメン」における柔和的な味わいも、圧倒的な支持を受けること証明した逸品である。
約10日間における、「竹岡式ラーメン」の再確認作業は、業務とはいえ、この上ない至福の日々であった。
明日を思うと胸躍る感覚、往路における期待感、店内での至福の時間、復路における満足感、これらは当職にとってかけがえのない宝となった。
ただし、反作用として、継続して摂取する場合、確定的にオーバーカロリーであり健康上の指標においては、その悪影響が懸念されるものでもある。
読者諸兄においては、適正なインターバルを意識したうえで、是非ともご堪能いただきたい。
------------2024.06.09追記------------
市原市山田「ラーメン旭日」
ついに、というかやっとというか、というのは誤りである。
まさに希っていた想いが天におわす何者かに通じた、まさにそんな感慨である。
店主の体調不良が原因との噂だが、ここ数年休店と営業を複数回繰り返していたのだ。
最近、戦線に復帰したという情報を入手、6月入って実食に至った。
「絶メシ」という言葉は、心情的に受け入れがたい表現であるものの、概念としてはまさにソレなのである。
実は上記店のうち、最も直近に(とはいっても5~6年前くらいだろうか)実食した店でもある。
当職の未熟さゆえなのだが、仮設建築とみまごう店構えに恒久的に営業している店舗とは受け止めていなかったのだ。
駐車場に来店客らしき車両が複数台停車していて、やっと認識を改め訪店したのだ。
初の実食に至った際、慚愧の念に打ち震えたのを今でも鮮明に記憶している。
「梅の家」「富士屋姉崎店」「富士屋五井店」に全く劣ることのない「竹岡式ラーメン」の巨匠と表現すべき名店だったのだ。
この地に居を構えて30年近く、この店を「竹岡式ラーメン」の名店と知らずして、何が地元民か。
先入観というものがいかに人生を陳腐なものにするか、改めて身の引き締まる思いだった。
そして、この店が休店したとき、その後悔は再開を希う想いに変わっていたのだ。
この店は正しく「竹岡式ラーメンの本道」であり、その完成度は先に述べたとおり「巨匠」の領域である。
例えて、歯を使わずとも充分咀嚼・味わうのが可能なチャーシュー。
当職は豚肉の脂身は若干苦手なのだが、当店のソレはおいしくいただけてしまうのだ。
焦がし醤油のスープは塩分濃度控えめで、適切この上ないバランスの味わいである。
大豆醤油の旨みを極限まで引き出し、生醤油の尖りをすべて丸め込んで、その風味を最大にまで誇張させる。
小麦の風味が強めのやや細めの麺との相性も「これが最良ではないか」と思わせるほど、スープとの均衡を保っている。
薬味としての玉ねぎはスタンダードだと、控えめな分量で加熱気味である。
竹岡式ラーメン特有の刺激を求める御仁には追加が必要だろう。
チャーシューメンであっても、N、M、Sの比率は普通のチャーシューメンのソレであって特段の主張はない。
だが、そのバランスはまさに黄金比といっていい、正統派である。
また、ノーマルの「ラーメン」は¥550である。
失政策による物価高にあえぐ現代日本においては店主の良心をストレートに感じる対価であり、その心意気には万雷の喝采を送りたい。
まさに「竹岡式ラーメン」における究極の一角といえる逸品である。