社会、とは、群体としての人類が造り出している環境、と言う認識から我々は、それに対して個々に色々な不満を持っている。そして、それを誰かに擦り付けたり、愁訴に及んだりする。
反面、自然の中に自分がいる場合はどうだろうか。熱いも寒いも、猛禽が自分に襲い掛かることだって、不満は言いようがない。ただ、目の前に起きている事や、向かってくる敵に精一杯対応するだけだ。
何者かに不満を言ったところで、その行為がばかばかしいと言うことに気付くまでさして、時間はかからないはずだ。
天を呪っても、得られるものは、何も、ない。
「反面、自然の中」と仮定したが、実は、人間社会の中に自分があっても、何も変わることはないのだ。
ひとつだけ、ちがうのは、群体であるが故、その不満を訴求する相手がある、ということだ。
それが、キズを舐め合う相手でも、一方的に受け入れてもらえる相手であっても、無関心な相手であっても、この不満を訴求する行為を恥としない人種がいる。
自分が自然にあるときはばかばかしい、愚かな行為であるはずなのに、人間社会における不満の捌け口を、理解されたいという己が欲求を、さらにその人間社会に還流させ、いづこにかで、再生産させているのだ。
この行為が卑しいといわずして何なのだろうか。
目の前に迫ってくる事象や、敵に立ち向かうことも含め、寡黙であるべきだと思う。それが、ここで、あるなら、その戦術はともかく、断ち切る勇気が必要なのであって還流させるのは、まさに、自分自身を愛する行為以外の何モノでもない。
つまり、驕り高ぶるとは、そういうことだと思う。
それを救済できる光明は、己が心の中にいつも差し込んでいる。
願わくば、全てのヒトに、この、悪しき還流を断ち切る勇気が与えられますように。
んじゃ、んなこと、書くなよ。オゴってんのはオマエじゃん?
ほら、ココの文章って、戯言、だから。
それじゃ、納得イカねーよ。ブログって自己同一性弁護のための不定愁訴のツールじゃねーんだよっ!しかも、社会に対する謙虚さに欠けてるしっ!
オレはね、荒城の月、なの。
韜晦してんじゃねーよ。あほ。