憧憬、大艦巨砲主義w

盆栽RF900R 営農機セロー250 奥様号レブル250

例外。

2006-09-14 21:59:45 | 機体と人命を尊重する
 

社会規範において、ことごとく否定的なオレでも、例外的に社会に賛同することがある。

最近話題の、飲酒運転。
流行を追いかけるマスコミの「棒小針大」のラレツと感じないわけではないが、こいつは、いただけない。

っつーか、オレはヨッパライが大っキライで、「ヨッパライのタワゴト」なんてのも宥恕して見逃したりしない。他人にクダまいたりするヤツがたまにいるが、法的に許される時は、容赦・躊躇なく鉄拳制裁に及ぶことにしている。
そう、オレがヨッパライを叩きのめしたことが、今までの人生で1回もない(本当は1回、ある)のは、ソレが法的に許されない、と言う理由のみだ。

罵詈雑言、言いたい放題に他人の人権を蹂躙しておいて、なんの制裁もないなんて、ありえない。
悪態を背中に受けながら、この世の王のように振舞うヤツからそそくさと逃げるように立ち去る行為は、受け入れがたいのだ。
しらふの時は許されないことが、酩酊時に許されるなんて概念はオレには、ない。

職場の同僚はそんなオレのことをよぉ~く知っていて、飲み会の時なんかはオレにあまり話しかけない。
ウサ晴らしの飲み会の場でも、不適切発言でオレがカンタンに不愉快になる事実を彼らは体験済みなのだ。

そもそも、なぜか、日本社会はヨッパライに寛容だ。
オレがハラを立てると、モノや家畜が吼えるのと同様にあつかうように、たしなめられる。
それなら、彼らに対しては、モノや家畜と同様の限定された特別の人権を与えるべきだと思う。彼らを叩きのめして物損事案ですむなら、公共の利益のために私財の一部を喜捨して、オレは実行に及ぶ。

法曹関係の皆様。
飲酒運転。危険運転致死傷などとヌルいものでなく、ぜひ、「未必の殺人」を適用できるよう、働いていただきたい。
路上ある乗用機械は、その全てが殺傷能力を持つのだ。
酩酊してソレを運用する行為によって、人命をたやすく奪うことができるのは明白なのだ。まさしく、対象が不特定ながら「未必の故意」に該当するのではないのか?

そして、路上にあるライダーとしては、ヨッパライ運転のドライバーの操るクルマと不期遭遇によって物理的に接触/被害を受けることは、ライダーがどんなウデマエであっても確率論以外のナニモノでも、ない。
ヨッパライ運転のクルマにブツけられても、「運が悪い」としかしようがないのが実情と思う。

そんなんで、死んだら、死に切れない。
飲酒運転は殺人行為と等価値だ、と断言する。
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必罰、ご都合主義。

2006-08-19 23:08:32 | 機体と人命を尊重する
 

この、放屁のようなブログにお付き合い頂いております、読者様を洗脳すべく、では、決してありませぬ。

色んなことを感じるのだけれど、よくよくその内容を分解+リストラクチャリングしてみると、あまり、今までと変わった趣旨にならない。
それは、ある意味、自分自身が「山の如く」とも思うし「コリ固まってる」とも、思う。

でも、言いたいんだから、仕方がない。不愉快が予想されます方は、どうぞ、ヨソへ。



一般的には教習所や、免許取得のためのお勉強、時には義務教育で、「交通ルール」を、ほぼ全ての人間が学ぶ。
そして、その、ほぼ全ての人間が「交通ルール」の全てを守るわけではない、と思う。

まぁ、多分、コレを誰もが100%完璧に守れば、不幸な事故は激減するだろうし、各種保険料も激安になるだろう。ひょっとしたら、任意保険が不要な世の中になって、倒産する損害保険会社も出てくるかもしれない。

んでも、そんな、パラダイスな世の中には、絶対、ならない。
ほぼ全ての人間が「交通ルール」の全てを守るわけではないからだ。

そう、そして、その斟酌は全て個々人に一任されているのだ。



定則走行速度で、全ての路上でこなす人物、オレは1人だけ知ってる。スゴイ。
自分の後方が大名行列のようになっていても、全く気にしない、ある意味、大人物だ。

現実、彼の行列に加わるドライバーは業を煮やすだろう。交通ルール上は正しくても、多分、社会悪だ。
コレだけでも、「交通ルール」が、あまりに脆弱である一端が見え隠れしている。

守っていれば安全なはずの交通ルールであっても、守られたりはしないのだ。
シートベルトをしないのと、法定速度の倍速度で走るのと、斟酌の相違だけで、危険行為であることには変わりない、と、オレは思う。



「んなことないだろう」と言う声が聞こえてくる。
ナゼ変わりないのか。
他人に損害を与えるのも、自身が毀損されるも、責任は自分で取るしかないからなのだ。

任意保険に入っていれば、保険金はおりる。
だが。おカネでは責任は取れないのだ。

誰かの片腕を奪ったとしたら、その責任は、保険金というおカネでケリがつくものではない。
自分自身の片腕が奪われて、おカネでケリがつくと思ってるヒトは、いないと思うのだ。
そう、責任は自分で取らなければならない。「交通ルール」を守っていても、だ。

それを一生、背負い込んで、生きていくのが責任なのだ。そんな想像の未来に耐えられる神経をオレは持ち合わせて、いない。

だから、「交通ルール」なんて、役立たずのクソッタレだと思うのだ。
「オレは交通ルールを守ってたのに」なぁんて言ってみても、結果は変えられたりしないのが、現実だ。



オレは、誰かを傷つけた時に、「自分は交通ルールを守ってたのに」と主張するご都合主義者を許したりしない。
結果に対する責任をキッチリ取るべきだ。
オレの家族が被害者なら、オレが、この手で責任を取らしてやる。

少なくとも、路上に出る以上は、かくあるべきと思うのだ。

交通ルール、関係ないね。オレはオレのやり方で「機体と人命を尊重」し続けるだけだ。


だから、オレは、他人に危険の原因を押し付ける人物を、宥恕しない。
危険は、ソイツ自身の中にこそ、あるのだ。絶対、あるのだ。
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疾さ。(2)

2006-07-16 01:22:24 | 機体と人命を尊重する
 

昨日の続き。
読み返してみたら、もっと云いたいコト、あった。

オレは、疾く走らせようとする意志に、価値があるのだと思う。
はて、それ以外の意志は、無価値なのか???
答えは、否。

あくまで、オレにとって価値があるかと言う命題に過ぎないからだ。

ライダーの中でも「疾いコト自体に価値があるのか」とおっしゃる御仁もいると思う。

もともと、疾く走らないカテゴリーもバイク乗りのなかには、実在する。
思いつくだけでも、55MPHの世界もあるし、トライアルだってそうだし、旅ライダー(仮称)ってなカテゴリーもあると思う。
この類のバイク乗りは10万K超とか、15年超なんて乗り方をしている哲人も割と、いたりする。

否定はしないが、オレが忌避する、理解不能なカテゴリーとしては、お祭り(家内が命名:オミコシのことか?)系や、カスタムスクーター系や、コスプレ系、これら総合して「ファッション系」も実在している。

ん~。。。
こうやって挙げてみると、どうやら、オレ的に価値観が見出せるか否かの基準は、ソコに「意志の力」が存在するかどうか、のような気がする。

ファッションと言うものには概ね、こうありたいという「意志」は存在すると思うのだが、自らに真贋のありようを迫る「力」は感じられない。
そもそも、ファッションとは、それを創り出すコトは真贋を問われる行為なのだが、それに「ノる」行為は「マネ」に過ぎないと思えてならないのだ。
「ちょいワル」と同じラインだ。
ファッションとは、多分、飽きたら、そこで終わる、もしくは別のモノにスリ換わるものではないだろうか。
そこに、「意志の力」は、ない。

疾さに価値基準を置いているのではないけれど、バイク乗りとして「意志の力」を感じるヒトは、少なくない。
少し話せば、割と、何となくではあるが、感じるコトだ。そして、それを感じる時、これまた何となく、微反発と僅かな畏敬を覚えるのも、事実。

お!
だから、オレって、疾いか遅いかには、あまり、興味がないのかも知れない。
今現在の興味は、薄手のブラウスからスケて見える、ブラ線の色、だし。
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疾さ。(1)

2006-07-14 22:56:52 | 機体と人命を尊重する
 

疾い、とは、どのくらいが疾いのか。

ヒトとマシンによっては、70Kが疾いと思うこともあるだろうし、250Kじゃぁ満足しないケースだってあるだろう。
まっすぐな高速路なら200Kだってそんなに疾いモノではないと思うが、駅前の居酒屋の前では、40Kだって出しすぎだ。
そんなことは、みんなが、知ってる。

では、マシンや路面、天候など与条件が同じなら決着は付くのだろうか。

攻める気マンマンの若者と、70歳のロングライダー。マモノに魅入られてるヒトと、守るべきものがたくさんあるヒト。こんな極端な例を挙げなくても、見込んでいるリスクの斟酌によって、与条件が同じであっても「疾さ」の軸は大きくズレ込んでくる。

そう。「疾さ」とは客観的には相対的なものであり、個人的には絶対的なものなのだ。客観的な絶対値は無意味な数字の羅列でしか、ない。
そして、これは、不可侵な個人的領域で、各々の「信じるもの」に他ならない。
彼のこの領域へ無神経に土足で踏み込む者は、彼より「軽蔑」という手痛い制裁を受けることになるだろう。

ただし。
そもそも、「疾い」コト自体に価値があるのか、と言う御仁もいると思う。

これは、信念を持って否定する。

バイクを疾く走らせることには、価値があるのだ。
正確には、疾く走らせようとする意志に、価値があるのだと思う。

自分自身はちゃんとバイクを操ることができている、そんな実感を持つライダーはそんなに多くはないと思う。なぜなら、ライダーは「路上にいる限り、バイクは常に事故と隣りあわせ」という意識に拘束され続けるからだ。

この意識に拘束されない者は、バカか、マモノに魅入られている。いづれにしても僅かなヒトなのだと思う。そして、遠くない将来、自らの身体的もしくは経済的損失をもって、この自らの傲慢さに気付くだろう。

この意識に拘束され続けながら、リスクを削り込みつつ、自分にムチをクレて、バイクを疾く操ろうとする意志は、真摯に自分の生に向き合う、脆弱ながらも尊いものなのだと、オレは、信じて疑わない。
そして、年齢を重ねながら、この意志を珠輝させ続ける自己を保っていくのは、並大抵の研鑽ではないと思うのだ。

オトナは解っている。「んな、アブナイこと」「バカげてること」「意味のないこと」。
オレだって、そんなのは知ってる。
そして、そんなヒトは大概、「んな、アブナイコトに価値があるのか」と言う。

ばか者め。
ヒトを見下して何言ってやがる。
んなこたぁ判っている上で、アクセルを開けるのだ。オレのそんなトコさえ見抜けないくせに、ふざけたコト、言うな。

オレにそんなこと言えるのは、オレを愛していてくれる、父と母と家族だけだ。

んデモ、オレは疾いか遅いかには、興味は、ない。
なぜなら、オレってば、クチだけだから、さ。

 自分で言っちゃぁ、オレの出番、ないじゃん。
 いいのよ。ほら、オマエって、「いいわけ」なんだから。
 きーーっ!ムカつく!
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ステイクホルダー。

2006-06-21 03:03:39 | 機体と人命を尊重する
 

ロケⅢ関係のリンクをたどる、いつもの日課。

またまた出てきた。「安全運転」。
不愉快なので、読み返さないが、「もう少しで自分の子供がハネられるとこだった、安全な交通社会をこころから願う」みたいな内容だった。

いつもながら、こういう独善的な人間を見ると、本当に、立腹を通り越して、呆れる。
生身のオレなら、討論を吹っかけたいとこだが、WEB上では非生産的なことだと思うので、自分のページで自分の主張を述べるにとどめたい。

不愉快が予想される方は、どうか、ヨソのページにご移動を。
以下、「あなた」とは件のブログ主に対しての呼称。



路上にいる他者に安全を求めるのは、全く、無価値な、独善的な主張だ。
価値があり、独善的な主張でないなら、安全でない者に対して、直接、自分のクチで主張を当事者に理解させる活動をいかほど実施しているのか、述べていただきたい。
WEB上で、あたかも自分が被害者であるかのように振舞って、口上を述べる行為は偽善そのものだ。

経験的に、そんな「クチサキだけであたかも被害者であるかのように振舞う人物」は、他人の事故や不幸のハナシが大好きだ。全く、卑しい。そして、クチだけで、何にもしないのだ、被害者を偽装するだけで。

そして、その行為は実在の被害者に対して思いやりと礼を失したものであることは言うまでもない。
被害者として、実在する人々は、行動で交通安全に取り組むのだ。私個人がその考えに同意できるかどうかは別として、彼らは危険な運転者を許さないと思う。
そして、その心情を察する時、その主張がいかなるものであったとしても、何人たりとも、それを批判する権利はないと思う。
それがどんなハナシであっても、私たちにできることは耳を傾けることだけなのだ。

その被害者の立場で、モノを言ってはいけない。あなたは、被害者では、ないのだから。
むしろ、自分が加害者になることを恐れつつ、路上に出なければならない立場なのだ。

自分の子供が事故に遭いそうになるのを目前にしたなら、何が何でも、子供に身を守る術を伝えなければならない。
そちらが先に徹底すべきプライオリティだ。
他者のせいにして、世を嘆くなど愚の骨頂だ。あなたの子供は、明日も、身を守る術を身につけずに路上に出るのだ。

独善的な自分のせいで、子供が危険にさらされているコトに気付かないのか。
間接的に、自分自身が、自分の子供に対する、加害者になっているコトに気付かないのか。


今回、あなたが、危険と認識している行為やドライバーと、あなた自身は、等価値だ。


あなたが、そして私が、行動としてできるのは、子供に「自分の身を守るよう指導徹底すること」と、「自分が加害者にならないように努める」ことしか、ない。
だから、それ以上のことをもっともらしく、口にすべきではない。もっともらしく他者に安全を求めることは、独善的で、傲慢で、卑しい行為だ。
少なくとも、オレは、絶対、こんな「偽装被害者」を認めない。

マイカーをコスった、残念と言う。
そう、誰もが、望んでそんなことはしない。
そして、一般的には、そのように、人身事故は起きるのだ。危険な状況を感じたなら、省みなければならないのは、自分自身だ。

ちなみに、加害者も人生を破綻させることになる。あなたは、そのことにヒトコトも触れていない。
自分がその立場になった時どうするのか、にも触れていない。
あなたの言うことが、クチだけであることは、こんなトコにも表れている。
あなたの話より、ケイサツで見せる安全教育用のビデオの方がずっと、ましだ。

おためごかしにブログで安全など、訴えるな。
そう思うなら、自分の身で、行動し、1人でもあなたの言う「危険運転者」を交通社会から排除して見せろ。実際に救済される、未来の被害者がいるだろう。
あなたが口先だけで何かを主張するより、よっぽど、公共の利益に資するはずだ。
どーせ、何もしやしないし、できないのだ、あなたは。


ご都合主義のステイクホルダー達が、路上に多数派として放たれている。
これは、恐怖に値する、非常に危険な現実なのだ。

機体と人命を尊重して、日々のライドに臨みたい。
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怨嗟の起点。

2006-06-09 23:02:46 | 機体と人命を尊重する
 

愛する者の、横顔を思い浮かべてみる。
以下、オレにとっては、幸いなことに、仮のハナシだ。

今朝まで、小言をタレながらも、台所で家事をしていたヒトが、タダの、「モノ」になってしまう。

今朝、笑顔であわただしく「いってきます」と、言ったのが最後に交わした言葉に、なる。
まだまだ、ずっと、一緒にいたかったのに。
見てもらいたいものも、あったのに。
聞いて欲しいことも、あったのに。
声を聞いていたかったのに。
この上なく、タイセツに思っていたのに。

そして、愛しているのに。この人が死なねばならない、理由は、何も、ないのに。

オレなら、いや多分、誰もが、その状況を作り出した原因を許しはしないだろう。特に、オレのような人物は、物理的な報復に及ぶかも知れない。

ただ、それは、報復でしかなく、原状復帰には全く寄与しない。
また、いかなる慰みも、この欠損を埋めることはできない。



生まれ出でたものは、いつ終わるとも知れない、怨嗟、だけだ。



路上に走る、全ての機械は、この、怨嗟を生み出す能力を持っている。
そう。オレは、この機械を持って、怨嗟の起点に立つ、能力を持ってしまっているのだ。

そして、そのことは、常に、オレの視線や意識の中にあるわけでは、ない。むしろ、意識されない時間がほとんどと言っても、いい。

自らの破滅よりも、断じて、オレは、コチラを怖れる。
そして、それは、何もなかった一日と全く同一の時間軸を進行しているのだ。
まさに、恐るべきことなのだ。

「機体と人命を尊重する」を胸に刻んで、日々のライドに臨みたい。
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その先は、ない。

2006-03-28 22:21:16 | 機体と人命を尊重する



明日の朝も、今朝のように、目覚めると思っているのか。
今日も、昨日のように、「ただいま」と帰宅すると思っているのか。
その通りとは思うが、その確証は、脆弱なものでしかない。

目を閉じ、深く息を吸い込み、長く、少しづつ、肺胞内の空気を吐出する。
聴覚も、自ら鼓動する心音も、皮膚の感覚も、本来自由に動く指先も、意識的にゼロ化させていく。
意識だけが自分自身であると錯覚する世界を、自らの意識のチカラで体験する。
そして、その意識が存在しない世界。

死、だ。

神の言葉も、自らの記憶のその前の存在も、未来もソコには、ない。
その先は、ないのだ。
そして、この状態は、いつ何時自分に、訪れるかは、わからない。
あと、5分後かも知れない。

若い頃、この世界の存在は全て自分のものだと思っていたし、自分のために存在すると思っていた。しかし、それは自らの存在を正当化するための自己欺瞞でしか、ない。表裏が逆だった。

人は、存在そのものが、その存在意義に他ならない。
亡骸と言う概念は存在しえない。それは、ただの物体に過ぎない。彼の存在の痕跡そのものではあるが、そこに、彼はいない。彼がいないことは、彼にとって何も意味がないことなのだ。

思いやりと愛情を持って接していた、あの人も、そのようにして、死んだ。今は、いない。
そして、それは、自分にもやってくるものなのだ。今、自分自身の、この人体で感じていることも、いつか、なくなる。

今、自分が存在しているうちに、やらねばならぬことは、多い。

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ABSに気をつけろ。

2006-03-25 01:59:38 | 機体と人命を尊重する
バイクにABSが装備されるようになって久しい。
以前に乗っていたモデルでは、'94GTS1000A、'95K1100RSなどが該当する。最新鋭のABSは試したことはない。

某ブログで、「バイクにABSは必要か?」との投げかけがあった。まぁ、ヨソだから控えめな表現にしたが、ココは我が家なので、本音で述べる。以下、あくまで、バイクのABSに限定した話だ。

最近は、消費者までメーカーの擁護をしたりする。嘆かわしい時代なのか、バカが多いのか。だから、メーカーが「右ならえ」を恥ずかしげもなく口にし、「ABSは常識」などとのたまうのだ。
技術をその拠り所とするバイクメーカーが自らの論拠でABSの必要性を語らなかったと言う。「恥を知れ」といいたい。トライアンフがそんなメーカーだったとは、想像もしなかった。

「ABSは、メーカーにとって必要」が結論だ。
我々、ユーザーにとっては、「百害あって一利のみ」だ。

かつて乗っていたGL1500のインテグラルブレーキ。スーパーヘビーなマシンをなるべく安全に、かつ確実に減速するためには、「操る楽しみ」を犠牲にしてでも、前後連動ブレーキによる安定したブレーキングを採用した、とのこと。うんうん。賛否はともかく、納得の理屈だ。実際、マシンに合っていた。

ブラックバードのDCBS。コレもスポーツバイクへの採用は物議をかもしたトコだが、アレも、強力に車体を減速する。しかも、ロックさせるのは、割と難しい。

さて、件のABS。自分をABSに慣らすつもりで、試したことがある。

120Kくらいから前後フルロックさせるつもりで、レバーを一息に握りこむと同時に、べダルを思い切り踏み込む。割と、勇気の要る行為だ。経験を総動員して、マシンの操作に意識を集中する。
ゴゴゴッゴッと、ABSが作動する。当然、レバーは強く握りこんでいるし、ペダルも踏み込んでいるから、肩に、思いっきりチカラの入ったままなので、体は硬直する。
しかも、想定内の減速をしないのだ。目標減速ラインが見る見る迫る。この恐怖が想像できるだろうか?

これは、パニックブレーキではない。事故の発生しない路面で、自らの意志で、試験的に行った行為だ。でも、何度やっても体は硬直する。コレがパニックブレーキなら、回避動作なんて、絶対、できない。なんせ、解っていても、体は硬直してしまうのだ。「こりゃ、集中力がキレたら、転ぶ」と思って、数回で、やめた。

特にフロントは、ABSの動作に慣れるのは、難しい。緊張せずにフロントのABSを動作させるのは、相当、修練を積まなくてはならない。一般のライダーには、事実上不可能だ。つまり、ABSの動作に熟練すること自体が、不可能だ。
反面、リヤは、「効かない」不満が残る。当然といえば当然だが、リヤが「滑るかな」と思う前にABSが動作する。絶対的な制動力は50%減な印象だ。

峠セメセメごっこをしてても、ABSが動作して、心臓がクチから飛び出しそうになったことがある。動作前~動作中では、天地ほどの制動力差があるのだ。瞬間の出来事だと思うが、ガードレールがやたらスローモーションで迫る。体は硬直しそうになるが、目線を無理にインに切れ込ませ、オーバーランだけで済んだ。ABSの動作によって制動距離が予測より伸びて、結果的に、オーバースピードのツッコミになってしまったのだと思う。

まさに、百害。

雨天のスリッピーな路面や、初心者によるコーナーや、曲がり角の「握りゴケ」防止には有効と思うが、それ以上の有効性は見出せない。一利だ。

もともと、ロックしないようにブレーキを操作するよう、心がけているのは、私がオジサンの年齢だから、と言うわけではあるまい。

反面、メーカーサイドはイイコトづくめだ。安全へのアピールにはなるし、販売単価も正当な理由つけて上げることができるし、装備点数も増え、車体の評価も上がる。
安全性を標榜することは、他の面でも、特に波及効果が大きい。

しかし、騙されてはいけない。ABSはいざと言うときの保険では、決して、ない。使いこなせるか否か、極めて判断の難しい、ひょっとしたら、非常に高度な道具なのだ。

どうか、インプレを書く方々、対象車両のネガを表現するのは難しいとは思うが、キッチリシゴトをして欲しいと思う。
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転倒。

2006-03-12 02:32:28 | 機体と人命を尊重する
バカみたいにアタリマエのことだが、バイクは、通常、スタンドなしでは自立しない乗り物で、ライダーが操作しないと転倒する。
つまり、ライダーしだいで転倒する。

オレの初転倒(事故った?)は高校生の時、初めてのバイクRZ50で、だ。
これは、今も鮮明に覚えている。150R・1/3くらいの緩やかな右カーブ。左は高さ20センチほどの縁石で、その先は、草が刈り込まれた江戸川の土手で30度くらいの勾配が付いていた。

フルアクセルで、85Kくらいで、たぶん、そのまま真っ直ぐ、縁石に突っ込んだ、と思う。
気が付いたら、夕方で、オレは土手に仰向けに寝ていて、ジェッペルのシールドはなくなっていて(探したけど見つからなかった)、車体は、電柱2本を継ぎ足した位手前、縁石の脇に擱座していた。
シフトペダルが、サンダーで切り落とされたように途中でなくなっていて、前ホイールとエンジンにコンクリートの打痕があった。買ったばかりのMA-1の背中には草の緑色の擦過痕が鮮やかについていた。
バイトに行く途中で、昼飯を食う前だったので、午前の出来事だったはずだ。

当時、一番心配したのは、バイクの修理代のコトだったと思う。

って、今思うとゾッとする。
幸運だらけだったのだ。土手の下側は、今は60センチ位の土留めになっていて、85Kくらいで車両との間に挟まれれば、良くて開放性複雑骨折、悪きゃ、切断だ。
今は土手も遊歩道として整備され、カーブの先は土手を登るコンクリート階段が作られている。
ジェッペルでは、マトモな顔が残らなかったかも知れないし、投げ出された勢いでコンクリートの階段に叩き付けられていたとも思う。それも30M近く飛ばされて、だ。
受身が取れていて、タイムトラベル(多分軽い脳震盪)だけだったのも幸運。コレも打ち所が悪ければ頚椎くらい折っていただろう。
しかも、マシンはシフトペダルを交換しただけで、キズ以外は現状復帰で乗ることができたのだ。

あの時、こんな幸運を使用してしまっているので、休日に雨が降って「ツイてない」なんて、言ってはいけないのかも知れない。

かれこれ、社会人になってから立ちゴケの経験は、ない。転倒したのは数回ある。が、この数回も、オフ車で、ダートラ遊びや、ターマックごっこや、アクセルターンの練習をしていての出来事なので、転倒も「遊びの一部」だった。もちろん車両・身体の損害は、ない。メインのオンロードバイクは倒したことさえ、ない。

自爆や転倒に限っていえば、自らの不注意で、安易に、機体と生命をキケンにさらすことに他ならない。正確な状況把握と適切な判断に基づく操作ができれば、100%防止できる。

物理的に100%の確信が持てるまでマージンを拡大するとすれば、ライディングは全く味気のないものになってしまうだろう。
しかし、我々には、経験値UPを原資に、スキルを向上させ、洞察力を高める能力がある。コレによって大きく100%の防止力に近づけることができ、併せて、物理的なマージンを削減することができる、はずだ。

社会通念上、交通ルールと称されるものは、物理的に100%の確信が持てるまでマージンを拡大する拘束(予防的措置を含め)を押し付けるものだ。オレは明確かつ断固とした意志を持って反駁したい。

あ、もちろん、押し付けられているものではあるが、この社会通念を超過している部分については、ステイクホルダーの分も含めて完全自己負担なのは、よぉ~く解っておりますとも、はい。
もちろん、民主主義を否定しません。私は。

今後も、絶対に転倒しない。オレは。機体と人命を尊重しているからだ。誰よりも。

へぇ~エラソーなこと、ゆーとるやんか。「オマエみたいなやつが事故起こして人をコロすんやっ!」とか言われるで。
せやけど、それは、そんなコト、ワシに言う奴も条件は一緒やん。今までも、フツーに生きてきてるで、ワシ。
自分以外の交通社会の構成員に対して敬意とケンキョさがない、ちゅーコトゆーとんや。
他人様に対して勝手なコメントつけて電波に乗せたり、紙面にして売ったり、それを見たり、金出して買って読んだりする奴らより、よっぽどワシの方がケンキョやと思うで。
議論のスリカエやんっ!それ!
でも、なんで関西弁チックなの???
ツッコミ入れてるから、かな?
(スリカエ成功!)
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機体と人命を尊重する (2)多数決

2006-02-25 15:02:59 | 機体と人命を尊重する
極めてまれに、遭遇する。
4車線道路の左側をのんびり流している日曜日。
右後方からエキゾーストの咆哮。「来たっ!」と思った瞬間、強烈な空気の塊が右前方に掠めていく。衝撃波によって進行方向をやや左によじられながらそのテールランプから車種を確認しようとするが、既に、その機影は遥か前方に消え去りそうなほど離れてしまっている。

交通社会において、彼は非常に迷惑で、キケンな存在とされる。
多分、誰もが、彼の負っているリスクのホンの一部でも負担させられようものなら、彼を許さないだろう。

しかし、彼を非難し、認めないことが、独善的な考え方ではないといえるだろうか。
答えは、否。
ドライバーがシガーライターを使用してタバコに火をつけたり、運転中にカーナビの画面に目をやるよりマシな行為だ。
また、渋滞中の合流において自車の鼻先を他車の目前に割り込ませるよりも悪意のない行為でもある。
他車から見える・見えないとか、多数・少数の違いであって、リスクの見込みと悪意について、私(一般ドライバーで、ライダーの経験として)は、彼の行為はいわゆる一般ドライバーのそれと同等以下であると断言する。

ステイクホルダーとしての一般ドライバーの見地から、交通ルール無視の暴走行為として嫌悪されているだけだ。通常、自己の安全リスクについて、ライダーはドライバーよりも数十倍以上の負担をしていると思う。
「ちょっとコスった」時。数万円の負担のドライバーに対して、ライダーは転倒して死ぬ可能性があるのだから。

冒頭の彼は、一般ドライバーをはるかに超える安全注意を払った上で、オウンリスクを負担していると言える。

あまりに実感できないことだが、多数決の社会ルールにおいて、少数派の意見は尊重されなければならないことは、少数派に属した経験のある人はだれもが、それを肯定すると思う。
一般ドライバー諸君。独善的な批判を社会通念とスリカエないで頂きたい。冒頭の彼に対する批判は、ただの多数派意見に過ぎない。

ライダー諸君。反社会行為も結構。ただし、自由な行為にはそれに対応する責任の負担が要求される。
反則金払ったり、逮捕されたり、死んだり、他車・他人に損害を与えて賠償責任を負う事も。

機体と人命を尊重して日々のライドに臨みたい。

自己弁護。
はい。よぉーく解っていて、言っているです。。。
コメント
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