信濃毎日新聞に連載の「親鸞 激動篇」、今日は、186 流れゆく歳月(10)でした。
昨日のところで、法然上人が死んだ。
「これまでわたしは、法然上人の背中をみつめながら、ずっと歩いてきたのだ」
(略)
「なぜ念仏をするのか。そうきかれれば、いつもひとことで答えていた。
法然上人が、ただ念仏して浄土に生まれよ、と、おっしゃっているからだと。
それで十分だった。法然上人がそう教えられているのだ、と答えればよかった。
しかし、わたしは独りになった。いま、わたしは悲しくてしかたない。
だが、それは親よりも大切な人がいなくなったという悲しみではない。
もっと大きなものを失ったような気がする。なぜ念仏するのか。
そしてなぜ念仏を人にすすめようとするのか。その答えを、
これからは自分でさがしださなければならないのだ。
この親鸞が、なぜ念仏するのかを、法然上人の言葉でなく、
親鸞の言葉で語らなければならない。それは大変なことだ。
わたしのいっていることが、わかってもらえるだろうか」
さあ、五木寛之は親鸞に、なぜ念仏をするか、をどように語らせるのだろう。
楽しみです。