◎荘子とOSHOバグワン
(2017-09-09)
荘子の逍遥遊篇から。
『若し夫(そ)れ天地の正に乗じて六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼且(は)た悪(いずく)にか待たんとするや。
故に曰わく、「至人は己れなく、神人は功(いさおし)なく、聖人は名なし」と。』
※六気:天地間に存在する六つの気。陰・陽・風・雨・晦(かい)・明。または、寒・暑・燥・湿・風・火。
大意:
『もし天意を体して、六気により世界をコントロールし、無窮に遊ぶ者は、もはや何を頼みとすることがあろうか。
至人は、ニルヴァーナを承知しつつ生きるので己れなく、神人は天意神意を生きるので功(いさおし)なく、聖人はなにもかもないところに生きるので名がない。』
荘子はクンダリーニ・ヨーガの奥義体得者であるので、世界の気によるコントロールなどという表現がある。
OSHOバグワンは、自らの前世は、古代のチベット僧などととぼけているが、ダンテス・ダイジは、OSHOバグワンの前世は、荘子であるとみている。
荘子は、全般に弟子たちの面倒を親身にみてやろうという姿勢が薄く、自らあちこち逍遥して遊びまくってはいるが憂き世の俗人の苦悩の解決にはあまり真剣とはいえないところがある。
こうしたところは、OSHOバグワンがプーナとオレゴンにコミューンを作りながら、あまりその経営に熱心とは言えなかった風であるところに共通点を感じさせられる。