大河ドラマ「江ー姫たちの戦国ー」の主役、浅井三姉妹の故郷の滋賀県長浜市を「江の古里」ツアーのタイトルでご紹介していますが、今日はその4回目となります。
私たちの一行は昼食の後、浅井歴史民俗資料館に行きました。
「浅井歴史民俗資料館」
浅井歴史民俗資料館は戦国大名・浅井3代の歴史・文化を守り伝えることを目的に平成7年に開館した施設です。
この中には「郷土学習館」「七りん館」「「糸姫の館」「鍛冶屋部屋」の4つの建物があり、江戸時代後期から明治時代における浅井の庄屋・養蚕農家・鍛冶屋などの再現や、浅井の伝統的な暮らし、道具、もの作りの技の展示や体験が出来るようになっています。
・左が「郷土学習館」、正面が「七りん館」、そして右の藁ぶき屋根の建物が「糸姫の館」です。
「郷土学習館」
1階は、浅井家三代に亘る盛衰記をパネルで紹介しているほか、姉川合戦の経緯について「姉川合戦絵巻物シアター」を配置し、迫力ある戦国時代の雰囲気を実現しています。
2階では、「江」誕生から小谷城落城までをジオラマで紹介しているほか、その後の市と三姉妹の生涯について系譜で説明していました。
「郷土学習館1階の小谷城趾のジオラマ」
小谷城は、大永4年(1504年)、浅井亮政(あざいすけまさ)が京極氏より自立して築城してのち、浅井久政を経て、3代目の浅井長政が織田信長に破れた天正元年(1573年)までの50年間、浅井氏が根城とした山城です。
・右側の尾根の上部に小谷城が築城されていました。
「小谷城大広間での長政家族」
小谷城の山上大広間で、浅井長政(29歳)と妻・市(27歳)、それに長男の万福丸(10歳)、茶々(5歳)、初(4歳)、江(1歳)の3姉妹が団欒している場面を再現しています。
「小谷城脇門の扉」
この門は織田信長のためにあえなく落城、焼け落ちた城楼の縁を示す唯一のものだそうです。
恐らく落城以前に城楼改築がなされた折に、旧館の一部(須賀谷に譲与されたもの)が永い風雪のため、門扉のみが残ったものと思われているそうです。
・小谷城落城で脇門を出るお市、茶々、初、江の3姉妹のジオラマです。
「七りん館」
1804年、江戸後期に建てられた長浜市鍛冶屋町の当時庄屋であった草野家を移築再現しています。
江戸から明治にかけての民具を生活そのままに展示し、昔のくらし体験などの総合学習の場としても利用されています。
「糸姫の館」
養蚕と製糸は浅井の伝統産業として発展してきたそうです。
この館では、町内で江戸中期から盛んに行われるようになった養蚕と製糸の歴史や仕事振りを明治期の農家を再現し、人形ジオラマや写真パネルなどで詳しく紹介しています。
「姉川古戦場跡」
織田信長は越前の朝倉義景に将軍・足利義昭に従って共に京へ行くようにと二度も要請しましたが、義景が二度とも拒んだことによって、信長の朝倉氏攻略が始まりました。
朝倉氏と旧知の仲である浅井氏は、城主・浅井長政の妻が信長の妹・お市の方であることからの親戚関係と朝倉氏との間で迷っていましたが、長政の父・久政が朝倉氏との関係を優先し、朝倉の次は浅井氏を滅ぼすだろうと主張したために、長政はついにそれを受け入れて挙兵します。
元亀元年(1570年)6月28日早朝、浅井・朝倉軍約1万8千人、織田・徳川軍約2万8千人が姉川を挟んで軍を敷いてにらみ合っていましたが、徳川方の攻撃により戦が始まりました。
4時間ほどの激戦ののち、浅井・朝倉両軍は敗走することとなりました。
この壮絶な戦いが繰り広げられたのが姉川の野村橋付近一帯(下の画像)だそうです。
この戦いによる戦死者は両軍で2500人とみられて、この3倍に及ぶ負傷者も出て、姉川は血で真っ赤に染まったと言われています。
今も、血原(ちはら)、血川橋(ちかわばし)という地名が残っており当時の惨状を伝えています。
・姉川合戦付近をバスが通過した時車内から撮影した古戦場跡です。
なお、浅井長政はこの合戦の後も、本願寺(ほんがんじ)などの反信長勢と協力して抵抗を続けましたが、姉川の戦いから3年後に、小谷城を包囲され、28歳で自刃しました。