らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

西高野街道を歩く(1)

2016-01-28 | 趣味

先日、現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー9名と西高野街道を歩いてきました。
2回目の今回は南海電鉄高野線の北野田駅から河内長野駅までの10数キロメートルを歩くものです。
当日は、西日本一帯が40年ぶりの大寒波に見舞われた日で、大阪の最高気温は4度、その上に寒風が吹いてとても寒い一日でした。
今日と明日の2回に亘って街道筋の旧跡などをご紹介します。

「高野山への参詣道」
京都、大阪から高野山に参る道には、「東高野街道」、「中高野街道」、「下高野街道」、「西高野街道」があり、これらの道は河内長野で合流し、高野街道となって高野山に続いています。
初めは山城国(京都府)から洞ヶ峠を越えて、河内国(大阪府)に入り生駒山脈の西麓を南に下って、紀見峠から慈尊院につき、高野山町石道をのぼって大門へ通じる「東高野街道」が発達し、その後、大坂からの街道は、平野から松原を経て河内長野に出る「中高野街道」と堺から狭山を経て河内長野に至る「西高野街道」が開け、江戸時代(1603~1867)には大変賑わったそうです。


「西高野街道」
西高野街道は平安時代末から鎌倉時代初期に開かれ、室町時代には高野聖の納骨や庶民の参詣の道となり、江戸時代には天下の台所といわれた大坂、堺の町人の米・酒・綿など通商の幹線道として賑わい全盛期をむかえました。
現在、西高野街道の起点は堺市役所近くの大小路橋で、高野山女人堂とを結び、その間に堺・榎元町の十三里道標石から高野山神谷の一里道標石まで、ほぼ1里(4km)、ごとに13基の里石が建ち、すべて現存しています。これらの里石は安政4年(1857)の2月から9月にかけて建立したそうです。

・安政4年(1857)の2月から9月にかけて建立された十里道標石です。


・現在の道標です。


「野田城址」
堺市南野田、南海高野線北野田駅の南方に野田城址の石碑がありました。
野田城は嘉暦元年(1326年)二月、楠木方の武将であった野田四郎正勝によって築城されました。
しかし、延文元年(1356年)、孫の兵部正康が北朝方との戦いに敗れ、城に火を放って廃城となったと言われています。
城域の一角で鎌倉時代の古瓦が出土したと言われていますが、城郭の規模や形態については不明だそうです。



・野田城略歴です。


「龍神社」
北野田から大阪狭山市に入ると日本最古のため池「狭山池」があります。
狭山池は、今から1400 年前につくられた、現存するわが国最古のダム式ため池で、その狭山池には次のような大蛇伝説があります。
「大蛇伝説」
昔、狭山池に巨大な雌の大蛇が棲んでいました。
富田林の栗ケ池にいる雄の大蛇と夫婦で、毎晩狭山池から出て会いに行きました。
しかし大蛇が通り度に田畑は荒らされ、牛馬や人間はひと呑みにされてしまったのです。
神主・僧侶・地の名主たちが集まって、毎日丑三つ時に狭山池に行き、村人たちを襲わないでくださいと祈願しました。
その甲斐あって大蛇は池からでなくなったので、池に龍神社を建てて供物を絶やさずお祀りするようになったということです。
現在は、毎年6月に龍神祭が行われています。

・狭山池の中にある龍神社です。


「PLの塔」
PLの塔は、大阪府富田林市にあるパーフェクト リバティー教団(PL教団)の塔で、正式名称は「超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔」と言い、高さ180mの粘土細工のような造形の白い塔です。
歴史上のあらゆる戦没者の霊を人種、民族、国家、国境、地域、また宗教、宗派、信条などを問わず、慰霊と鎮魂するためパーフェクト リバティー教団が建立し管理運営する慰霊塔と平和への祈念塔を兼ねるもので、1970年(昭和45年)8月1日 に落成しました。
遊園地PLランドの開園当時には展望塔まで一般公開されていたそうですが、現在は教団信者による塔の下部の神殿への参拝しかできないそうです。
なお、高校野球で有名なPL学園はこの教団の本部敷地内に立地しています。

・狭山池から望むPLの塔です。