昨日に続き、今日も西高野街道をご紹介します。
この街道にはお地蔵様があちらこちらに祀られていましたが、ご紹介するような有名な旧跡は見当たりませんでした。
「松林寺」
西国三十三度巡礼満願供養塔を越えて、松ヶ丘中町に入ると松林寺があります。
松林寺は真言律宗のお寺で、寺が所蔵する金剛界、胎蔵界の種字曼荼羅図は交流のあった延命寺の浄厳和尚が1688年に描いたもので、河内長野市の指定文化財となっています。
享保年間(1716~1735)に、摂津国住吉村の光明院諦空法印が著した「住吉高野往来」には、「四津の坂 登りて老の 跡見れば 松林寺に鳴 入相の鐘」(いりあいの鐘とは夕方に打つ鐘のことです)と歌われていて、高野参詣の信者に、その晩鐘が親しまれていたことが記されているそうです。
「楠町の合流地点」
西高野街道と中高野街道が合流する楠町の交差点には常夜燈が建ち、お地蔵さまがが祀られていました。
・西高野街道と中高野街道の合流地点です。お地蔵様(正面)の左側の道が西高野街道、ミラーがある右側の道は大阪平野を起点にする中高野街道です。
これが合流地点に建てられていた案内板の地図です。
「清明塚」
平安時代に活躍した陰陽師の安倍晴明が所蔵していた天文学の書物を埋めたので「晴明塚」と言われています。
安部晴明は、和泉国信太の森の白狐「葛の葉」を母にして生まれたという伝承があって、安部晴明の父・安部保名と母・葛の葉の悲恋物語は、講談や芝居となって大坂庶民のあいだで大いに流行したそうです。
高野街道沿いに、晴明ゆかりの土地や伝説、物語が見られるのも、こうした庶民信仰の表れのようだということです。
「膳所藩代官所跡」
国道310号線を河内長野市本多町の交差点を東に真っすぐ行くと長野保育園がありますが、この付近が膳所藩代官所跡となります。
近江膳所藩の本多氏は、この河内錦部郡にも飛地領があり、代官所を置いて支配しました。
のち、膳所藩2代藩主の本多康将は、次男の本多忠恒に1万石を分知して、新たに西代陣屋を築いたため、この膳所藩代官所は役割を終えたようです。
・ここに膳所藩代官所跡の案内板が立てられています。
「行者堂・九里石」
原町、古野町を越えて、310号線を渡ると、行者堂があり、そこに九里石が立っています。
九里石の横には「左 さかい四里 大坂七里 右 中本山極楽寺」と、堺や大坂への里数が示されている道標もあります。
極楽寺というのは「錦渓山 極楽寺」(河内長野市古野町)のことで、聖徳太子が推古天皇の病気平癒を願って、杉の根元に湧く霊水を汲んで差し上げるとたちまち平癒したので、太子が薬師如来を刻んで本尊としたのが極楽寺のはじまりとされています。
一度、廃れてしまいましたが元享元年(1321年)に融通念仏宗の法明上人によって再興されました。
・行者堂と九里石です。
今回歩いたコースの終点、南海/近鉄 河内長野駅です。