「袖すり合うも【タショウ】の縁」という諺があります。
意味はご存知のように、道で見知らぬ人と袖がちょっと触れ合うような些細なできごとでも、それは単なる偶然ではなくて、すべて前世からの因縁によるもの。だから、どんな些細な出会いも大切にせよ、と言うことです。
ところで、この諺に使われている「タショウ」は漢字で書くと「多少」でしょうか?それとも「他生」、「多生」でしょうか?
正しくは「多生」或いは「他生」と書きます。
この諺の最大のポイントは、「多生」の部分で、これはこの諺の「本質」と言える言葉です。
それを知らずに「多少」と表記しているのは、ただの誤変換ではなく、言葉の誤用となります。
「多生」は、「この世に何度も生まれ出ること」という意味の仏教用語です。
「道で人とすれ違うようなことでも、それは何度も繰り返された過去の世の縁によるもので、ただの偶然ではなく、縁によって定められた必然である」という意味になります。
なお、「他生」はこの世から見て過去および未来の生をいう語です。
「多少」は多かれ少なかれと言う意味なり、道で人とすれ違うのも、それは多かれ少なかれ縁であるから、その出会いを大事にしなければいけない」という意味で「袖すり合うも多少の縁」と言う人がいるようですが、それは誤用となります。
なお、私が使用している故事ことわざ辞典では、この諺の注釈として、「多生」は「他生」とも書く。また、「袖振り合うも他生の縁」「袖触れ合うも他生の縁」などとも言う。と説明しています。
昔は袖が触れ合っても諺が示すように、そこから人間関係が生れる大らかな社会でしたが、現在ではセクハラになりかねないので注意が必要ですね。