写真は6年ほど前に旅行で行った大阪での能舞台です。
娘に伝統芸能の素晴らしさを感じさせたいと
いっしょに観に行ったのですが、それ以上に自分でも
感動してしまった舞台でした。
能鑑賞って、伝統的に貴族的な趣味とも言えて、
一部エスプリのものというイメージがあり、縁遠く感じるものですね。
宮沢元首相の趣味の欄に「能鑑賞」とあって、
そういうものか、と思った部分があったものです。
ただ、日本の芸能の歴史を見れば、
それぞれの芸能が、折り重なるように積み上がってきているのがよくわかります。
たとえば、猿楽から、能・狂言への進化、
それをよりデフォルメしたような、歌舞伎の登場という流れ。
ごく現代的に言えば、映画とテレビの重なりよう、もアナロジー出来ます。
テレビが登場して、映画がなくなる、という俗言も出たけれど、
そうではなかった。結局、その本質を活かして存続している。
より大衆化して新しい芸能の「スタイル」は生まれるけれど、
以前のものも、存続してきていますね。
能について言えば、テーマが日本的感受性だな、といつも感じますし、
狂言は、日本的農耕を踏まえた日本人の体の使い方、を再認識させてくれます。
人形浄瑠璃なんか、人形を使う分、その要素がもっと極められているかも知れません。
一度、人形浄瑠璃を見ていて、田んぼで低い体勢をとり続けているうちに
がに股で、短足という、一種の畸形化ともいえる動きを見せられて
驚くとともに、現代人にこうした要素が消えている強い実感を持ったものです。
そういうものを伝えていくという意味でも、こういう伝統芸能は
一見する価値があると思います。
わたしたちには祖先があり、それは日本人なんです。
祖先が感じた感受性や、義理人情の生きにくいしがらみ、家族の関係性
「家」というものが持っていた重み、などなど、
知りうることは、まるで宝箱のように詰め込まれていると感じます。
能舞台、という装置の意味はあまりわからなかったのですが、
この時に、演技者のみなさんが床を強く踏みならすことで、
この能舞台自体が大きな打楽器として考えられている、という側面を
発見できて、びっくりした記憶があります。
舞台の奥に笛や太鼓の伴奏者が座って演奏しますが、
クライマックスで、演技者の床の踏み叩く音と、伴奏の音が
渾然一体となって、大団円を演出していて、感動した次第。
単純に「すごい!」と打ちのめされましたです。
伝統芸能のパワーを、思い知らされたような瞬間でしたね。
能舞台って、金持ちになると自宅に作る、っていう趣味が存在するそうです。
ホエー、ってとこですが、
最近、北海道内で、「将来は、家の敷地に能舞台を・・・」という施主さんを取材して
びっくりしたものです。
建物だけではなく、こういう能の一座を呼ぶ必要もあるのですから
すごい趣味だなぁ、と恐れ入った次第。
でも、なんかワクワクした気持ちでした。