三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

日本人と土地

2006年08月05日 06時06分21秒 | Weblog

きょうは久しぶりに歴史ネタで、行きたいと思います。
写真は先般訪れた信州松本歴史資料館で見かけた「検地」の絵と記録。

最近、鎌倉時代に凝っていまして
日本の歴史のターニングポイントだったんだと深く思い入れています。
弥生以来、日本の農地開発は一貫して、吉野ヶ里のような
力のあるものによる集団動員の結果、開墾されてきた。
それに対して、一時期の古代国家創成期に
土地の国家管理が法としては強制された。
たぶんその当時は、そのことに必然性がなかったわけではないのでしょうね。
しかし、こうした国有の形態は強制力の裏付けが乏しいなか
結局、大寺社や高級貴族たちによる資本投下での「荘園」が広がり
「私有地」という、権力分散が行われてきた。
公有田ではやっていけない、もしくはうまみが全くない
ということから、多くの人たちが「逃散」して、国家の経済基盤が
安定的に確保できなかったというのが実態だったのでしょう。
導入された私有荘園の元請けとして
藤原氏や大寺社の所有農地が拡大していった、と同時に
そういう階層に、実質的権力が移行していった。
鎌倉になると、そうしたシステムが究極化して
「寄進地形荘園」という形態で、関東地域の開墾地主が
藤原氏や、平氏に開墾した農地の所有権を差し出す代わりに
法的な「所領の安堵」が行われていたのでしょう。
ただ、このシステムだと、結局土地所有権が安定しなかったし、
そのときどきの権力によって、土地の裁判の結果が左右された。
実際には、土地の開墾から実質支配まで、その現地の連中がやっているのに
理不尽な権力機構の裁量で不安定だった。
そういった状況に対して、革命を起こしたのが
頼朝を盟主として、蜂起した関東「武士」団だったのですね。
鎌倉権力の基本は、自分たちが開墾した土地を
自分たちの持ち物として、認めさせるためのシステムだった。
そのために、それまでの権力にはなかった
「恒常的武力強制集団」としての「幕府」が誕生した。
アジアのなかで、きわめて特殊な発展をした日本の歴史の
最大のポイントはここだったと思うのです。

この革命の結果、土地の私有概念が完全に根付き、
権力の分散化、というか、封建のシステムが準備されたということなのでしょう。
そのあとにくる欧米的近代社会システムをスムーズに受容できた
いちばん大きなポイントだったと思う次第。
土地へのこだわりが、日本の歴史を動かす最大のパワーだったのです。
この検地の記録や絵からは、こういう歴史が実に生き生きと感じられます。
封建システムの完成として、こういう検地は行われた。
日本人と土地。
権力というのは、ここだけにこだわってきた歴史なのですね。
土地の上に建つ住宅、って、こういう日本人的な歴史要素も
いっぱい込められてきているものだなぁと、最近強く思っているところです・・・。
コメント
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