青森市内の住宅の庭木の様子です。
先日触れた、アーム付き薄型テレビの家ですね。
こちらには古くから立っている桜の木が3本あります。
周辺にはずいぶんたくさん桜の木があったそうですが、
住宅建築が進んで、伐採されまくって、この家の庭木だけが残ったということ。
こうした植栽は、地域の記憶の継続性の上でもっとも直接的な機縁。
建物は現代ではなかなか永続していかないけれど、
その上、樹木まで永続していかなければ、
「地域性」とはいっても、なんのよすがも存続し得ない。
確かに今どき、庭木を切らずに古い家屋敷地を永続させていくというのは
相続税などのことを考えると、難しい。
社会の仕組み自体が、そういった自然の輪廻を破壊する方向になっている。
まぁ、固定資産税や相続税ばかりのことではなく、
その土地で愛着を持って暮らし続けるということに
ほとんど社会システムの側で顧慮していない、といわざるを得ない。
江戸期までの社会であれば、
その生まれ育った地域とともにひとの生き方は決定づけられていた。
藩という、ひとつの社会システムの中で
否応なく、人々の暮らしようは決まっていたのですね。
そういう固定化した社会だからこそ、祭りという非日常空間が意味を持ち、
日常生活とのあいだでバランスを取っていた。
一方、今日の社会では、ひとはその所属する企業・団体などの「職域」社会が
基本単位になっていて、住む地域というものとの結縁性が薄くなってしまっている。
江戸期までの社会が基本として家の継続を大目標にしているのに対して
こんにちでは、形式上、個人主義に基づいた社会になっている。
でも、やっぱりひとはその土地に生きているのは事実。
そもそも家を建てる、という行為は地域性と一体化すること。
個人主義に基づいて、しかも地域社会とのつながりをどう作っていくべきなのか?
現代の住宅建築がもっとも考えなければならない問題だと思います。
って、いうことで全くの横道(笑)ですね。
桜の木の表面が防腐処理されていました。
また、枝も適度に切られていて
長く生命力を維持して行くには、このような科学的な態度が
知恵として求められているのだと思います。
このような的確なメンテナンスが、後の世代まで
サスティナブルということを伝え続けていく機縁になってくれるといいですね。
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