さて今週は比較的に取材ネタが多かったのですが、
このブログでテーマにして行きたい木造建築技術の原初期を探る探究。
きょうは、木造技術の周辺領域についてです。
日本は東アジア世界の文化圏に長く位置してきて
この歴史経緯のなかで揺籃された模範的な「仏教国」ですが、
他国ではその信仰対象としての仏像は石造や金属製、粘土加工などが
主流であるのに対して、圧倒的に「木像」が多いのが特徴とされる。
写真は木でつくる仏像制作のプロセスの様子と、
この仏像制作の技術者たちの「道具」が下の写真なのですが、
まず一見して、そのまま建築技術に転用可能なものばかり。
たぶん「造作大工」の道具だと言われても疑問は湧かない。
あきらかに相互に緊密に影響し合っていただろうと思えます。
日本史では聖徳太子の「四天王寺」建設を嚆矢として、
当時の世界宗教の本格的導入が始められ、仏教寺院建設が隆盛した。
それは同時に本格的に「木組み」の加工造作技術発展を意味した。
やがて「一木彫り」というような発展もするのですが、
基本的にはいくつかのパーツが接合されて木像は作られた。
先般来ブログ記事で探究してみた、木造構造の架構部での
木組み、仕口技術の起源ですが、
このような仏像制作の精緻な加工技術をみれば、そこで
いわゆる建築の木組み技術が、活用されただろうことは自明。
三内丸山から吉野ヶ里と縄文中期から弥生時代当時の技術発展状況も見える。
日本で仏像制作が盛んになった時期には、木造架構の建築の側でも、
もちろん精巧な接合部技術が存在し進化していただろうことは明白。
ほかのアジア圏では多用されなかった仏像の木造化ですが、
日本で異常に盛り上がったのは、仏教を受容する社会の側で
相当広範な「技術基盤」が存在していたことも容易に想像できる。
三内丸山の縄文期から出雲大社の「高層建築」まで、
その軌跡は簡単にたどることができると思います。
どうもこのあたりの木造技術発展のミッシンクリンクは、
仏像制作技術史の探究が、きわめて近縁的ではないかと思われますね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます