江戸期における芝増上寺というのは、
一種の国家施設的な存在であって、いまの皇居からも4kmほどの近さに
広大な境内地を構えて存続してきている。
けれども、この寺院は東京空襲で焼かれて、
江戸期の貴重な工芸的建築であった、徳川秀忠霊廟「台徳院殿霊廟」も
消失されたということだそうです。
しかし、実はこの工芸建築の1/10模型が明治期にイギリス王室に
プレゼントされていて、それが近年里帰りして増上寺の「大殿」地下の宝物展示室にある。
江戸期の建築というと、日光東照宮が想起されますが、
その東照宮に先行して建てられた幕府の威信を賭けた工芸建築だということで、
見学して参りました。
こちらは、写真撮影などは許諾されていませんので、写真は増上寺「大殿」。
先日の東京出張の折、アポの時間合間に見学して来ました。
この模型は100年前にロンドンで開かれた国際博覧会に出展されたそうです。
この模型は、しかしイギリスでは保守管理する技術者も存在せず、
展示することもできずに長年倉庫に留め置かれていたということ。
今回里帰りしたのは、英王室から長期にわたって貸与された形式を取っているそうです。
プレゼントされたものを「返す」というのは失礼に当たるという考えでしょう。
コンパクトな模型とは言え、作りはまことに工芸品そのもの。
東照宮のような極彩色で曼荼羅の世界が再現されていました。
そもそもが御霊屋という一種の墓であるので、
建築でありながら、各部位はまるで工芸品のように仕上げられています。
内部でも無数の「組み物」が幻想的、宗教的な空間を作り上げています。
江戸幕府開設時期というのは、戦国期の活発な城郭建築が
全国的に終息することになって、建築不況に突入したのでしょうが、
一方で江戸幕府が武家政権として成立し、新開地・江戸の
まちづくりがあらたな「建築需要」として盛り上がっていたのでしょう。
そういうなかでも、もっとも手間暇の掛かる建築として
最上級の技術者が動員されていた様子が、展示からうかがうことが出来ます。
左甚五郎などの名工たちが、活躍の場を与えられた。
一方で、江戸に屋敷地を与えられた大名たちも、屋敷を造営し、
それぞれ庭園土木事業も活発に行った。
それまで戦争に傾けられていた財力が、こういった建築に資金が注がれていった。
大工という存在は最高に稼げる職業として人材を集めていったのでしょう。
この工芸建築の随所から、そうした時代の豪勢な職人仕事のありようが漂ってくる。
この時代の建築のありよう、その活況ぶりを追体験してみたいと思いますね。
まぁ、個人的にはこういうデコラティブな装飾性にはやや・・・(笑)
でも、繊細な工芸仕事にはやはり圧倒されます。
<撮影不可だったので、写真は同様式の「日光東照宮・陽明門」です>
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