何かお願いごとがあるとき、様々な相手のご事情で
断られてしまうこともあるかもしれないけれど
「~をお願いできますか?」と言葉にすることは大切な気がします。
産まれたての赤ちゃんが言葉を駆使し
思いを伝えられないのとは異なり
言葉でコミュニケーションをはかれるようになったなら
勇気はいるのかもしれないけれど、
言葉にのせて伝えることは、
大事なのではないかしら?と思うのです。
時々、核心には触れず何となくさわりだけ
自分の思いをほのめかす方がいらっしゃいます。
敏感な私は以前は相手の欲していることに対して、
相手からお願いをされる前に「~しましょうか?」と
自ら提案することもありました。
頼みづらかったのでしょう、
相手は嬉しそうに「いいんですか?」と仰り、
(どんな時も先ず自分ありきなので
本当はあまり宜しくないのですが・・・・)
自分が本来優先にすること、すべきことを
後回しにしても、自分の意志と判断で
そちらを優先にして差し上げたことも多くありました。
昔から不思議だなと思うこと、神秘的な世界について
知りたい、という思いがあり、
独学というほど素晴らしいものではありませんが
10代後半から20代前半にかけて
こまめに書店に足を運び、色々な書籍を購入し、
関心のある講義など受け自己探求を続けてきました。
20代初頭、ある方から紹介頂き
のちに師匠となる方と出逢います。
数年前、信頼できるその師の元で世の中で不思議、
と言われる現象について科学的考察も含め
学ぶ機会を頂きました。
どんな時も見放すことなく私達の魂の成長を
見守ってく下さるという守護霊と呼ばれる存在は
わたしたちの生き方に口だしをしたり
手出しすることはなく、
「~の方へ行き、~をしたらいいですよ」と
教え 諭すこともまたなく、
「~をしないと駄目ですよ」などと、
断言することもなく
その人間の人生に影響を与えよう、
などということも一切なく、
「聴かれなければ答えない」という立ち位置です。
英国スピリチュアリズムを学問的にも
しっかりと学ぶ中でそうしたシンプルな
「聴かれなければ答えない」という
守護霊のありかたを知った時、
心が大きく深く揺さぶられました。
そうだった・・・・。
相手から聴かれ、言葉に出して
お願いをされたらその時にはじめて
を差し伸べればいいんだ、と気付かされました。
以前
「貴方はは痒い所に手が届きすぎるので
気付かない、やらないくらいが丁度いい」
と、伝えられたことがありましたが、
地に足をつけスピリチュアリズムを学ぶ中で
その意味がはたと分かりました。
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先述した話しに戻りますが・・・・・
相手にして欲しいことをちゃんと言葉にしないまま
何となく自分の気持ちを「ほのめかす」というのは、
そこに計算は働いていないかもしれませんが、
それを察知した勘の良い相手のほうからいつも、
「~しましょうか?」と言わせる流れになるというのは
言わずして 人を動かすという、ある意味、
高度なコントロールのような気がするのです。
人に何かをして差し上げることは喜びでもあるので
本質の部分では苦ではありませんが、
困っている人の為には深く考えずフットワーク軽く、
ホイホイ動いてしまう反面、自分はと言えば
同じように人に甘えたり、
気軽にお願いをするということは殆どありません。
つい、相手の状況やあれやこれやを考えてしまい、
「こんなことをお願いしたら悪いかな」など
色々と思ってしまいます。
それでもどうしてもお願いしたい事がある場合は、
相手に自分の思いを何となく ほのめかし、
自分の思いを察知して貰おう、などという
姑息な(?)ことはせず
ストレートに言葉にしてちゃんと相手の方に
自分の言葉でお願いをします。
(お付き合いの深さにもよりますが)
私のお願いに対し、割いて下さる
貴重な時間以外は極力負担をかけないよう
例えば お願いした物を送って頂く際の
封筒や切手、
お願いした物にかかる 備品などは、
相手からは言いだしづらいと思われるので
先にこちらから送るようにします。
勿論、「いいですよォ~」と、言って下されば、
感謝して受け、後日 ささやかな
お礼をさせて頂きます。
相手からお願いをされて はじめて動く
ということは、
聴かれなければ答えない】という
守護霊の立ち位置と
どこか似ているように私には思えました。
何でもかんでも察知して頼まれてもいないのに
チャッチャカやりすぎてしまうということは、
相手の今生のテーマが
【怖れず自分の思いを言葉にして相手に伝える】
という学びだとしたら、その成長を
奪ってしまうことにも なりかねないので、
過ぎたるは及ばざるが如し、を念頭に
最近は正式にお願いされるまでは
ジッと待ち、むやみに動かないようにしています。
様々感じ取ってしまうので中々難しいですが。