中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

研修生

2009-03-11 09:36:50 | 身辺雑記
 邵利明(明明)が両親と一緒に、西安の遠い親戚の25歳の青年を訪れたと話してくれた。両親が親戚から会ってみてくれと頼まれたらしい。その青年は研修生として、兵庫県の神崎郡の工場で研修しているとのことだ。神崎郡のどこか、どういう企業かは知らなかったが、たずねてみると、かなりよくない環境だったようだ。寮の部屋には暖房はない。エアコンはあるが故障している。寝具は敷布団に掛け布団と毛布が1枚だけで寒そうで、どうやら辛い毎日のようで、悲しそうな様子だったと言う。食事をして別れたが、しばらく行って振り返ってみたら、置かれていたトラックの陰になって姿が見えなかった。泣いていたのかも知れませんと明明は言った。その青年の様子を見て明明の両親は、明明は恵まれていると言ったそうだ。

 外国人研修制度によって日本の企業で研修する外国人は急増していると言われている。この制度は、日本の技術・技能・知識の修得を支援することによって開発途上国への国際貢献と国際協力を目的としている制度である。しかし、問題も多く発生しているようで、これまでにも人権侵害や事件がニュースになっていた。パスポートを取上げたり、時間外労働を強制したり、権利を主張すると強制帰国させたり、保証金・違約金によって身柄を拘束したり、最低賃金法違反したりするなどの悪質な事例が後を絶たないようだ。研修と言えば建前や聞こえはよいが、実際には安い労働力とみなしている不心得な企業も少なくないようだ。また、中国には現地に斡旋業者がいて、高い手数料や保証金を取るなどかなりあこぎなこともしているらしい。(「外国人研修制度」(Wikipedia)参照)

 明明達が会った青年の話では、社長が西安での説明会に来たそうだが、前には海があり後ろには山があってきれいな環境だと言ったという。神崎郡には海はないよと言ったら、そうですよ、来てみたら川があるだけだし、山と言っても岡のようなもので騙されたと思ったと言っていましたと明明は言った。現地の仲介業者の斡旋で来日したらしいが、いい加減なことをやっているのではないだろうか。会社を辞めて帰国したくても、中国の仲介業者に4万元(約50万円)徴収され、それが戻ってくる当てはないらしい。何をしている会社なのか、規模はどれくらいのものなのかはわからないが、ベトナム人もいるらしく、研修とは名ばかりのお粗末な状態なのではないか。国際貢献も国際協力もあったものではない。こんなことでは帰国しても日本に好感を持ってくれることは期待できないだろう。聞いていて憂鬱になってしまった。

 

自殺

2009-03-10 08:53:40 | 身辺雑記
 警察庁の発表によると、この1月に日本国内で自殺した人は、男性1894人、女性751人で、計2645人だった。警察庁はこれまで月別データは出していないので前年同期比は不明だが、厚生労働省の人口動態統計月報によると、2305人だったから増えているのかもしれない。また警視庁と道府県警が調べた自殺者数の暫定値を共同通信が集計した結果によると、全国の昨年1年間の自殺者数は3万人を超え、ほぼ前年並みになる見通しであることも分かった。警察庁の自殺者数統計は1998年以来3万人を上回っており、11年連続となることが確実になったという。

 年齢別や原因については不明だが、それでも年間で3万人以上の自殺者があるというのは痛ましいことだ。WHOの2007年11月現在の各国のデータによれば、自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)を見ると、日本は24.0人で9位になっている。先進国ではかなり高いほうだ。日本よりも高いのはロシアの3位だが、老人の自殺が多いらしい。日本の男性は55~64で最も自殺率が高くなっている。

 ニュースなどで知るのは小中高校生などではいじめによるものが多いようだが、青壮年の世代では生活苦や病弱ということが多いのではないか。特に昨今のように働き盛りでリストラされて職の当てのない人が増えている状況下では、これから自殺者の数も増えるのではないかと心配される。実際、派遣切りなどで職を失い住居も追われ、新しい就職口も見つからないようになれば、私なら耐えられるだろうかと考えてしまう。

 よく、死ぬ気になるのなら何だってできるはずだ、生きる意志が弱い、もっと自分を大切にするべきだなどと批判する向きがあるが、そこにいたるまでの当事者の苦しみや絶望感は他人には窺い知れるものではなく、軽々に批判するものではないだろう。私の身内にも若くして自死した者がいるが、かなりのウツに苦しんでいたらしい。妻が入院していた病院で、1人の若い入院患者が廊下を歩いているのを見たが、痩せて顔色は真っ青で生気がなく、いかにも苦しそうだった。その姿を見て、生きることに希望がなくなっても仕方がないだろうと思った。

 もっとも、家族を道連れにした無理心中などはいけないと思う。とくに年端もいかない子どもを道連れにするのは、後に残したらかわいそうだという親としての気持ちはわからないでもないが、やはりむごいことだ。冷たいことを言うようだが、子どもは親がいなくなっても何とか生きていけるものだと思う。かつて米国で、在留邦人の母親がわが子を殺して心中を図ったが死に切れなかった事件があった。米国ではこういうことは市民道徳として許されることではないようで、その母親は終身刑になった。日本でも無理心中は殺人だという認識を持つべきではないだろうか。

 小中高校生の自殺の中には、柵を越えるような簡単な気持ちで死を選ぶこともあると聞いたことがある。やはり若いうちは死を畏怖するべきだ。死ということを軽く考えていると、他人や身近の生物の命も軽く考えるようになる。もっと死というものの重さを考えさせるべきだ。そのためには、生きていくことの大切さを教えることはもちろん必要だが、学校でも死ということを教えること、死の教育のようなものが重要ではないか。










春のきざし

2009-03-09 09:17:08 | 身辺雑記
 このところ気温が定まらず、春のような暖かさが一転して冬の寒さになったりしているが、概して暖かい日が多いようだ。さっぱりです、ぜんぜん売れませんと、メンズショップを営む卒業生が嘆いていた。暖冬で冬物の売れ行きは非常に悪いらしい。

 身近にも春の気配は濃くなってきている。近所の花卉店を営むMさんの自宅の実桜が満開になった。今年は花のつきがいいようだ。






 実桜のそばにはサンシュユ(山茱萸)の木があり、これも花盛りである。実桜と同じように葉に先立って花を咲かせる。






 
 水仙。ある家の門前で。

 
 日本桜草。この家の奥さんは年中見事な花を咲かせている。


 ジンチョウゲ(沈丁花)。まだ満開ではないが、近寄ると馥郁とした香りが漂う。




 乙女椿。我が家の小庭で。


 野草も花をつけている。

 スミレ


 キュウリグサ。ワスレナグサと同じ仲間で、2ミリほどの小さな可憐な花をつける。

 
 ホトケノザ。花は紅紫色。


 ヒメオドリコソウ。ホトケノザと似ている。花は淡紫色。


 オニノゲシ


 
 これからもいろいろな花がしだいに咲いていき、1ヶ月のちには春たけなわになるのだろう。関西の桜の開花は3月28日だそうだ。

エコ

2009-03-08 10:48:33 | 身辺雑記
 いつも利用している私鉄の駅の1枚のポスターに「スタシアなら土・日・祝日だってエコでおトク!」とあった。スタシアというのは関西一円の私鉄で通用するポストペイ方式のICカードのことで私も使っているが、このポスターに書かれている意味が分からない。下のほうに、駅に置いてあるチラシを見るようにと書いてあったから、駅を出るときに1枚とった。チラシの上のほうには「電車やバスからはじまるエコ。未来の夢、そして私たちの街を守ろう!」とあり、その下に大きく「エコ乗り econori」とある。やはりこれも意味が分からない。その下に図があって、それを見ると、どうやら土・日・祝日の同一日に電車に2回乗り、さらにバスに2回乗ると100ポイントがつき、この私鉄と、接続する私鉄にそれぞれ2回乗ると40ポイントがつく企画のようだ。なぜこれを「エコ乗り」と言うのだろう。

 近頃は何かにつけ「エコ」である。ひところの「地球に優しい」という、私はあまり好きではなかった標語と代わったように、エコ、エコである。エコカー、エコハウス、エコライフ、エコバッグなど枚挙にいとまがないくらいで、この文字を見ない日はないくらいだ。「エコ」と言えば、何とはなし説明したような気に、分かったような気になるのか。

 エコは、普通はエコロジイの略として使われている。本来は生態学だが、環境や環境に関わる事象のことを指すようになっている。だから「環境にやさしい」の言い換えだと思う。今は主として地球温暖化に関係する二酸化炭素の排出量を減らすことを言うようだ。例えばエコバッグは、スーパーやデパートで買い物するときに渡されるレジ袋の過剰使用を止めて繰り返して使えるマイバッグだが、これによってごみの削減や、それに伴う二酸化炭素などの温室効果ガスの削減、レジ袋の原料となる原油の節約(資源保護)などを目的としている。

 エコカーは二酸化炭素の排出量を少なくするものだということはよく分かるが、上のポスターを出した私鉄では、エコとレインというものを宣伝している。先頭車を派手に塗装した電車だが、期間限定で走らせている。


 車内の吊広告を見ると、「エコな電車がもっとエコになります」とある。先のポスターと同じように、どうも何を言いたいのか、1人で浮かれているような文面で分かりにくいのだが、電車やバスははもともと車や飛行機に比べると、人が1キロ移動するときに排出される二酸化炭素量が少ないエコな乗り物だそうで、エコトレインが属する系統の車両はブレーキをかけると発電して、その電気を架線に戻し加速中の他の電車がそれを利用する仕組みになっていて省エネ化が図られているのだそうだ。


 どうもエコはエコノミー、すなわち経済的とか節約という意味でも使われているようだ。初めに挙げたポスターの文面もその文脈から読めば分かるような気がするし、また休日や祝祭日に出かけるときは二酸化炭素の排出量が多いマイカーを使わずに電車にしましょうと言うことなのだろう。エコは2つの意味で使われている。それにしても「エコな」というような日本語はどうも好きになれない。







わかりにくい文

2009-03-07 10:16:29 | 身辺雑記
 西安の謝俊麗がチャットで、文の意味がわからないと尋ねてきた。こういう文だ。

 「オリジナル品PD型式とは擬装上は異なるものも、付されている商標の表示の相違のみにて確認してください」

 日本人の文かと聞いたら、そうだと言う。友人で弁護士をしている男性が聞いてきたそうだ。この男性も日本語はできるという。さらに尋ねてみると、ある商品の本物と偽物を見分けることについての説明らしい。それで大体は見当がついたが、最初は文中の「擬装」という言葉に引っかかって意味がわからなかった。擬装はカムフラージュという意味があるが、ここでは、「ほかの物と似た色や形にして人目を欺くこと」と言うことだろう。

 オリジナル製品(本物)とは外見上は異なっていても、付けている商標だけでオリジナルなものかどうかを確認してほしい、まあ、こんな程度のことか、要するに真贋の判断は商標でと、ちょっと納得がいかないところもあって、あまり自信はないが答えておいた。

 それにしても、私の理解力の乏しさのせいかわかりにくい文だ。擬装などとあまり使わない語があるからややこしくなる。全体としても何かこなれが悪くぎくしゃくしていてすっきりしない。まして中国人が読めば戸惑うだろう。

 だいぶ前のことになるが、購入したオーディオ機器の操作方法が、説明書を読んでもよくわからない。仕方がないから文書でメーカーに問い合わせた。しばらくして手書きの回答書が届いたのだが、これが説明書以上にわかりにくい悪文で、しかもひどい悪筆で途方に暮れてしまった。結局どのように判読し解釈したのかは忘れてしまったが、おそらく技術屋のそれも若い社員が書いたものだったのだろう。理工系の人間には作文が下手なのが少なくないと言われるが、この例などは典型的なものだろう。おそらく回答した本人には私が質問した程度のことは苦もなくわかることなのだろうが、それを文章で表現し説明する力が弱いのだろうと思う。謝俊麗は、中国でも理科系の人間は同じだと言った。大学でも理工系の学生には作文や表現力を高める訓練をしたほうがいい。






仏像泥棒

2009-03-06 10:44:45 | 身辺雑記
 京都の古刹、臨済宗の建仁寺で、1月に江戸時代の作の木造十一面観音坐像が盗まれたが、その犯人が捕らえられた。三重県四日市市の自営業の59歳の社長で、建仁寺の仏像のほかにも20体の仏像が押収されたそうだ。他の寺でも盗んだと供述していて、昨年盗まれた東寺の不動明王立像や毘沙門堂の毘沙門天像も発見された。京都では昨年来、仏像などの盗難事件が十数件発生していたという。

 調べではこの男は、1月31日の午後の拝観時間中に建仁寺の本坊内に侵入して、厨子に安置されていた高さ約70センチ、重さ約3キロの観音坐像を盗み出したが、その様子が寺の防犯カメラに映っていた。警察はこの画像と、近くの駐車場の防犯カメラに映っていた車の特徴から容疑者を割り出したようだ。

 調べに対して、「仏像が好きで、信仰心から持ち帰った。毎日拝んでいた」と供述したそうだが、とんでもない信仰心があったものだ。本当に毎日拝んでいたとしたら、どんな心境だったのだろう。信仰心から盗んだり、盗んだものを拝むということが理解できない。信仰心はともかくとして蒐集マニア的なところがあったのではないか。

 それにしても、京都から四日市まではかなりの距離があるが、防犯カメラに映った画像から、遠いところにいる犯人がよく割り出されたものだと感心した。インタネットで防犯カメラに映っている男の画像を見たが、素人にははっきり判別できるものではない。専門家が解析すると詳しく分かるものなのだろうが、たいしたものだと思う。天網恢恢疎にして漏らさずと言うか、仏罰覿面と言うことだろう。


定額給付金

2009-03-05 10:31:30 | 身辺雑記
 定額給付金関連法案が衆議院で再議決されて成立した。当初から紛糾の種になっていた定額給付金も、これで支給されることになった。

 平成20年度第2次補正予算案の目玉として麻生政権が打ち出したこの給付金は評判が悪かった。初めは生活補助のためと言い、総選挙目当てのばらまきだとの批判が多く、その後経済状況の急激な悪化で、景気対策だとも説明が変わり、最終的にはその両方だと言った。そのたびに野党の追及を受け、総額2兆円にも上る予算を必要とすることから、もっと有効な使途もあるだろうと批判され、世論調査でも「景気対策として適切ではない」との回答が全体の80%近くもあった。このあたり、くれると言うのならつべこべ言わずに受け取ればいいじゃないかというような安易な意識を国民が持たなかったのは評価できると思う。

 しかし政府与党はこのような世論、民意には目を逸らし、首相も国会での答弁で「早く支給してほしいという声もよく聞く」と強弁した。給付対象も上限を設けるとか設けないとか政府の方針は揺らぎ、では自分が受け取るかということになると、首相は例によって発言にぶれが多く、初めは「もともと受け取る気がない」と言ったり、自分を意識してか高額所得者が受け取るのは「さもしい」とか「矜持の問題」とも言った。その後は景気対策になるから国民がみな受け取り使ってほしいとなり、自分が受け取るかはその時になって考えるなどと、政治家の言葉の軽さを露呈したような発言が続いた。結局は受け取ることにしたようだ。

 野党の要求どおり定額給付金は外せば、もっと早く補正予算は成立していただろうが、政府与党は内部にも異論があっても頑として肯んじなかった。政治とは国民の理解の外で行われるものだとつくづく思わされた。

 法案成立が確実視されるようになってから、政府は閣僚懇談会で全閣僚が受け取ることを申し合わせ、自民党も所属国会議員に受け取るよう呼びかける通知を出す方針を確認した。これを受けて態度を明らかにしていなかった閣僚も相次いで受け取る考えを明らかにしたようだ。しかし、これはおかしなことではないか。自分達が出した法案が、受給対象者を全員としている限り、閣僚や議員が個人の恣意で受け取るかどうかを言うことではあるまい。喜んでということはないだろうが、黙って受け取るべきだ。

 法案再審議の衆議院本会議には欠席を予告して波紋を投げかけていた元首相は欠席した。与党議員も1人が会議中に退席し棄権した。元首相は過去に功績があり、事前に欠席届を出しているので反対の意思表示ではないとして処分なしとした。棄権は賛成でも反対でもない意思表示だと思うが、自民党は棄権した議員を戒告処分とした。何やら牽強付会のようにも思えるが、永田町という別世界ではこのようなことは別に不思議でもないことなのだろう。

 国会での給付金騒ぎは一応終わった。これからは地方自治体が支給に向けての手続きや作業をすることになる。手間も金もかかる作業らしい。早々に支給できるところもあるが、5月以降にずれ込む自治体もあるようだ。私の住む市では4月らしいが、いつになろうとどうでもいいと思っている。収賄で辞職した市長の後任はどうなるのかの方に関心がある。テレビでは「嬉しいです」とか「有難いです」、「助かります」という街の声を映していた。2万円は私にとって少なくはない金額だが、私には特にそういう感想もない。これまでの経緯を思い、法案が再可決されたときに「ウォー」と歓声を上げる与党の議員達の様子を見ていると、何かしらバカにされたような気がしたのはなぜなのか。ひねくれているのだろうか。果たして思惑通りこれで選挙の票は買えるのか、景気を刺激することになるのか。

値上げ

2009-03-04 08:48:01 | 身辺雑記
 毎日牛乳を飲んでいる。有名メーカーのものだが、宅配の200mlの小瓶だ。先日牛乳瓶と一緒に1枚のリーフレットが入っていた。「容量の変更のお知らせです」とある。

 この3月から酪農家から購入する原料乳が昨年に続いて再度引き上げられることになった。これまでコスト削減に向けて鋭意取り組んできたが、もはや企業努力の範囲では吸収できない厳しい状況となった言い、そして「3月からメーカー希望価格を据え置き、容量を変更させていただくことといたしました」(この部分は下線付き太字)とある。私が購入しているものは200mlが180mlになるということだ。
         

 酪農家の経営状態は非常に悪化しているようだ。輸入飼料が高騰し、テレビを見ると、規模は分からないが、ある農家は1ヶ月の飼料代が10万円値上がりしたと嘆いていた。それで3月からの元乳の値上げになったようだ。酪農業者が今回の値上げによって恐れているのは、消費者の牛乳離れだという。

 そのような状況はよく分かるのだが、それでも企業のリーフレットを読んで、いささか違和感を覚えた。要するに10%の値上げではないか。それならそうとはっきりと言えばいいのに「価格を据え置き、容量を変更させていただく」と言うのは素直ではない。どうしても値上げしなければ企業としてやっていけないというのなら、持って回った言い方ではなく、はっきりとそう言って購入者の理解を得ればいいではないか。値上げすると言うことはそんなに憚られることなのか。容量変更と言えば購入者は納得し、値上げと言えば購入を止めるとでも考えているのか。こういう言い方をするのが企業の常識なのか、何かしらあざとくて消費者を侮っているような感じがする。

桃の節句

2009-03-03 08:35:55 | 身辺雑記
 3月が近づくとデパートや人形店には雛人形が並び、春めいた雰囲気になる。3月3日は桃の節句、雛祭りだが、今の新暦の3月3日はまだ春の陽気は本格的でなく、梅の季節だから、桃の花も温室栽培らしいものが花屋で見られるくらいだ。やはり桃の節句は旧暦でするほうがよいように思う。今年の旧暦3月3日は3月29日だから、この頃には桃の花は見ごろだろう。Hr君たちとその頃に和歌山にある桃の郷に行ってみようかと言っている。

 旧暦3月3日は、古は上巳(じょうし、じょうみ)と呼ばれ5月5日の端午の節句などとともに五節句に一つとされた。上巳は上旬の巳の日の意味で、元来は3月上旬の巳の日であったが、古代中国の三国時代の魏より3月3日に行われるようになったそうだ。そしてこのころが桃の季節でもあるので桃の節句と呼ばれるようになったようだ。

 今では3月3日は雛祭りとなっているが、これは江戸時代からで、その起源は平安時代の京都で貴族階級の子女が御所を模した御殿や飾り付けで遊んだ「雛遊び」だと言われている。優雅なままごと遊びのようなものだったのだろう。それが江戸時代になると庶民の人形遊びと節句が結び付けられて「雛祭り」の行事となった。

 我が家には女の子は生まれなかったから、雛人形を飾ることはなかった。子どもの頃には妹達がいたから毎年床の間に雛壇を組んで飾った。三人官女も五人囃子も随身もあり、蒔絵を施した小さな道具類もあった。今の都会の住宅は概して狭く、床の間などはないことが多いから、このような大きな雛壇を飾ることは少なくなり、箪笥の上などに飾れるようなものが売られている。それでも何十万円かするものも多いようだ。ごく小さな内裏雛(親王)だけのものも多い。


 内裏雛は男雛と女雛とが一対になっていて、平安時代の天皇と皇后を模している。よくどちらを左にするか右にするかが言われるが、唐代や日本の宮廷では左が上位とされていたので、天皇は左(向かって右)に座し、内裏雛もそれに倣った。大正時代から西洋式に天皇は右に位置するようになったので、それを真似て東京では、男雛を向かって左にする家庭が増えたが、京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじて今でも男雛を向かって右に置く家庭が多く、これを「古式」と言うそうだ。


 桃の節句とか雛祭りというと、何となく春めいた暖かさを感じるもので、幼少の頃は男の子であっても華やいだ気分になったものだ。私はあの赤白緑三色の菱餅の色が好きだったから、今でも和菓子屋などで菱餅を見ると嬉しいような気分になる。
インタネットより

 雛人形は3日が過ぎたらすぐに片付けないと、婚期を逸するという俗信がある。昨年大阪の会社に来た邵利明(明明)に小さな内裏雛を買ってやったが、それをずっと飾っていたのでHr君がその俗信を教えてやると、明明は驚いたように「ええ、本当ですか。結婚できなくなったら、教えてくれなかった爺爺のせいですよ」と言った。中国人は若い人でも俗信や迷信を信じる傾向があるようだ。

             




新聞を読まない

2009-03-02 10:34:49 | 身辺雑記
 麻生首相は新聞を読まないそうだ。そのように公言してきたらしいから本当なのだろう。新聞はテレビ・ラジオ欄しか見ないという若者などは別にしても、新聞を読まないという人は珍しくない。中には、それでも自分は世の動きには遅れてないとか自負している向きもあるが、それぞれの好みだから別に目に角を立てるほどのこともないだろう。

 しかし一国の首相ともなると、それでは済まされないらしく、衆議院予算委員会で野党の議員がこのことについて質問した。予算委員会という場は、直接予算には関係しない問題でも質問できるようだ。「一国のトップリーダーが『新聞を読まない』と公言するようなことがあっていいのか。なぜ新聞を読まないのか」というのが質問だ。

 首相は、筆者の名前が載っている記事は筆者の名前を見て読むようにしていると答えたようだ。そういう読み方もあるのだろう。私などはいちいち筆者名を確かめて読むことなどはしないが、首相は署名を見て、これならいい、これはだめだと判断するのだろう。要するに筆者に対する好き嫌いがあるということなのだろうが、一国のリーダーとなれば、たとえお気に召さない筆者の記事でも目を通してみるということはあってもいいのではないか。

 また、筆者名の載っていない記事は見出しは眺めるが、自分のことが書いてあると大体違うのであんまり読まない、とも言ったようだが、読まないのに自分のことは大体違うとは矛盾した言い方で、結局は読んでいるのでないか。それにしても少々度量の狭いことだと思う。私も記事の内容が自分の考えとは違う場合には、何か納得できないものを感じたり、時には不愉快になることもある。それは仕方のないことだが、自分に関することとなるとそうも言っていられないのか。

 偏った記事が多いように思う、うのみにしてはいかんと常に自戒しているとも言ったようだが、新聞にもいろいろあって、リベラルを標榜しているのも、それを左と非難して右派言論を展開するのもある。「偏った」と言うのは首相の思想信条から来るものだろうが、やはり、結局はそれなりに読んでいるのではないかと思ってしまう。

 新聞など読まなくても、政治情勢も経済状況も海外事情もオレは知っているのだと胸を張りたいのだろうが、あまりそれを公言すると、やはり文字には弱いのでないかと要らぬ詮索をされることにもならないか。