『クイズショウ』本番中に正味3日間ベトナムに行き消耗した件は記した。いろいろあったが、かの国で、ライムがすぐれた調味料であることは確認した。
田村光男さんを送る会のことも記した。終電後に着いて朝までだった。
劇団ミーティング。必要に応じて何度もしなければならない。
年度内に行うことになった劇作家協会研修課の授業を二つ。
ぎりぎりに決まった年度末最後の日曜日の朝、劇作家協会の年に一度の重要な理事会・運営委員会。曜日を間違えかけて難儀した。この回のたび、また一年が経ったのだと思う。
そんな中、場所が遠すぎて行けず、やむなくお断りする要件も出てきた。
四月。前々から必要だと主張していた舞台芸術団体同志が集まる会議が、芸団協の呼びかけで実現。
一昨年に続いて、岡山市からの依頼に応える要件。
また血縁者の手術のことで岡山に終電で行き翌々朝に帰京するも、仕事が山積みでその日は身動きできぬ状態に。
年度末と新年度開始、いろいろな仕事が追ってくる。三田文学の総会で劇団員が朗読をすることにもなった。来年再来年の準備も山積。
『屋根裏』国内外計九箇所公演の準備も、抜き差しならぬめまぐるしさ。そのツアー期間中の梅ヶ丘BOX貸し出しの件も。
六月のメルヴィル学会発表の準備。他、原稿も山積み。
就活中の人間の作文も指導。
『屋根裏』の後の夏の公演の詳細も固めてゆく。いろいろな方々との連絡。
そのための準備会議等も含めてバタバタしつつも、五日、〈非戦を選ぶ演劇人の会 主催 この国を「戦争のできる国」にさせないために リレー講演と意見交流会〉。早野透さんが朝日に書いてくれたように、本当に登壇者はどの方もみんないい話をしてくれた。充実していた。こういう、いろいろな現場の人たちが集う集会を昔にはずいぶんやっていたはずなのだが。私も何度となく企画し、司会した。主に八十年代後半だ。必要な場だった。今もそうなのだ。明らかに。
高遠菜穂子さんは今まで会ったどの時よりも緊張の面持ちだった。志葉玲さん、安田菜津紀さん、ジャーナリストの皆さんも、あらためて決意を問われる時代になったのだ。パスポートを取り上げられた新潟の杉本さんのことも話に出る。
本当に現実は逼迫している。
馬奈木厳太郎さん(福島生業訴訟弁護団)の語る福島の現実。
明日の自由を守る若手弁護士の会、「のじれん」(渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合)の室田大樹さんの報告の重さ。八十年代後半の山谷の運動と連携した活動のことを思い出す。
『標的の村』の監督・三上智恵さんの、最新作『戦場ぬ止み』仕上げの仕事を抱えながらの、沖縄の現実の引き受け方の、開陳。
現実の重さ。耐えることしかできない時代の閉塞を感じさせられる中、土肥信雄元三鷹高校校長の明るさに救われた。東京都教育委員会が出した「職員会議での挙手・裁決による教職員の意向確認の禁止」通達(2006年)に対し当時の都立高校長でただひとり批判し、都立三鷹高校を追われ、その撤回を求めたが最高裁の上告棄却されたばかり、そんな現実にもひるまず、ユーモアと懐の深さで場をふっくらとさせてくださった。在校生三学年の生徒全員の名前を憶えている校長なんて彼の他にいただろうか。
保坂展人世田谷区長も、こういう人が首長であるべきだという、さすがの筋の遠し方を示した。この日の世田谷区長選に向けた候補者討論会では対抗馬の自民党候補者が瀬戸際でキャンセル、開催中止とのこと。なんじゃそりゃ。
高江から出稼ぎ中の石原岳さんの、現実の引き受け方。
会いたいと思っていた〈SASPL-特定秘密保護法に反対する学生有志の会〉の、元山仁士郎さん、ゆんたくるーの真鍋百合香さんら若世代の、しっかりとした眼差し。
パネラー最後は劇作家協会でもお世話になっている我らが福井健策弁護士が、びしっと話をまとめてくれた。
そして何より、この日の空気をこれまでにないものにしてくれたのは、ろくでなし子さんの登壇であった。……一人で話すのでなく話し相手がいたほうがいいということだったので、司会進行の私が事前に彼女と楽屋で打ち合わせをしたが、ここで私はほとんど初めて「まんこ」という言葉を口にした。もちろん壇上でも。それがろくでなし子さんのキーワードであるからだ。その後も含めてこの言葉、私はまだ今でも十回くらいしか口にしたことはないはずだが、まあこれからの人生ではもう平気であろう。もちろん、私の生まれ育った地方ではその言い方をしないのであるが。……今週4月15日、ついに、ろくでなし子さんの裁判が始まる。
リレー講演開催の翌日から『屋根裏』稽古開始。座内オーディション残り。その日の夜、座高円寺の新年度レパートリー発表の記者会見に参加。これもまた、一年の経過を感じさせる行事。流山児祥氏と久しぶりに話す。
その翌日は稽古の後、来日中のベトナム国立劇場のビンさんにお目にかかる。その後の夜、家族の記念日も祝う。
さらに翌朝はベトナムの劇作家Giao su Xoayさんが梅ヶ丘BOXを訪ねてくださる。若くインテリで威勢がいい。『屋根裏』のセットの裏も表も見て、いろいろ刺激を受けてくれたようだ。
稽古との狭間に、また別な来客、某公立劇場についての話し合い。
稽古の後に新国立劇場『ウインズロゥ・ボーイ』を観る。十年前に自分が演出した戯曲を観る不思議。今回の演出・鈴木裕美さんに言われた通り、ほんとに懐かしかった。裕美さんは私が演出したときのプロデューサーでもあるのだ。もちろん芝居そのものの方向性は違う。自分のところ以外の芝居を観るのはものすごく久しぶり。
その後も毎日、とにかく稽古。打ち合わせ。一人で居ても雑務消化に励むのみの日々。このブログも久しく記せず。眠い。
花見には行けず。桜の木の下を慌ただしく通り過ぎるだけ。
桜が散った後に雪が降る春の朝。なんという不思議。
田村光男さんを送る会のことも記した。終電後に着いて朝までだった。
劇団ミーティング。必要に応じて何度もしなければならない。
年度内に行うことになった劇作家協会研修課の授業を二つ。
ぎりぎりに決まった年度末最後の日曜日の朝、劇作家協会の年に一度の重要な理事会・運営委員会。曜日を間違えかけて難儀した。この回のたび、また一年が経ったのだと思う。
そんな中、場所が遠すぎて行けず、やむなくお断りする要件も出てきた。
四月。前々から必要だと主張していた舞台芸術団体同志が集まる会議が、芸団協の呼びかけで実現。
一昨年に続いて、岡山市からの依頼に応える要件。
また血縁者の手術のことで岡山に終電で行き翌々朝に帰京するも、仕事が山積みでその日は身動きできぬ状態に。
年度末と新年度開始、いろいろな仕事が追ってくる。三田文学の総会で劇団員が朗読をすることにもなった。来年再来年の準備も山積。
『屋根裏』国内外計九箇所公演の準備も、抜き差しならぬめまぐるしさ。そのツアー期間中の梅ヶ丘BOX貸し出しの件も。
六月のメルヴィル学会発表の準備。他、原稿も山積み。
就活中の人間の作文も指導。
『屋根裏』の後の夏の公演の詳細も固めてゆく。いろいろな方々との連絡。
そのための準備会議等も含めてバタバタしつつも、五日、〈非戦を選ぶ演劇人の会 主催 この国を「戦争のできる国」にさせないために リレー講演と意見交流会〉。早野透さんが朝日に書いてくれたように、本当に登壇者はどの方もみんないい話をしてくれた。充実していた。こういう、いろいろな現場の人たちが集う集会を昔にはずいぶんやっていたはずなのだが。私も何度となく企画し、司会した。主に八十年代後半だ。必要な場だった。今もそうなのだ。明らかに。
高遠菜穂子さんは今まで会ったどの時よりも緊張の面持ちだった。志葉玲さん、安田菜津紀さん、ジャーナリストの皆さんも、あらためて決意を問われる時代になったのだ。パスポートを取り上げられた新潟の杉本さんのことも話に出る。
本当に現実は逼迫している。
馬奈木厳太郎さん(福島生業訴訟弁護団)の語る福島の現実。
明日の自由を守る若手弁護士の会、「のじれん」(渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合)の室田大樹さんの報告の重さ。八十年代後半の山谷の運動と連携した活動のことを思い出す。
『標的の村』の監督・三上智恵さんの、最新作『戦場ぬ止み』仕上げの仕事を抱えながらの、沖縄の現実の引き受け方の、開陳。
現実の重さ。耐えることしかできない時代の閉塞を感じさせられる中、土肥信雄元三鷹高校校長の明るさに救われた。東京都教育委員会が出した「職員会議での挙手・裁決による教職員の意向確認の禁止」通達(2006年)に対し当時の都立高校長でただひとり批判し、都立三鷹高校を追われ、その撤回を求めたが最高裁の上告棄却されたばかり、そんな現実にもひるまず、ユーモアと懐の深さで場をふっくらとさせてくださった。在校生三学年の生徒全員の名前を憶えている校長なんて彼の他にいただろうか。
保坂展人世田谷区長も、こういう人が首長であるべきだという、さすがの筋の遠し方を示した。この日の世田谷区長選に向けた候補者討論会では対抗馬の自民党候補者が瀬戸際でキャンセル、開催中止とのこと。なんじゃそりゃ。
高江から出稼ぎ中の石原岳さんの、現実の引き受け方。
会いたいと思っていた〈SASPL-特定秘密保護法に反対する学生有志の会〉の、元山仁士郎さん、ゆんたくるーの真鍋百合香さんら若世代の、しっかりとした眼差し。
パネラー最後は劇作家協会でもお世話になっている我らが福井健策弁護士が、びしっと話をまとめてくれた。
そして何より、この日の空気をこれまでにないものにしてくれたのは、ろくでなし子さんの登壇であった。……一人で話すのでなく話し相手がいたほうがいいということだったので、司会進行の私が事前に彼女と楽屋で打ち合わせをしたが、ここで私はほとんど初めて「まんこ」という言葉を口にした。もちろん壇上でも。それがろくでなし子さんのキーワードであるからだ。その後も含めてこの言葉、私はまだ今でも十回くらいしか口にしたことはないはずだが、まあこれからの人生ではもう平気であろう。もちろん、私の生まれ育った地方ではその言い方をしないのであるが。……今週4月15日、ついに、ろくでなし子さんの裁判が始まる。
リレー講演開催の翌日から『屋根裏』稽古開始。座内オーディション残り。その日の夜、座高円寺の新年度レパートリー発表の記者会見に参加。これもまた、一年の経過を感じさせる行事。流山児祥氏と久しぶりに話す。
その翌日は稽古の後、来日中のベトナム国立劇場のビンさんにお目にかかる。その後の夜、家族の記念日も祝う。
さらに翌朝はベトナムの劇作家Giao su Xoayさんが梅ヶ丘BOXを訪ねてくださる。若くインテリで威勢がいい。『屋根裏』のセットの裏も表も見て、いろいろ刺激を受けてくれたようだ。
稽古との狭間に、また別な来客、某公立劇場についての話し合い。
稽古の後に新国立劇場『ウインズロゥ・ボーイ』を観る。十年前に自分が演出した戯曲を観る不思議。今回の演出・鈴木裕美さんに言われた通り、ほんとに懐かしかった。裕美さんは私が演出したときのプロデューサーでもあるのだ。もちろん芝居そのものの方向性は違う。自分のところ以外の芝居を観るのはものすごく久しぶり。
その後も毎日、とにかく稽古。打ち合わせ。一人で居ても雑務消化に励むのみの日々。このブログも久しく記せず。眠い。
花見には行けず。桜の木の下を慌ただしく通り過ぎるだけ。
桜が散った後に雪が降る春の朝。なんという不思議。