燐光群は、[春の特別公演]として、3月15日(金)〜3月31日(日)、下北沢ザ・スズナリにて、
昨夏初演し好評を博した『九月、東京の路上で』と、
新作『生きのこった森の石松』『あい子の東京日記』を上演いたします。
再演一本と、新作短編二本同時上演の、二本立て、と、ちとややこしいですが、詳細を御覧になってください。
〈ReMemory〉というシリーズ名と以下の解説は、私かかわっているけれども一昨年くらいから練ってきた制作部による文章ですが、なるほど、そういうことか、と、私も思いを新たにしています。実際の上演はちと違うものになってしまうかもしれません。悪しからず。
『九月、東京の路上で』 3/16(土)〜18(月)、21(木・祝)・22(金)、24(日)・25(月)、27(水)〜31(日)
── 2013年、男はヘイトスピーチの怒号が飛び交う路上にいた。生まれ育った新大久保に差別と排外主義が持ち込まれたことに怒りを覚えていた。ここは多様な人びとが住む開かれた場所だった。それに対する抗議活動を続ける中、1923年の関東大震災で、多くの外国人が殺害されたことを思い出す。ヘイトスピーチの怒号は、90年前に東京の路上に響いていた「殺せ」という叫びと共鳴していた。彼は仲間たちに呼びかけ、殺害や暴行があった東京の各地を訪ね写真を撮り、当時の証言や記録を元に、そこで起きたことを伝えるブログを開設した。これは過去の話ではなく、今に続く事実なのだ。「新大久保の路上から」「警察がデマを信じるとき」「流言は列車に乗って」「地方へと広がる悪夢」「間違えられた日本人」──。2013年秋に始まったブログだが、多くの反響を呼んだ。過去と現在の状況が重なりあっていく。
2018年の夏に初演した本作は、早い時期から反響を呼び、「媚びぬ演技 台詞力」「愛想はないが、引きずり込まれる」「歴史へのまなざしが深い」(山本健一氏 朝日新聞)、「90年以上前に起きた禍々しい歴史と、現代日本社会に蔓延する不穏な空気は地続きであるという警鐘を、演劇の手法で示した意欲作」(森重達裕氏 読売新聞)、「題材の歴史的・社会的重みはもとより、ノンフィクションと虚構の関係も考えさせられた」「千秋楽の下北沢ザ・スズナリの、それこそ鈴なりになった観客はラストに胸塞がれた」(東京新聞)、「直接に私たちの感性に訴えるこの手法は確かに効果的」(北野雅弘氏 赤旗)等、各紙・誌で好評を博しました。口コミも広がり、多くの方々がご覧になりました。
「ライブ」と「共感」という演劇的な特性によって、「誰が何をしたか」を見つめ直します。現在もなくなることのない差別・排外主義についても明らかにしつつ、あらためて「事実」を探る取り組みです。他方、自分自身が加害者になっていたかもしれないという自戒から芸名をつけた千田是也氏や、コミュニティで外国人を守った人々の姿など、実在の人たちの紹介も織り交ぜつつ、不可視の領域に閉じ込められがちな歴史上の真実に、様々な角度から迫ります。
< 加藤直樹(原作)> ノンフィクション作家。1967年生まれ。著書に『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(ころから 2014年)、『謀叛の児 宮崎滔天の「世界革命」』(河出書房新社 '17年)、共著に『NOヘイト! 出版の製造者責任を考える』(ころから '14年)など。翻訳に『沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート』(チェ・ギュソク著 ころから '16年)がある。
アフタートークを開催します
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3/16(土) 加藤直樹(ノンフィクション作家)
3/18(月) 林海象(映画監督)
3/21(木・祝) 堀潤(ジャーナリスト・キャスター)
3/25(月) 有田芳生(参議院議員・ジャーナリスト)
3/27(水) 中川五郎(フォーク歌手)
3/28(木) 古川健(劇団チョコレートケーキ座付き作家)
3/29(金) 金守珍(演出家・新宿梁山泊代表・映画監督)
3/30(土) 19時の部 林あまり(歌人・演劇評論家)
ReMemory『生きのこった森の石松』『あい子の東京日記』 3/19(火)、20(水)、23(土)、26(火)
間もなく終わると言われている「平成」。ますます「昭和」は遠い過去の「出来事」になってしまうのでしょうか。私たちは常に連続した歴史の上を生きているという意識のもと、新元号への移行等による歴史の不可視化に対して、二十世紀の文学や記録、歴史的な出来事や叙事詩的な言語を元にした作品群を展開することで、かつての社会、文化は何であったかを問い直す「ReMemory」シリーズを開始します。そして、現在形のものとして舞台空間において検証し、埋もれそうな、あるいは、失われそうな、さらにはそうなってしまった「事実」を「再記憶」します。
シリーズ第一弾であり、坂手洋二の構成・演出による本作では、現在への歴史を生きる「男」と「女」の私的なストーリーを通じて、自分がより自分らしく生きること、人と人との結びつきやコミュニティの大切さ、個人と社会との相克を、硬軟取り混ぜて描き出します。
『生きのこった森の石松』では、「清水の次郎長」の物語に登場するキャラクター「森の石松」が、現代の夜を巡るしがない屋台の主の姿を借りて再び登場します。誰が聞くのかわからぬままに、石松は身の上話を始めます。孤児であった彼は侠客の男に拾い育てられ、その後、次郎長の子分になりました。人を信じる性格で義理人情に厚く、酒飲みの荒くれだが憎めないお人好し。それは彼が孤児であったことに由来しており、目上の人や居場所となる土地の人たちを、自分の家族と思ってしまうかのような濃厚な関係性を求めていたと言えるでしょう。そこに、一人のあるいは架空の「特別な客」たちが現れ、「森の石松/(彼を演じる)鴨川てんし」と遭遇します。彼らは生きているのか、死んでいるのか──。今どき珍しい彼の一途さや情にもろさに、本音や隠し事をつい漏らしてしまう客たち。歴史上の人物や市井の人々との濃密な「対話」により、これまで表立っていなかった物語が思わぬ形で息を吹き返し、歴史の深層が掘り起こされます。さらに、「森の石松」の率直な生き方が、様々な形で制約を受ける私たちの不自由な生き方に、一石を投じます。
『あい子の東京日記』では、「中間小説」というジャンルを誕生させ人気を博した作家・中山あい子が登場します。亡くなって十年が過ぎ、その実娘である女優・中山マリ本人が、母の執筆していた机に座って、母を偲んでいました。シングルマザーとして自分を産み育ててくれた母について語る彼女。思い出と感謝に溢れたその語りは、いつしか彼女を見つめる慈愛に満ちた母自身の語りへと移ろいます。台所等の生活の場と机とのめまぐるしい往復、そして、忍苦の日常と輝かしい瞬間との拮抗、これらが劇的に行き交う様を、自らが母を演じることで体験し表現します。さらに、母の作品世界が彼女の言葉となって紡ぎ出され、その世界を再現します。自らの「中間小説」について中山あい子が、「でも、その中間って、なに?」と自身に問いかけ、自らに課した「日記」の中で、自己の意識を巡る旅に出ます。軽やかさとユーモアを持ちながら、女性が一人で生きること、社会で活躍することについての相克と心情が吐露され、女性であること、母であること、何より、一人の人間としていかに生きるかが、現代を生きる私たちの胸に迫ります。
アフタートーク開催します
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20日(水)終演後 佐藤愛子(小説家)・坂手洋二・中山マリ
23日(土)夜の部 終演後 中山マリ・鴨川てんし 他
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http://rinkogun.com