共産党の藤野保史政策委員長が、26日の与野党の政調会長らが出演したNHK番組で、防衛費を「人を殺すための予算」と発言し、同日夕になって「不適切であり、取り消す」とのコメントを発表した。共産党の志位和夫委員長は27日、「海外での戦争のための装備などを念頭に言ったが、そういう前提なしに発言した。私たちも、あの発言は不適切だと考える」「(藤野氏)本人がきちんと(発言を)取り消した。私からも注意し、これで解決したと思っている」と述べ、これ以上言及する必要はないとの考えを示した。
藤野政策委員長は28日夜、党本部で緊急の記者会見を行い、発言の責任を取って政策委員長の辞任を表明した。同氏は会見で「多くの方から厳しい批判をいただいた。わが党の方針と異なる誤った発言であり、結果として自衛隊の皆さんを傷つけるものとなった。深く反省し、国民の皆さんに心からおわび申し上げる」と述べた。
参院選のタイミングで、共産党にとっては不利な展開となった。
「被災地で救援にあたっている献身的な自衛隊員」に対して、「人を殺すことを仕事をしている人」と決めつけることに対し、「失礼だ」とする非難が多かったようだ。それは理解できる。
「防衛費」とされている予算の中には、災害救助等のための予算も入っている。藤野氏が「人を殺すため「だけ」の予算」という意味に聞こえても構わないと思っていたのなら間違っているし、そこに違和感があるのは当然である。「揶揄」としても適していない粗雑な物言いであったとことを、藤野氏は認めるべきである。
しかし、兵器は相手を殺傷するものである。それを購入し、配置し、整備するのである。「専守防衛」「日本の平和・独立・安全を守るため」という考えに基づいていようといまいと、防衛費に「人を殺す可能性も含めた作戦を実行可能にするための設備・事業」が含まれていることは、認めなければならない。
防衛予算は高額だ。たとえば、オスプレイ17機の購入予算はおよそ3600億円。これをやめて、3000億円台でも予算捻出が困難とされているいくつもの福祉事業に使うべきだと提言することじたいは、おかしなことではない。オスプレイ一機の購入費で八十箇所以上の保育園が作れるというのは、真実なのである。
自衛隊は、南スーダンPKO(国連平和維持活動)での任務を拡大することになった。政府は、自衛隊が国連PKOに参加する際には「PKO5原則」(停戦合意の成立、すべての紛争当事者の受け入れ同意、中立的立場、いずれかが満たされない場合は撤収など)に即して行う、「憲法9条で禁じた武力行使を行うことはない」としてきた。自衛隊が携わる可能性のある「安全確保業務」と「駆けつけ警護」は、「人を殺すことも含めた作戦を実行可能にするための設備・事業」に該当しないのである。
伊勢崎賢治氏(東京外語大教授)は、「停戦合意が破られてから住民保護という本来の任務が始まる。『それができないなら、初めから来るな』という世界になっていることに(政府は)全く気付いていない。PKO5原則や憲法9条との整合性は、PKOそのものの変質によって完全に破たんしている」と、現場の立場から指摘している。
陸上自衛隊は初めて公式エンブレムを採用し、ホームページなどで使い始めた。上段に日の丸を配し、これを日本刀で守る「こわもてのデザイン」である。
陸上自衛隊は、エンブレム作成の目的として、「近年、国際平和協力活動はもとより、能力構築支援、防衛協力、防衛交流等に積極的に取り組んでまいりましたが、今後は国家安全保障戦略(平成25年12月17日閣議決定)に示された「国際協調主義に基づく積極的平和主義」を具現するため、その活動の場はますます広がっていくものと考えております」「島しょ部に対する攻撃を始めとする各種事態に即応し、実効的かつ機動的に対処し得るよう陸上総隊、水陸機動団等の新編等、陸上自衛隊創隊以来の大改革を断行してまいります。このような大改革を効果的に成し遂げていくためには、日本の平和と独立を守るという強固な意志、陸上自衛官としての誇りとアイデンティティを今一度、各隊員まで再認識させるとともに、国民の方々にも陸上自衛隊の強さと今後の体制改革への取り組みについてご理解頂くことが重要であると考えております」。「他国の軍人等に日本及び陸上自衛隊の歴史・伝統・文化を感じて頂くとともに、国内外で活動している隊員等に日本の平和と独立を守るという強固な意志等を再認識させることを目的に」エンブレムを作成したのだという。
そして、「古来より武人の象徴とされてきた日本刀を中央に配置して、その「刃」に強靭さ、「鞘」に平和を愛する心を表現しました」という。
「刃」は、人を殺すための武器である。「鞘」はその「刃」を包むための日本刀の一部分であるにすぎない。「平和を愛する心を表現しました」というのは、いくら何でも無理筋である。
「奥に刃、手前に鞘、帯を配置することで、陸上自衛隊が「国土防衛の最後の砦」であること、そして、国家危急の時に初めて戦う意思を表現しました」というが、海外に出て行ってする事業が「国土防衛」「国家危急の時」に該当すると言われても、俄には信じがたい。
陸上自衛隊には、とくに自衛官隊員募集の時に使われる、人に見立てた日本列島を手のひらで包むシンボルマークと、キャッチコピー「守りたい人がいる陸上自衛隊」がある。
こちらも引き続き使われるそうだが、「人と国土を守るメッセージ」が込められていたはずのエンブレムから人が消え、日の丸に象徴される国家を守る印象を強めたということだ。
「手のひら」から「日本刀」へというのは、極端な変化だ。ソフトなイメージのマークに安心して応募し採用された新隊員は、入隊後に「本物のエンブレム」の意味を知ることになるのだろう。
個人的には、感想も出て来ないが、エンブレムの英語表記と「Since 1950」が、えらく気持ちが悪いという意見もある。
まあ、自衛隊関係者に良識があれば、このダメダメなエンブレムは撤回することになるのではないかと思うが。
昨年改定された日米防衛協力のための指針(ガイドライン)に基づき設置された「同盟調整メカニズム」では、自衛隊と米軍の制服組が、平時から有事まで運用調整に当たることになっている。防衛省内での影響力が高まったうえ、現場同士の軍事的に専門的な見地からのやりとりが頻繁になる。そのため、政治家や背広組は、制服組が決めたことを追認するだけになる可能性があるという。エンブレム作成に象徴される自衛隊の「積極性」に、不安を感じる人がいても、おかしくない。
かつて国連PKO幹部として東ティモールなど世界各地で武装解除などに携わった伊勢崎氏は、次のように証言している。
「インドネシアから独立した東ティモールの暫定知事を務めて、PKF(平和維持軍)を統括していたとき、反独立派の住民によってPKFの一員であるニュージーランド軍の兵士が殺されました。彼は首が掻き切られて耳がそぎ落とされた遺体で見つかりました。その時、僕らは復讐に駆られてしまった。僕は武器使用基準を緩めました。敵を目視したら警告なしで発砲していいと。法の裁きを受けさせるために犯人を拘束するという警察行動ではありません。敵のせん滅が目的です。現場はどんどん「復讐戦」の様相を呈してきました。結果、全軍、武装ヘリまで動員して追い詰めていったのです。民家などしらみつぶしにして、十数名の敵を皆殺しにした。全員射殺したので、そのなかに民間人がいたかどうかは分かりません。」
PKOに携わる自衛隊はそのような憲法違反の理不尽な攻撃命令を受けてもきっと、「わが国の憲法に反しますので従えません」「我々の活動は人を殺すための費用で成り立っていません」と、拒否してくれるだろう。
もちろんそれは、PKOの要員として通用する理屈ではないはずだが。
最近、「戦争とは、殺し、殺されることです」という言い方が、通りにくくなっているように思う。
「平和と安全と独立のため」という粉飾というか「条件付け」に惑わされて、「殺し、殺される」という現実にピントが合わなくなっているのではないか。
藤野政策委員長は28日夜、党本部で緊急の記者会見を行い、発言の責任を取って政策委員長の辞任を表明した。同氏は会見で「多くの方から厳しい批判をいただいた。わが党の方針と異なる誤った発言であり、結果として自衛隊の皆さんを傷つけるものとなった。深く反省し、国民の皆さんに心からおわび申し上げる」と述べた。
参院選のタイミングで、共産党にとっては不利な展開となった。
「被災地で救援にあたっている献身的な自衛隊員」に対して、「人を殺すことを仕事をしている人」と決めつけることに対し、「失礼だ」とする非難が多かったようだ。それは理解できる。
「防衛費」とされている予算の中には、災害救助等のための予算も入っている。藤野氏が「人を殺すため「だけ」の予算」という意味に聞こえても構わないと思っていたのなら間違っているし、そこに違和感があるのは当然である。「揶揄」としても適していない粗雑な物言いであったとことを、藤野氏は認めるべきである。
しかし、兵器は相手を殺傷するものである。それを購入し、配置し、整備するのである。「専守防衛」「日本の平和・独立・安全を守るため」という考えに基づいていようといまいと、防衛費に「人を殺す可能性も含めた作戦を実行可能にするための設備・事業」が含まれていることは、認めなければならない。
防衛予算は高額だ。たとえば、オスプレイ17機の購入予算はおよそ3600億円。これをやめて、3000億円台でも予算捻出が困難とされているいくつもの福祉事業に使うべきだと提言することじたいは、おかしなことではない。オスプレイ一機の購入費で八十箇所以上の保育園が作れるというのは、真実なのである。
自衛隊は、南スーダンPKO(国連平和維持活動)での任務を拡大することになった。政府は、自衛隊が国連PKOに参加する際には「PKO5原則」(停戦合意の成立、すべての紛争当事者の受け入れ同意、中立的立場、いずれかが満たされない場合は撤収など)に即して行う、「憲法9条で禁じた武力行使を行うことはない」としてきた。自衛隊が携わる可能性のある「安全確保業務」と「駆けつけ警護」は、「人を殺すことも含めた作戦を実行可能にするための設備・事業」に該当しないのである。
伊勢崎賢治氏(東京外語大教授)は、「停戦合意が破られてから住民保護という本来の任務が始まる。『それができないなら、初めから来るな』という世界になっていることに(政府は)全く気付いていない。PKO5原則や憲法9条との整合性は、PKOそのものの変質によって完全に破たんしている」と、現場の立場から指摘している。
陸上自衛隊は初めて公式エンブレムを採用し、ホームページなどで使い始めた。上段に日の丸を配し、これを日本刀で守る「こわもてのデザイン」である。
陸上自衛隊は、エンブレム作成の目的として、「近年、国際平和協力活動はもとより、能力構築支援、防衛協力、防衛交流等に積極的に取り組んでまいりましたが、今後は国家安全保障戦略(平成25年12月17日閣議決定)に示された「国際協調主義に基づく積極的平和主義」を具現するため、その活動の場はますます広がっていくものと考えております」「島しょ部に対する攻撃を始めとする各種事態に即応し、実効的かつ機動的に対処し得るよう陸上総隊、水陸機動団等の新編等、陸上自衛隊創隊以来の大改革を断行してまいります。このような大改革を効果的に成し遂げていくためには、日本の平和と独立を守るという強固な意志、陸上自衛官としての誇りとアイデンティティを今一度、各隊員まで再認識させるとともに、国民の方々にも陸上自衛隊の強さと今後の体制改革への取り組みについてご理解頂くことが重要であると考えております」。「他国の軍人等に日本及び陸上自衛隊の歴史・伝統・文化を感じて頂くとともに、国内外で活動している隊員等に日本の平和と独立を守るという強固な意志等を再認識させることを目的に」エンブレムを作成したのだという。
そして、「古来より武人の象徴とされてきた日本刀を中央に配置して、その「刃」に強靭さ、「鞘」に平和を愛する心を表現しました」という。
「刃」は、人を殺すための武器である。「鞘」はその「刃」を包むための日本刀の一部分であるにすぎない。「平和を愛する心を表現しました」というのは、いくら何でも無理筋である。
「奥に刃、手前に鞘、帯を配置することで、陸上自衛隊が「国土防衛の最後の砦」であること、そして、国家危急の時に初めて戦う意思を表現しました」というが、海外に出て行ってする事業が「国土防衛」「国家危急の時」に該当すると言われても、俄には信じがたい。
陸上自衛隊には、とくに自衛官隊員募集の時に使われる、人に見立てた日本列島を手のひらで包むシンボルマークと、キャッチコピー「守りたい人がいる陸上自衛隊」がある。
こちらも引き続き使われるそうだが、「人と国土を守るメッセージ」が込められていたはずのエンブレムから人が消え、日の丸に象徴される国家を守る印象を強めたということだ。
「手のひら」から「日本刀」へというのは、極端な変化だ。ソフトなイメージのマークに安心して応募し採用された新隊員は、入隊後に「本物のエンブレム」の意味を知ることになるのだろう。
個人的には、感想も出て来ないが、エンブレムの英語表記と「Since 1950」が、えらく気持ちが悪いという意見もある。
まあ、自衛隊関係者に良識があれば、このダメダメなエンブレムは撤回することになるのではないかと思うが。
昨年改定された日米防衛協力のための指針(ガイドライン)に基づき設置された「同盟調整メカニズム」では、自衛隊と米軍の制服組が、平時から有事まで運用調整に当たることになっている。防衛省内での影響力が高まったうえ、現場同士の軍事的に専門的な見地からのやりとりが頻繁になる。そのため、政治家や背広組は、制服組が決めたことを追認するだけになる可能性があるという。エンブレム作成に象徴される自衛隊の「積極性」に、不安を感じる人がいても、おかしくない。
かつて国連PKO幹部として東ティモールなど世界各地で武装解除などに携わった伊勢崎氏は、次のように証言している。
「インドネシアから独立した東ティモールの暫定知事を務めて、PKF(平和維持軍)を統括していたとき、反独立派の住民によってPKFの一員であるニュージーランド軍の兵士が殺されました。彼は首が掻き切られて耳がそぎ落とされた遺体で見つかりました。その時、僕らは復讐に駆られてしまった。僕は武器使用基準を緩めました。敵を目視したら警告なしで発砲していいと。法の裁きを受けさせるために犯人を拘束するという警察行動ではありません。敵のせん滅が目的です。現場はどんどん「復讐戦」の様相を呈してきました。結果、全軍、武装ヘリまで動員して追い詰めていったのです。民家などしらみつぶしにして、十数名の敵を皆殺しにした。全員射殺したので、そのなかに民間人がいたかどうかは分かりません。」
PKOに携わる自衛隊はそのような憲法違反の理不尽な攻撃命令を受けてもきっと、「わが国の憲法に反しますので従えません」「我々の活動は人を殺すための費用で成り立っていません」と、拒否してくれるだろう。
もちろんそれは、PKOの要員として通用する理屈ではないはずだが。
最近、「戦争とは、殺し、殺されることです」という言い方が、通りにくくなっているように思う。
「平和と安全と独立のため」という粉飾というか「条件付け」に惑わされて、「殺し、殺される」という現実にピントが合わなくなっているのではないか。