『カウラの班長会議 side A』。かなり強行軍の国内ツアーを終え、帰京したら出発前日。梅ヶ丘は劇団員で計量、荷物造り。字幕画像処理担当の二人がさらにたいへんである。いろいろ打ち合わせ。これでもいつもの海外アーよりはすることが少ない。しばらくは日本にいないからといって和食を食べておこうなどという行いはふだんしないのだが、魔が差して美登里寿司本店に一人で入るという挙に出る。久しぶり。やはり本店は良い。リーズナブル。残念ながら「びっくり鰻」なるメニューは売り切れでおあずけだが、前週に焼津で十年和菓子屋を営んできた義妹夫婦が毎年送ってくれる鰻を頂いたので、いいのだ。帰宅、個人の荷造りはすぐ済むし、重量は見当を付けた通りの数字が出る。それでもすることが多く、原稿書きも劇作家協会の精算計算も字幕の直しも抱えており、なんだかんだ徹夜の後、早朝、吉祥寺で成田エクスプレスに乗る。今回は時間がどんぴしゃり、午前中一便だけのこの吉祥寺から乗るコースがありがたい。田舎者の私はさわざわした新宿駅は苦手だ。
成田空港でのカルネや荷捌きもこれまでで最高に簡単に終わる。マレーシア航空は満席。やることが多すぎて機内で映画を観たりもまったくしない。クアラルンプールでトランジット。以前マレーシアはジョー・クカサスのスタジオでワークショップをしたときの残りのマレーシア通貨を持っていたので、以前にトムヤム麺を食べたことのあるヌードルハウスで劇団若手とカレー麺を食べる。シドニー着後即バスで四時間半、カウラへ。途中のトイレ休憩がなぜかシドニー近郊観光のメッカ・ブルーマウンテン、ユーカリの森の油分の蒸発で、青く煙っている。ツアー一行はほんの五分だけその景観に触れる。
カウラに着いた。
動物園でもないのに車中からじつに様々な動物を見てきた道中だったが、カウラに着いた直後には、カンガルーも跳ねていた。あと、一行の殆どが、ヒツジの赤ん坊のかわいらしさに悩殺されてしまった。
劇場(Civic Center)に挨拶に向かった後、日本人捕虜たちのいた収容所の跡地、そして墓地に赴く。私は二度目だ。
思い思いに過ごす一行。跡地がこんなに傾斜のある丘だったとは、なんとなく実感として記憶していたよりも傾いている。日本兵役の俳優たちは、その中央路(ブロードウェイ)があったと想定される所を歩いてみたりしている。
墓地には日本兵たちの墓標に命日の日付け「5.8.1944」が刻まれている。二百を越える同日日付けの墓標。南忠男の名もある。その隣にエリアにラルフ、ベンも含んだ同日亡くなったオーストラリア兵士の墓碑も。
夕陽が美しすぎて非現実感さえある墓地だった。
「カウラ・ブレイクアウト」の記憶に覆われた地。
もう十七年か十八年前になると思うが、シンガポールでクォ・パオクンさんが案内してくれた、彼の代表作『スピリッツ・プレイ』の舞台になった日本兵たちの墓地に行ったときにも感じた、異国で日本兵たちが丁重に葬られている場の、空気。
夕食は、毎年カウラに留学する日本の高校生たちがみんな驚くというグレービーソースのラムステーキを、ここならあいているよと教えてもらったカウラサービスセンター二階の食堂で食べる。と、わざわざ記すのは、カウラで夕食時にオープンしている店が極端に少ないからだ。というか、ほぼ真っ暗。『カウラの班長会議』の中で、「カウラには何もない」という台詞を書いてしまった罰であろうか。日本の地方都市の日曜日の夜よりももっと店が開いていない!
翌日は仕込み。なのだが、こちらで発注したものが届かなかったりで、ホームセンターに小道具装飾等のための追加の買い出しに行く。オーストラリアにはどうやらホームセンター(ウエアハウス)が多く、国民総大工さんという感じなのだろうか。地元の大工フランクさんの協力もあって、樹木持ち込み禁止というオーストラリアの国情のため持ってこられなかった捕虜たちの手製バットも、原材料を仕入れて一緒に作ってもらうことになる。
この国は輸入物のお酒の値段が高い。ウオッカやウイスキーなど日本の二倍、下手すると三倍以上する。自国のワインを買え、ということなのだと思う。それも愛国心。
酒場に繰り出すこともなく過ごす。というのは、仕事を終えた後、どこにも酒場が見あたらないのだ。
というわけでまた明けて今朝。
劇場にはいり、遅れて届くはずの道具類を待っている。
劇場で働くマークさんの曾祖父は脱走事件の際に片脚を失ったという。
歴史と現在の交錯の只中にいる。
写真は、ジェーンがこっそり撮影していた、捕虜収容所跡地での、リュックを背負った私。
『カウラの班長会議 side A』オーストラリア・ツアーのチラシは以下で見られます。
http://rinkogun.com/index_files/cowra%20flyer.pdf
成田空港でのカルネや荷捌きもこれまでで最高に簡単に終わる。マレーシア航空は満席。やることが多すぎて機内で映画を観たりもまったくしない。クアラルンプールでトランジット。以前マレーシアはジョー・クカサスのスタジオでワークショップをしたときの残りのマレーシア通貨を持っていたので、以前にトムヤム麺を食べたことのあるヌードルハウスで劇団若手とカレー麺を食べる。シドニー着後即バスで四時間半、カウラへ。途中のトイレ休憩がなぜかシドニー近郊観光のメッカ・ブルーマウンテン、ユーカリの森の油分の蒸発で、青く煙っている。ツアー一行はほんの五分だけその景観に触れる。
カウラに着いた。
動物園でもないのに車中からじつに様々な動物を見てきた道中だったが、カウラに着いた直後には、カンガルーも跳ねていた。あと、一行の殆どが、ヒツジの赤ん坊のかわいらしさに悩殺されてしまった。
劇場(Civic Center)に挨拶に向かった後、日本人捕虜たちのいた収容所の跡地、そして墓地に赴く。私は二度目だ。
思い思いに過ごす一行。跡地がこんなに傾斜のある丘だったとは、なんとなく実感として記憶していたよりも傾いている。日本兵役の俳優たちは、その中央路(ブロードウェイ)があったと想定される所を歩いてみたりしている。
墓地には日本兵たちの墓標に命日の日付け「5.8.1944」が刻まれている。二百を越える同日日付けの墓標。南忠男の名もある。その隣にエリアにラルフ、ベンも含んだ同日亡くなったオーストラリア兵士の墓碑も。
夕陽が美しすぎて非現実感さえある墓地だった。
「カウラ・ブレイクアウト」の記憶に覆われた地。
もう十七年か十八年前になると思うが、シンガポールでクォ・パオクンさんが案内してくれた、彼の代表作『スピリッツ・プレイ』の舞台になった日本兵たちの墓地に行ったときにも感じた、異国で日本兵たちが丁重に葬られている場の、空気。
夕食は、毎年カウラに留学する日本の高校生たちがみんな驚くというグレービーソースのラムステーキを、ここならあいているよと教えてもらったカウラサービスセンター二階の食堂で食べる。と、わざわざ記すのは、カウラで夕食時にオープンしている店が極端に少ないからだ。というか、ほぼ真っ暗。『カウラの班長会議』の中で、「カウラには何もない」という台詞を書いてしまった罰であろうか。日本の地方都市の日曜日の夜よりももっと店が開いていない!
翌日は仕込み。なのだが、こちらで発注したものが届かなかったりで、ホームセンターに小道具装飾等のための追加の買い出しに行く。オーストラリアにはどうやらホームセンター(ウエアハウス)が多く、国民総大工さんという感じなのだろうか。地元の大工フランクさんの協力もあって、樹木持ち込み禁止というオーストラリアの国情のため持ってこられなかった捕虜たちの手製バットも、原材料を仕入れて一緒に作ってもらうことになる。
この国は輸入物のお酒の値段が高い。ウオッカやウイスキーなど日本の二倍、下手すると三倍以上する。自国のワインを買え、ということなのだと思う。それも愛国心。
酒場に繰り出すこともなく過ごす。というのは、仕事を終えた後、どこにも酒場が見あたらないのだ。
というわけでまた明けて今朝。
劇場にはいり、遅れて届くはずの道具類を待っている。
劇場で働くマークさんの曾祖父は脱走事件の際に片脚を失ったという。
歴史と現在の交錯の只中にいる。
写真は、ジェーンがこっそり撮影していた、捕虜収容所跡地での、リュックを背負った私。
『カウラの班長会議 side A』オーストラリア・ツアーのチラシは以下で見られます。
http://rinkogun.com/index_files/cowra%20flyer.pdf