田村光男さん旅立ちの会『魂呼ばり』というイベントがあった。3月27日(金)。18時から翌朝まで。
昨年11月21日旅立たれた、ステーションの代表取締役・田村光男氏の活躍は、演劇よりも音楽・舞踊のほうにひろがっていたが、私もかれこれ二十数年前からお世話になっていた。田中泯さんをヨーロッパに紹介したのは彼だ。燐光群は1990年代に『神々の国の首都』をヨーロッパに展開していただいた。
ご葬儀は、近親の方々のみで執り行われたが、彼のプロジェクトに深くかかわってきた人たちがライブハウスでお別れの会を催した。
私はベトナム行きの日程と予定が重なっていた不良発起人であったが、ベトナム行きの予定が動いて、帰国した日に自分の本番を終えた後、もはや丸ノ内線終電がなくなり、新宿からタクシーを飛ばして駆けつけた。
さすがにもう終わっていると思ったら、鬼太鼓座の人達のハードな太鼓の連打に圧倒された。それがフィナーレだったようだ。
夜明けまでいろいろな話に花が咲いた。
事務局長の任を担われたのが、横道文司さん。巻上公一さんも、まだいた。梅津和時さんとも話した。このためにニューヨークから来てくれた中馬芳子さん、相棒のボニーとも久しぶりの再会。
思い出は走馬燈のようだ。深夜のスピーチで喋ったことをいまここで記すのにちょっと違和感があり、今日の稿は閉じる。
ただ一つ確かなのは、田村さんが亡くなったという気がまったくしないということだ。
詩人の渡辺洋さんの訃報にも打ちのめされた。『宇宙みそ汁』のアフタートークに来てくださったのは三年前。直截な言葉を怖がらずに使う勇気のある詩人だった。
人をおくるということ。
私はまだここにいるけれど、繋がっている。
昨年11月21日旅立たれた、ステーションの代表取締役・田村光男氏の活躍は、演劇よりも音楽・舞踊のほうにひろがっていたが、私もかれこれ二十数年前からお世話になっていた。田中泯さんをヨーロッパに紹介したのは彼だ。燐光群は1990年代に『神々の国の首都』をヨーロッパに展開していただいた。
ご葬儀は、近親の方々のみで執り行われたが、彼のプロジェクトに深くかかわってきた人たちがライブハウスでお別れの会を催した。
私はベトナム行きの日程と予定が重なっていた不良発起人であったが、ベトナム行きの予定が動いて、帰国した日に自分の本番を終えた後、もはや丸ノ内線終電がなくなり、新宿からタクシーを飛ばして駆けつけた。
さすがにもう終わっていると思ったら、鬼太鼓座の人達のハードな太鼓の連打に圧倒された。それがフィナーレだったようだ。
夜明けまでいろいろな話に花が咲いた。
事務局長の任を担われたのが、横道文司さん。巻上公一さんも、まだいた。梅津和時さんとも話した。このためにニューヨークから来てくれた中馬芳子さん、相棒のボニーとも久しぶりの再会。
思い出は走馬燈のようだ。深夜のスピーチで喋ったことをいまここで記すのにちょっと違和感があり、今日の稿は閉じる。
ただ一つ確かなのは、田村さんが亡くなったという気がまったくしないということだ。
詩人の渡辺洋さんの訃報にも打ちのめされた。『宇宙みそ汁』のアフタートークに来てくださったのは三年前。直截な言葉を怖がらずに使う勇気のある詩人だった。
人をおくるということ。
私はまだここにいるけれど、繋がっている。