留学経験も豊富で翻訳の仕事も多くこなしている若き国際派・谷賢一君は三十二歳という。私は初めての海外が三十一歳、アメリカに行ったのが三十五歳だ。
その谷君が自分の劇団(DULL-COLORED POP)で翻訳・演出する『プルーフ/証明』を観にいった。もう三演めなのだという。
次女キャサリンを演ずる百花亜希さんが田窪桜子さんの応援を得て自己プロデュースした劇団番外公演という。9年前に『セパレート・テーブルズ』でお世話になった青年座の大家仁志さんが父親役で客演。
私は十三~四年くらい前になるアメリカの初演を観ている。
鵜山仁演出、寺島しのぶ出演の日本版の初演も観ている。
シカゴを舞台にした天才数学者父娘の話である。
1幕の最後の決めぜりふがいかにも英米演劇の王道。ネタばれになるから言わないけどね。
ただ、数学とか、定理とか、証明とか、そういったことの具体性は劇の中ではまったく言及されない。
それが不満というか、この戯曲の、限界というか、選択だと理解している。
「数学とか、定理とか、証明とか」が、「ある種の宗教的な奥義」であっても成り立つような仕組みになっている。
つまり、「天才にはわかる」「天才ならできる」という理屈に回収されてしまう部分がある。
これは本当に戯曲の問題であるから、仕方がない。
この戯曲については最近も書いたので、もうこれ以上は言わない。
しかし、この劇が「愛」の話であるとしたら、「愛」というものを結果的に「特別扱い」し、同時に「普遍」であるとしていることになる。これはなかなか厳しい矛盾なのだ。つまり、それはとことん数学的ではない、そこの矛盾をこそ描きたいのであろう。
そしてこんな戯曲についての感想があらためて湧いてくるのも、この上演がとても誠実に作られているからである。
ただ、「数学とか、定理とか、証明とか」の「具体」を、どのように俳優の中に内在化させうるか。そうした課題はどの現場もが抱えるものだ。ここはなかなか「嘘」をつきにくい領域なのだ。
うちの『ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド』もそうだけど、劇団の柔軟さのよい部分がでている。劇団プロデュースだけあって、舞台監督の大原研二、美術の中村梨那も、劇団員。家族的でとてもいい。田窪さん、谷君含めてみんな劇作家大会に来てくれる。
最近は翻訳物の劇を他にも観た。
映画化もされた『マグノリアの花たち』。これは正直、翻訳が古くさい感じがした。コンセプト的にも、リアルな現代アメリカを描くのでなく、日本の「三丁目の夕日」のような庶民生活を描こうとしたもののように見えてしまう。
プロダクションは好感が持てるし、俳優たちは真剣だし、実在感のある俳優もいる。真剣に演じようとしているのだが、「アメリカ」が感じられないのである。
アメリカというのは「でっかい田舎」である。そこにある地方都市のたたずまいというのは、狭い日本列島からは計り知れないものではある。
リチャード・ビーン作『ビッグ・フェラー』の舞台は地方都市ではなくニューヨークだ。1972年から2001年までの約30年間にわたる、在ニュヨークのIRAメンバーたちの姿を描く。
内野聖陽演ずるそのリーダー格の中に「報復は新たな報復しか生み出さない」という、テロに対する批判精神が芽生えてくるという物語だが、面白いデイティールは散見されるものの、彼の家庭が崩壊したこと以上に、彼の主義が変わっていく説得力のある理由が、見えてこない。
最終場、浦井健治演ずる消防士が最後に「9.11」の犠牲になることをほのめかして終わるのだが、私の理屈ではそれをIRAも含めた「テロの連鎖」のように受け取るわけにはいかないし、劇の構造として、無理がある。
かつて「原爆投下の1日前」を描いた井上光晴氏の『Tomorrow/明日』の時にも論争になったのだが、劇の中で明瞭に出来事としてして示されない「歴史的事件」を観客に想像させる物語の運びというか手口は、確かに、それを「物語」としてまとめることに異論がある観客にとっては、違和感を呼ぶ。
少なくとも、アメリカや西欧キリスト教社会が「9.11」をどう考えているか、ということに考えが及んで、そこへの評価が入ってくると、その認識が芝居の中身へのものとずれてしまうのは確かだ。
内野聖陽演ずる青年を主人公にした『みみず』を文学座に書き下ろしてからもう十六年くらい経っている。内野君は当時まだぎりぎり二十代だったはずであるが、『ビッグ・フェラー』では六十代までを演じている。そりゃそれなりに時間が経つわけだから不思議ではないのだが。
力作といえる上演だし、俳優たちは皆、堂々と「俳優」らしく演じていて、集中して稽古したことが偲ばれる。そのことの是非はともかく、外国人を演ずることの新劇の歴史の連鎖も感じる。成河が儲け役で弾けている。
翻訳劇を観ていて思うことは、ああ、たまには外国に行きたい、ということだ。できれば自分の芝居のツアーでなく、個人的に、である。
その谷君が自分の劇団(DULL-COLORED POP)で翻訳・演出する『プルーフ/証明』を観にいった。もう三演めなのだという。
次女キャサリンを演ずる百花亜希さんが田窪桜子さんの応援を得て自己プロデュースした劇団番外公演という。9年前に『セパレート・テーブルズ』でお世話になった青年座の大家仁志さんが父親役で客演。
私は十三~四年くらい前になるアメリカの初演を観ている。
鵜山仁演出、寺島しのぶ出演の日本版の初演も観ている。
シカゴを舞台にした天才数学者父娘の話である。
1幕の最後の決めぜりふがいかにも英米演劇の王道。ネタばれになるから言わないけどね。
ただ、数学とか、定理とか、証明とか、そういったことの具体性は劇の中ではまったく言及されない。
それが不満というか、この戯曲の、限界というか、選択だと理解している。
「数学とか、定理とか、証明とか」が、「ある種の宗教的な奥義」であっても成り立つような仕組みになっている。
つまり、「天才にはわかる」「天才ならできる」という理屈に回収されてしまう部分がある。
これは本当に戯曲の問題であるから、仕方がない。
この戯曲については最近も書いたので、もうこれ以上は言わない。
しかし、この劇が「愛」の話であるとしたら、「愛」というものを結果的に「特別扱い」し、同時に「普遍」であるとしていることになる。これはなかなか厳しい矛盾なのだ。つまり、それはとことん数学的ではない、そこの矛盾をこそ描きたいのであろう。
そしてこんな戯曲についての感想があらためて湧いてくるのも、この上演がとても誠実に作られているからである。
ただ、「数学とか、定理とか、証明とか」の「具体」を、どのように俳優の中に内在化させうるか。そうした課題はどの現場もが抱えるものだ。ここはなかなか「嘘」をつきにくい領域なのだ。
うちの『ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド』もそうだけど、劇団の柔軟さのよい部分がでている。劇団プロデュースだけあって、舞台監督の大原研二、美術の中村梨那も、劇団員。家族的でとてもいい。田窪さん、谷君含めてみんな劇作家大会に来てくれる。
最近は翻訳物の劇を他にも観た。
映画化もされた『マグノリアの花たち』。これは正直、翻訳が古くさい感じがした。コンセプト的にも、リアルな現代アメリカを描くのでなく、日本の「三丁目の夕日」のような庶民生活を描こうとしたもののように見えてしまう。
プロダクションは好感が持てるし、俳優たちは真剣だし、実在感のある俳優もいる。真剣に演じようとしているのだが、「アメリカ」が感じられないのである。
アメリカというのは「でっかい田舎」である。そこにある地方都市のたたずまいというのは、狭い日本列島からは計り知れないものではある。
リチャード・ビーン作『ビッグ・フェラー』の舞台は地方都市ではなくニューヨークだ。1972年から2001年までの約30年間にわたる、在ニュヨークのIRAメンバーたちの姿を描く。
内野聖陽演ずるそのリーダー格の中に「報復は新たな報復しか生み出さない」という、テロに対する批判精神が芽生えてくるという物語だが、面白いデイティールは散見されるものの、彼の家庭が崩壊したこと以上に、彼の主義が変わっていく説得力のある理由が、見えてこない。
最終場、浦井健治演ずる消防士が最後に「9.11」の犠牲になることをほのめかして終わるのだが、私の理屈ではそれをIRAも含めた「テロの連鎖」のように受け取るわけにはいかないし、劇の構造として、無理がある。
かつて「原爆投下の1日前」を描いた井上光晴氏の『Tomorrow/明日』の時にも論争になったのだが、劇の中で明瞭に出来事としてして示されない「歴史的事件」を観客に想像させる物語の運びというか手口は、確かに、それを「物語」としてまとめることに異論がある観客にとっては、違和感を呼ぶ。
少なくとも、アメリカや西欧キリスト教社会が「9.11」をどう考えているか、ということに考えが及んで、そこへの評価が入ってくると、その認識が芝居の中身へのものとずれてしまうのは確かだ。
内野聖陽演ずる青年を主人公にした『みみず』を文学座に書き下ろしてからもう十六年くらい経っている。内野君は当時まだぎりぎり二十代だったはずであるが、『ビッグ・フェラー』では六十代までを演じている。そりゃそれなりに時間が経つわけだから不思議ではないのだが。
力作といえる上演だし、俳優たちは皆、堂々と「俳優」らしく演じていて、集中して稽古したことが偲ばれる。そのことの是非はともかく、外国人を演ずることの新劇の歴史の連鎖も感じる。成河が儲け役で弾けている。
翻訳劇を観ていて思うことは、ああ、たまには外国に行きたい、ということだ。できれば自分の芝居のツアーでなく、個人的に、である。