『わが友、第五福竜丸』には、俊鶻丸に持ち込まれた岡野真治博士作成のシンチレーション・カウンターが登場する。操作できるのも岡野博士だけだったという。
写真 左より、円城寺あや、瓜生田凌矢、徳永達哉、川中健次郎、猪熊恒和。(撮影・姫田蘭)
シンチレーション・カウンターの赤いネオンランプが一カウント毎にポツポツと点滅。放射能が強まると点滅の間隔が早くなる。
俊鶻丸調査が始まってビキニ環礁に近づいていった半月後の五月三十日。海水から百五十カウントが検出された。プランクトンも一グラムあたり数千から一万。まだビキニは遠いのに、水爆実験で放出された放射能が攪拌されていないことがわかる。船に飛び込んできたトビウオからも放射能を検出。
やがて、爆心地までまだ八〇〇キロの地点で、それまでゼロカウントだったレベルが突然四五〇に跳ね上がった。
乗員の研究者たちの中には「やったー。よし、これで来た甲斐があった」と涙する者もいたという。危険を感じながらも、このプロジェクトに参加できた喜びの涙だったという。
俊鶻丸がその後の海洋学者の憧れの対象になっていてもおかしくなかったのにと思う。
六月十二日。爆心地まで一八〇キロ。ビキニ環礁に最も近づいた午前三時過ぎ。危険を察知して退避。シンチレーション・カウンターは夜九時には一〇三二まで上がり、推定海水放射能は七千を突破。位置と深さを変えて検査したところ、ビキニ環礁から流れ出した放射能は、深さ百メートル、幅は十キロから百キロのベルト状になって、大部分がゆっくりと西へ流れていた。海水は海流ごとの密度の違いで、簡単には混じり合わないことがわかった。
一分間五千カウントを越え、極度な緊張がピークに。その後、八十マイル進んで、ぐんぐん降下。ビキニの放射能灰は北赤道海流に沿って幅八十マイルで西へと流れていた。固まって運ばれている状態だった。この赤道海流がフィリピン群島にぶつかり北上、本州の九州方面から日本海側は対馬暖流、太平洋側は黒潮に乗って、その先の北海道でぶつかり、日本列島を包み込む。これほどの規模で、かなり遠くまで、帯状になって拡がって存在していたとは驚きだった。さらに水深を変えて調べた結果、濃度にばらつきがあり、必ずしも表面が高いわけではなく水深百メートルのところが一番高い値を出すこともあった。水がたくさんあるからすぐに薄められてしまうという考え方は間違いである。海洋では水平の方向にも密度の違う異質の水が互いにモザイクのように並んでいる。その境目は不連続面で仕切られていて、水は交換できない。そのモザイクの中を海流がまるで大河の水のように流れているところもある。海洋では水は、水平方向にも簡単には混じり合わないのである。上下でも密度の違う水のモザイクが存在する。そのため水平方向にも上下方向にも簡単に混じり合わない。
この検査の結果からして、原発の放出した汚染水も海で薄まらず動き続けるはずだと、想像される。
六月二十一日。深度七五メートルで最高七〇八〇カウント。キハダ内臓から八五五〇カウント。白血球検査を定期的に実施。
七月四日、二ヶ月に及ぶ調査を終え、帰港。
海の汚染は簡単には薄まらず、放射性物質が海水や海の生物に大きな影響を与え食物連鎖でマグロの体内にも蓄積されることが明らかになった。様々な場所と深さで調べたことに意義がある。海洋汚染をどう計るかを、俊鶻丸が世界に知らしめた。水爆実験をやる国には、この結果を知るべきだ。
ところが調査は続けられなかった。第一回俊鶻丸の後の放射線調査のほとんどは、原子力平和利用のための環境モニタリングでしかない。事故が起きた時に何を測定するかという備えもなかった。平和利用のバラ色の夢を推進し、低線量被曝の影響を第五福竜丸乗組員の急性障害だけに矮小化し、世間から忘れさせた。一九六六年、日本初の商業用原発・東海発電所、運転開始。続いて七〇年代のオイル・ショックでエネルギー安定供給への危機感を煽られ、官民一体となって原発導入を推進することになる。
俊鶻丸「顧問団」の中心的な存在だった気象研究所・三宅泰雄氏の悲願は、大きな原発事故にも対応できる環境放射能の横断的な研究体制を作ることだった。それが実現せぬまま、福島第一原発事故により、再び海が汚染された。
ビキニもフクシマも、政府が情報を隠し、ウソを言う。問題がないなら大平洋の汚染を確かめ報告すればいい。三陸沖は世界三大漁場の一つ。福島原発沖は親潮と黒潮がぶつかる。プランクトンに始まる食物連鎖が生態系に影響する。
気象研究所主任研究官・青山道夫氏は指摘する。
九〇年代後半まで、半減期十五年で減少していたセシウム137の表面海水濃度が、その後十年ほとんど減少していない。大気から何も降り注いでいない状況で数字が変わらないということは、南の亜熱帯域の高濃度の海水が入ってきているからだ。中部北太平洋で別々な層がぶつかり合い片方が沈み、南向きに輸送された一部が、ぐるっと回って再び日本周辺に輸送されてきた。つまり循環しているのだ。二〇〇二年には、太平洋全体を六つのコースでさいの目に区切り、船を移動させ、あるいはサンプルを集め、様々な深さで、半世紀以上前の放射性セシウムの行方と濃度を測定しました。その結果、断面図で見るとわかるけど、北緯二四度、台湾あたりで、図に描けば二つの赤い目玉みたいな濃度の高い部分が、深さ五百メートル付近にある。他の断面もつなぎ合わせると、太平洋にドーナツ状に繋がっているとわかる。これはもともと知られていた太平洋の循環と一致する。一周にかかる時間はおよそ三十年、場所によって深さを変えて流れている。日本付近では、表面近くを流れ、その後、さらに沖合いでは水深六百メートルまで沈み込んでいる。
震災後も、海の放射能汚染がどう拡がったか、明らかにしたい青山氏は、そのためには太平洋で広く海水を集める必要があり、日本各地の研究機関、さらには太平洋を航行する商船などに、海水表面のサンプリングを呼びかけた。
気象研究所を引き継いだ青山氏は原発事故の前から太平洋全体の放射性物質の動きに関する重要な事実を発見していた。
震災翌年の六月、青山氏は東経一六五度に沿って、海洋内部のセシウム137を測定した。するとやはり水深三百メートル付近に周囲より濃度の高いところが見つかった。震災から一年余りでセシウム137が海の中に沈み込んでいたことが明らかになったのだ。
この調査が実現できたのは、奇しくも青山氏が二〇一一年から事業を始める予定だったからである。ビキニ事件以降の追跡調査の継続あってこそである。
表面だけ見ていてはダメでちゃんと海洋の内部にどこにどのように分布しているかを知っておかないと、これからどうなるかわからないということだ。
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そうした私なりの理解が、『わが友、第五福竜丸』には、取り入れられている。
「俊鶻丸」の史実を現在に届けたNHKディレクター・奥秋聡さん登壇のアフタートークは、本日開催です!
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燐光群『わが友、第五福竜丸』座高円寺公演、
11月22日(水)14時の回のアフタートーク・ゲストは、
NHKディレクターの、奥秋聡さん。
2013年ETV特集「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸~」には、たいへんな刺激を受けました。
「俊鶻丸」の存在に出会えたのは、奥秋さんの御陰です。
そして、今回の創作にあたっては、刺激的なお話を、たくさん聴かせていただきました。
アフタートークでお話しできることが、たいへん楽しみです。
奥秋 聡(おくあき さとる):プロフィール
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NHKディレクター。
1974年神奈川県生まれ。1999年NHK入局。