映画 『オッペンハイマー』 。
かねてからこの映画について気にしていた知己の方が、初日に観るというので、私も別口で、なんとか初日に観る。
朝8時台から映画を観るなんて、ずいぶん久しぶりなことだ。
で、その夜、『オッペンハイマー』について語りあう会が、Zoomで行われた。その方が招集した日米在住の研究者・アーティスト・ジャーナリストら7名が、参加。長く話した。
この映画が、核兵器の存在や放射能による被害という問題にとって、どのような位置づけになり、どのような影響をもたらすか、ということが、どうしても、焦点になる。
この映画の登場は今後の平和活動にとってマイナスになるか否か、という意味では、巷では、少しでも核兵器への関心が高まること自体を期待するという声もあるわけだが、それは確かに、そう考えてゆくしかない。この会でも、できてしまった以上は、この映画を「活用」してゆくべきだ、という言い方も、あった。
オッペンハイマーが戦後、じっさいの日本での被曝被災状況の映像(おそらく新日本映画社が撮ったのをGHQが没収したフィルム)を見ているらしいシーンがあるけれども、その日本での映像は画面には出て来ない。それは作り手の創作上の選択である。私の個人的意見としては、この映画の中で、じっさいの被曝の映像がなければならないとは、思わない。ただ、「表現しない」ことと「隠す」ことの表裏の関係について、観たそれぞれの人に感想があることも、当然だろう。
この映画の場合、やはり、「隠す」という言葉がキーワードになってしまう部分は、ある。「何を描くかを選択する」中で、「描かなかった」だけのようでも、結果として「隠す」ということになるという現象は、起きてしまう。
もちろん受け取り方次第ではある。この映画を、「被爆者やガザが隠され、ユダヤ人が復権しているという、現在の構図にあてはめて理解した」という人だって、いるのだ。
多くの観客は、主人公に感情移入し、同化する。映画はそれを誘導する。
主人公一人の責任でない、という考え方も、映画の中で既に語られている。主人公の内面の問題は、そのこと自体として描かれている。一方、二つの原爆で二十万人以上の方々が亡くなったことも、事実である。一本の映画の中でその二つのことが対比されるとき、結果としてどのような操作が行われたことになるのか。
今はまず一つ、この映画では、「核兵器」が、「放射能による被害」の内容よりも、ただ「威力」の大きさで語られるという仕組みがある、ということを、指摘したい。
それは日本製の最新版『ゴジラ』然り、である。
そして、私自身がこの映画を観て、ああ、そうきたか、と思ったことは、原爆を創造し実験する前に、オッペンハイマーが感じていた、いちばんの不安の内容である。
原爆が爆発したとき、核分裂が大気内で連鎖的に起きてしまい、それが地球を覆い尽くす「チェーン・リアクション」の可能性が、想像上のこととしてだが、映像でもなまなましく語られていることだ。
主人公は、過去には実在しなかった原爆の、その初めての爆発が、実験段階であっても、爆発させる以上は、威力として「世界を破滅させかねない」と、恐怖を抱いていた、と、映画は、描いている。彼は、有り得るかもしれないと、想像していた。そう受け止められる。これはおそろしいことである。映画が語っているとおりだとしたら、主人公は、そしてその可能性を示唆された者たちは、「世界が破滅する可能性があってもこの実験を行おう」と決意した、ということになるからだ。
その「重さ」が、ドラマのプロットとしては、大きすぎて、結果として「第二次世界大戦に於ける初の核兵器の使用」という事実が、矮小化されてしまう。現段階で指摘しておきたいのは、そのことだ。
もう一つ付け加えるなら、忘れてはならないのは、放射能による被害が矮小化された表現を見ることが、「辛い」という感じ方をする人もいる、ということだ。
低線量被曝が軽んじられている現実を前に、そう思う。
「核保有国」たちは、映画に描かれた実験の後、これまでに二千回を超える核実験を行ってきているのだ。そうしたことも踏まえて語られるべきだと思う。
低線量被曝の被害という問題が、「世界の破滅」に比べれば軽微なことであるはずはない。