ウィーンと東京を結ぶ直行便路線がまだ一つだけ残っていたが、ついに廃止。
オーストリア航空の直行便は、1989年から27年間にわたって運航されてきたというが、1993年頃からしばらく、全日空のウィーン事務所がある時代もあった。バブルの時代の流れではあった。その頃、劇団の旗揚げメンバーで高校時代からの友人でもあったK君がウィーン大に留学しそのまま当地で会社を作って成功することになる。
私の初めてのヨーロッパは、ウィーンだった。
1994年の〈ウィーン芸術週間〉で『神々の国の首都』を上演、その後、三度のウィーン公演をしたことになる。
最後が2009年の『屋根裏』公演(写真、開場前のミーティングでまだ椅子を並べていない)だった。占部房子が出たバージョンだ。作品に合わせて、かわいらしい小さい劇場だった(マイアミなんかでは六〇〇人くらい入る劇場でも同作品をやったことはあるのだが)。当時ブルク劇場に所属していた自転車で疾走する原サチコさんが皆を連れて同劇場を案内してくれた。
ウィーンの街並みは、好きだ。石畳も美しく、親しみやすい。いろいろと懐かしいが、遠い街になっていくような気がして、さみしい。
オーストリア航空は、日本とヨーロッパ各都市との中継地としてもウィーン直行便を活用していたはずだったのだが。
同社は、東京との路線に代わって5日からウィーンと香港を結ぶ直行便を新たに就航させるという。
海外に行っても、どの国でも、日本語の表示は減ったと思う。二十年近く前、シカゴの空港でコンコースの位置を示すときに「コンコース」とカタカナ表示があって笑ったことを思い出す。今は中国語が増えた。場所によってはハングルも。
世の流れである。
オーストリア航空の直行便は、1989年から27年間にわたって運航されてきたというが、1993年頃からしばらく、全日空のウィーン事務所がある時代もあった。バブルの時代の流れではあった。その頃、劇団の旗揚げメンバーで高校時代からの友人でもあったK君がウィーン大に留学しそのまま当地で会社を作って成功することになる。
私の初めてのヨーロッパは、ウィーンだった。
1994年の〈ウィーン芸術週間〉で『神々の国の首都』を上演、その後、三度のウィーン公演をしたことになる。
最後が2009年の『屋根裏』公演(写真、開場前のミーティングでまだ椅子を並べていない)だった。占部房子が出たバージョンだ。作品に合わせて、かわいらしい小さい劇場だった(マイアミなんかでは六〇〇人くらい入る劇場でも同作品をやったことはあるのだが)。当時ブルク劇場に所属していた自転車で疾走する原サチコさんが皆を連れて同劇場を案内してくれた。
ウィーンの街並みは、好きだ。石畳も美しく、親しみやすい。いろいろと懐かしいが、遠い街になっていくような気がして、さみしい。
オーストリア航空は、日本とヨーロッパ各都市との中継地としてもウィーン直行便を活用していたはずだったのだが。
同社は、東京との路線に代わって5日からウィーンと香港を結ぶ直行便を新たに就航させるという。
海外に行っても、どの国でも、日本語の表示は減ったと思う。二十年近く前、シカゴの空港でコンコースの位置を示すときに「コンコース」とカタカナ表示があって笑ったことを思い出す。今は中国語が増えた。場所によってはハングルも。
世の流れである。