映画『ハドソン川の奇跡』(邦題)は、クリント・イーストウッド監督の最新作にして、私の主観では、ここ十数年の彼の作品の中でも、『許されざる者』以来の傑作である。一時間半余りの短い、シンプルな映画だが、分厚さがある。
私は、2002年、そして2004年に全国ツアーで、『CVR』という劇を上演している。
『CVR』は、その頭文字が示すように、事故に遭った飛行機の最後の30分を録音している「コックピット・ヴォイス・レコーダー」を意味するし、同時にその頭文字を確認するための通信時の確認のための名称をもとに「チャーリー(C)ヴィクター(V)ロミオ(R)」とも呼ばれる。事故の最後の30分の録音をテキストとして上演する凄まじい劇で、アメリカのオリジナル版を演出した連中と一緒に日本版を共同演出したのだ。共同といっても、御巣鷹山に墜落したJAL123便の場面などは、ほぼ自分一人で作った。アメリカでも長く上演されていたし、日本操縦士協会の後援を得てきっちりと専門家の鑑賞に耐えうる作品として初演した国内版も大きな反響を呼び、全てのテレビ局の番組で紹介され、追加公演5ステージも完売のヒット、2年後には全国ツアーを敢行した。初演の年、『最後の一人までが全体である』『屋根裏』『阿部定と睦夫』と併せて、私が二度目の読売演劇大賞・最優秀演出家賞を受賞したさいの対象作品の一つでもあった。
飛行機、あの重たい鉄の塊がなぜ飛ぶのか、という理屈を、この『CVR』という劇を作る過程を通して、幾ばくかは学んでいたため、この『ハドソン川の奇跡』のシチュエーションのヤバさを理解でき、本当にはらはらとした。飛行機は推進力で飛ぶのだ。どんなベテランパイロットでも、推進力を失いつつある機を、そのパワーダウンの度合いを測りながら自在に扱うことは、容易ではない。
アメリカといえば国内線を「エアバス」と言う人たちである。機体に何かトラブルがあって、いったん客席に着いたのに乗り換えるときなど、もう、ほんとに馴れたもので、日常の乗り物である。それ故、こうした事故が突然襲うさいは、身構えていないだけに、すーっとみぞおちに入ってくる危機の感覚のはずである。
この映画が独創的なのは、ハドソン川への着水という方法で危機を脱したトム・ハンクス演じる主人公の機長が、見事に事故を回避したにもかかわらず、「より合理的な方法で、着水による事故のリスクを避け、機体を損傷せず空港に着陸できたのではないか」という航空関係機関や保険会社の疑惑に晒され、自ら「もしも」を想定し、「空港に向かおうとしてマンハッタンのビル群に激突する」という悪夢を繰り返し見る部分である。のっけから、その「架空のPTSD」に苦しめられる主人公の妄想が、この作品が飛行機事故の映画ではなく、「どのような人間も「もしも」に囚われて精神を病むことになるかもしれない」という現代人の精神の病巣、その侵蝕力を描いていて、衝撃的である。
『ハドソン川の奇跡』の原題は、主人公の名前『サリー』である。
ほとんど忍耐しているだけのようなサリー=トム・ハンクスも、リアリティとは主に受け身のさいに獲得するものだという私の理論どおり、無駄のない、これまでで最上といえる演技だ。彼とイーストウッド監督のセッションの現場を想像しただけで、わくわくする。
この主人公は、『スミス都へ行く』以来の、「一番まともなアメリカ人」を体現した、ミスター・アメリカである。『スミス〜』のジェームス・スチュアートの地方出身議員とは違って、「田舎者なのにアメリカの理想を担っている」というドラマ的なアングルがないぶん、こちらの方が高度である。
簡単に言おう。『スミス〜』の主人公と違って、機長サリーは、「プロ」である。「プロ」であることを、まっとうしているだけだ。つまり、彼の為したことは、「奇跡」ではない。すべきことをしただけなのだ。
おそらく、現代のアメリカは、ここに新たな起点を置きたいと思っているのだろう。あらゆる方向に惑い、利用されてしまう「理想主義」ではなく、「すべき仕事をまっとうする」という、謙虚な原則を確認するところから出直したいと思っている。
それはアメリカの願う「自浄作用」であり、「機能を果たしている民主主義」への憧憬の確認である。
水上警備隊、消防隊や警察が出てくるが、時として軍隊と同様にある意味「権力」「武力」を象徴するそれらの人々が、「戦闘ではないこと」に尽力する姿をこそ、この映画は描きたかったのであろう。
私は、機動隊・自衛隊が住民たちを蹂躙する沖縄・高江の現状を思い、平時なのに「戦争」を想起させるその惨状と、この映画の人命救助以外には使われない「権力」「武力」のあり方が、真逆であることを思い、暗澹とした。
数少ない欠点としては、主人公の過去の訓練等の回想シーンが意味が、今ひとつよくわからないところだろう。過去の蓄積がものを言ったということではあるのだろうけれど。
私はこの映画をIMAXで観た。「ドラマ」の類の映画だからそんな大スクリーンの臨場感がそれほど必要と思わなかったが、そんなことはなくて、じつはこれほどIMAXに相応しい映画もなかった。コンピュータグラフィック技術の発達は、「ドラマ」のリアルに貢献している。それほどに、映画らしい映画だ。可能な方は、IMAXで観たほうがいい。
実話が題材だけに、エンディング、タイトルロールに「本物」の人々のドキュメンタリーが出てくる。珍しい例だが、映画の物語本編が、「本物」に負けていない。
すぐれた映画は常にそうだが、本当に励まされる。少なくとも私は、元気が出た。
私は、2002年、そして2004年に全国ツアーで、『CVR』という劇を上演している。
『CVR』は、その頭文字が示すように、事故に遭った飛行機の最後の30分を録音している「コックピット・ヴォイス・レコーダー」を意味するし、同時にその頭文字を確認するための通信時の確認のための名称をもとに「チャーリー(C)ヴィクター(V)ロミオ(R)」とも呼ばれる。事故の最後の30分の録音をテキストとして上演する凄まじい劇で、アメリカのオリジナル版を演出した連中と一緒に日本版を共同演出したのだ。共同といっても、御巣鷹山に墜落したJAL123便の場面などは、ほぼ自分一人で作った。アメリカでも長く上演されていたし、日本操縦士協会の後援を得てきっちりと専門家の鑑賞に耐えうる作品として初演した国内版も大きな反響を呼び、全てのテレビ局の番組で紹介され、追加公演5ステージも完売のヒット、2年後には全国ツアーを敢行した。初演の年、『最後の一人までが全体である』『屋根裏』『阿部定と睦夫』と併せて、私が二度目の読売演劇大賞・最優秀演出家賞を受賞したさいの対象作品の一つでもあった。
飛行機、あの重たい鉄の塊がなぜ飛ぶのか、という理屈を、この『CVR』という劇を作る過程を通して、幾ばくかは学んでいたため、この『ハドソン川の奇跡』のシチュエーションのヤバさを理解でき、本当にはらはらとした。飛行機は推進力で飛ぶのだ。どんなベテランパイロットでも、推進力を失いつつある機を、そのパワーダウンの度合いを測りながら自在に扱うことは、容易ではない。
アメリカといえば国内線を「エアバス」と言う人たちである。機体に何かトラブルがあって、いったん客席に着いたのに乗り換えるときなど、もう、ほんとに馴れたもので、日常の乗り物である。それ故、こうした事故が突然襲うさいは、身構えていないだけに、すーっとみぞおちに入ってくる危機の感覚のはずである。
この映画が独創的なのは、ハドソン川への着水という方法で危機を脱したトム・ハンクス演じる主人公の機長が、見事に事故を回避したにもかかわらず、「より合理的な方法で、着水による事故のリスクを避け、機体を損傷せず空港に着陸できたのではないか」という航空関係機関や保険会社の疑惑に晒され、自ら「もしも」を想定し、「空港に向かおうとしてマンハッタンのビル群に激突する」という悪夢を繰り返し見る部分である。のっけから、その「架空のPTSD」に苦しめられる主人公の妄想が、この作品が飛行機事故の映画ではなく、「どのような人間も「もしも」に囚われて精神を病むことになるかもしれない」という現代人の精神の病巣、その侵蝕力を描いていて、衝撃的である。
『ハドソン川の奇跡』の原題は、主人公の名前『サリー』である。
ほとんど忍耐しているだけのようなサリー=トム・ハンクスも、リアリティとは主に受け身のさいに獲得するものだという私の理論どおり、無駄のない、これまでで最上といえる演技だ。彼とイーストウッド監督のセッションの現場を想像しただけで、わくわくする。
この主人公は、『スミス都へ行く』以来の、「一番まともなアメリカ人」を体現した、ミスター・アメリカである。『スミス〜』のジェームス・スチュアートの地方出身議員とは違って、「田舎者なのにアメリカの理想を担っている」というドラマ的なアングルがないぶん、こちらの方が高度である。
簡単に言おう。『スミス〜』の主人公と違って、機長サリーは、「プロ」である。「プロ」であることを、まっとうしているだけだ。つまり、彼の為したことは、「奇跡」ではない。すべきことをしただけなのだ。
おそらく、現代のアメリカは、ここに新たな起点を置きたいと思っているのだろう。あらゆる方向に惑い、利用されてしまう「理想主義」ではなく、「すべき仕事をまっとうする」という、謙虚な原則を確認するところから出直したいと思っている。
それはアメリカの願う「自浄作用」であり、「機能を果たしている民主主義」への憧憬の確認である。
水上警備隊、消防隊や警察が出てくるが、時として軍隊と同様にある意味「権力」「武力」を象徴するそれらの人々が、「戦闘ではないこと」に尽力する姿をこそ、この映画は描きたかったのであろう。
私は、機動隊・自衛隊が住民たちを蹂躙する沖縄・高江の現状を思い、平時なのに「戦争」を想起させるその惨状と、この映画の人命救助以外には使われない「権力」「武力」のあり方が、真逆であることを思い、暗澹とした。
数少ない欠点としては、主人公の過去の訓練等の回想シーンが意味が、今ひとつよくわからないところだろう。過去の蓄積がものを言ったということではあるのだろうけれど。
私はこの映画をIMAXで観た。「ドラマ」の類の映画だからそんな大スクリーンの臨場感がそれほど必要と思わなかったが、そんなことはなくて、じつはこれほどIMAXに相応しい映画もなかった。コンピュータグラフィック技術の発達は、「ドラマ」のリアルに貢献している。それほどに、映画らしい映画だ。可能な方は、IMAXで観たほうがいい。
実話が題材だけに、エンディング、タイトルロールに「本物」の人々のドキュメンタリーが出てくる。珍しい例だが、映画の物語本編が、「本物」に負けていない。
すぐれた映画は常にそうだが、本当に励まされる。少なくとも私は、元気が出た。