沖縄タイムスの阿部岳記者は自らのことを、その講演会を取材した作家の百田尚樹氏から与えられた呼び名を用い、「「悪魔に魂を売った記者」とよばれた男」と題する新聞社説(コメント日報)を書いた。
以下。
作家の百田尚樹氏から「悪魔に魂を売った記者」という異名をいただいた。出世のために初心を捨て、偏った記事を書いているからだという。数百人の聴衆がどっと沸き、私も笑ってしまった
▼先月末に名護市で開かれた講演会。事前に申し込んで取材に行くと、最前列中央の席に案内された。壇上でマイクを握った百田氏は、最初から最後まで私を名指しして嘲笑を向けてきた
▼特異な状況だからこそ、普通に取材する。そう決めたが、一度メモを取る手が止まった。「中国が琉球を乗っ取ったら、阿部さんの娘さんは中国人の慰み者になります」
▼逆らう連中は痛い目に遭えばいい。ただし自分は高みの見物、手を汚すのは他者、という態度。あえて尊厳を傷つける言葉を探す人間性。そして沖縄を簡単に切り捨てる思考
▼百田氏は2015年に問題になった自民党本部の講演でも「沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」と話している。県民は実際に沖縄戦で本土を守る時間稼ぎの道具として使われ、4人に1人が犠牲になった。歴史に向き合えば本土の側から口にできる言葉ではない
▼差別と卑怯(ひきょう)は続く。百田氏はなおも「反対派の中核は中国の工作員」などとデマを並べ、沖縄への米軍基地集中を正当化する。「沖縄大好き」というリップサービスがむなしい。(阿部岳)
「中国が琉球を乗っ取ったら、阿部さんの娘さんは中国人の慰み者になります」
この百田発言の、なんという気持ちの悪さ。
これはつまり、ある国を別な国が乗っ取ったら、のっとった国の者がのっとられた国の「娘さん」を「慰み者」にすることは、当然起きる摂理だ、としているわけだ。
百田発言のその論理で言えば、百田氏側が別な国を「のっとった」ら、その地の「娘さん」を「慰み者」にすることは、当然起きる、する事になる。と言っているわけである。
かつての日本軍が侵略地でしてきたことはそういうことだ、と、自ら認めていると推察される。
また、そうでなければ、
百田氏側が別な国を「のっとった」としても、その地の「娘さん」を「慰み者」にすることはしないが、
中国が別な国を「のっとった」ら、その地の「娘さん」を「慰み者」にする、
といっているわけで、百田自身の論理によって、明確に
「中国の人たちはそういうことをする人たちだ」
と決めつけ、あきらかに「差別」していることになる。
その意味で、「中国が琉球を乗っ取ったら、阿部さんの娘さんは中国人の慰み者になります」の一言だけで、
百田氏の中国の人たちに対する差別、決めつけ、「ヘイト」はあからさまであり、中国の人たちはほんとうによくぞ我慢してくれているものだと思う。
ひどい話だ。
言っておくが、「誰かがどこかを乗っ取ったら、その地の子女を慰み者にする」、と、「推定の話」を言いだしたのは、あくまでも百田氏である。
別な誰かが彼を庇うつもりで言うかもしれない。
「軍隊とはそういうものだ」「男ばかりで大勢が長時間一箇所に滞在していれば、そういうことは起きがちだ」。
それがつまり、
「被侵略地の子女は侵略者の慰み者になる」
という論法の根拠になるということだ。
では、昨日の事件についての、以下の報道は、どうだ。
入浴施設で女児を盗撮したとして、大阪府警浪速署は6日、児童買春・ポルノ禁止法違反(盗撮製造)容疑で、陸上自衛隊与那国沿岸監視隊の2等陸曹の男(38)=沖縄県与那国町=を書類送検した。容疑を認め「数年前から7、8回この施設で盗撮した」と話しているという。
逮捕容疑は昨年8月に4回、大阪市浪速区の入浴施設で、男性脱衣場にいた小学生くらいの女児計4人の裸の動画をスマートフォンで盗撮し、児童ポルノを製造した疑い。
与那国島に住む女児の親たちは、震え上がったことだろう。
だが、私はこのような記事を見ても、けっして「与那国に駐留している陸上自衛隊の人々」が、「差別」されてはならないと考える人間だ。
人間は一人一人違う。犯罪を犯す人の家族や同僚でも、同じに扱われてはならないはずだからだ。
このことを理由に自衛隊の駐留を否定することは、したくないのだ。
自衛隊の南西諸島への駐留を否定するに足る正当な理由は、他に、じゅうぶんある。
しかし、
「軍隊とはそういうものだ」「男ばかりで大勢が長時間一箇所に滞在していれば、そういうことは起きがちだ」。
という考え方を持つ者は、
あるいは、その考え方を持つ人が多いという事実にこそ怯える者は、
とうぜん、
「いや、彼だけではないかもしれない」
と思うだろう。
百田氏のような発言がある限り、そう思う人が出てくることは、止められないかもしれない。
つまり、「中国が琉球を乗っ取ったら、あなたの娘さんは中国人の慰み者になります」という考え方は、結果として、全方位に向けた「差別」なのである。